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身代わりで嫁いだ死神侯爵に、異常なほど溺愛されています ~虐げられ令嬢は最恐英雄の唯一の花嫁でした~  作者: 新川さとし


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第29話 風向き


 王の執務室は、朝から静かだった。


 静かであることは、平穏であることとは違う。


 扉の外には人の気配があり、廊下の遠くでは靴音もする。それでも、この部屋だけが切り離されているように感じられるのは、ここで交わされる言葉が、すべてを決めてしまうからだ。


 王は窓際に立ち、指先で硝子の冷たさを確かめるように触れた。背後に、王妃がいる。


「話は聞いている」


 王妃は、王の言葉を待った。


「あなたが望むなら私が動くこともやぶさかではないが」


 王の声は低く、淡々としていた。慰めでも叱責でもない。ただ、国の舵を握る者の声音だった。


 王妃は返事をしなかった。

 言葉にするには遅すぎたものと、口にするには危険すぎるものが、胸に重なっているためだ。


 王は振り返らずに続ける。


「理由は不明ではあるが、侯爵は、すでに自分で調べ、自分で動いている」


 王妃は、わずかに頭を下げる。


 その言葉の裏にあるものが、彼女にはわかる。

 王は、すでに理解している。「王命で成立した婚姻」という建前が、今はもう本質ではないことを。


「だとしたら、こちらが主導権を取り戻す必要などないのは、そなたの言うとおりだろう」


 王妃の胸の内に理解を示しつつ、個人の感情を政治の言葉に包み直そうとしている。


「侯爵はすでに動いた。自分の意志で選び、自分の責任で守ろうとしている」


 王妃は、王の言葉が自分の意を汲み取ろうとしているのだと察し、黙って見つめている。


 本当は怒りがある。後悔がある。自分自身への苛立ちもある。

 だが、伯爵が国のために心血を注いでいることもまた事実。それをとがめだてれば、これまで、良いように利用してきたのは誰なのかと、今度は王家が責められることになる。


「我々がすべきことは明白だ」


 王は表情のない顔で、王妃を見た。たとえ身内であっても、政治的決定には、私情を絡ませてはならない。


 王は王なりに王妃を思いやり、王妃も王を支えるべくある。


 互いは信頼関係に結ばれているが「夫婦の愛情」と政治とを厳密に分けねば、国が傾きかねない。


 それを一番よく知っているのも、お互いなのである。


 王妃は短く、硬く、発言した。


「侯爵の邪魔とならないこと」

「そうだな」


 王は頷いた。

 それは、王の意志を示したのではなく「合意」である。同じ決定であっても「そうせよ」と言ったのか、言わなかったのかは、大きな違いなのだ。


 あえて、王宮が「救済」には動かない。今できる最大のこと――邪魔をしないことに尽きる。


 王は、そこに同意した。しかし、一言だけ付け足した。


「仮に、伯爵家が何か言おうと、王家は、これ以上口を挟まない。これ以上は、侯爵の領分だ」


 調整を経て上げられた意見に基づいて王が下した判断である。


 これが王宮としての結論となった。


 深々と頭を下げた王妃の表情には、わずかな安堵が浮かんでいた。


 ここからは、社交の空気の部分となる。それは王妃の専決事項でもあった。


 つまり――王家にとって、全てが「決着済み」となったわけである。


     *


 王都の社交界は、真実よりウワサが先立つ。


 人々はワイングラスを持ちながら空気を探り、ダンスをしながら、お互いの視線を探り合う。


 最初の噂は、同情だった。


 死神ともウワサされる英雄侯爵に嫁がされた伯爵令嬢。しかも、式もなく、家を追い出されるように。輿入れの準備も出来ずにひっそりと。


 家から送り出したのも、自家の馬車でなかったこともニュースなら、侯爵家の馬車が、たった一台で迎えに来たのだという。


 大勢付くはずの侍従や侍女、輿入れの荷物は排除されたに違いない。


 それは、高位貴族家の婚姻というよりも、人質を受け取る儀式のようなもの。

 聞けば、リセにも通えないほどに病弱な娘である。 


 人々は、ハンカチで目を覆い「お気の毒」「可哀想に」「きっと泣き暮らしているに違いない」と、口角をわずかに上げて囁き合った。


 噂が一巡りすると、主に女性同士の集まりで囁かれた。


「死神侯爵は、やはり死神でしたわね」

「えぇ。王都から、たった一人、引き離して」

「誰にも会えないようにしていらっしゃるそうよ」

「王都の商人達は、誰も呼ばれないわ」


 お茶会や社交の手紙は、型にはまったように、侯爵自身から無骨な断りの返事。


 公爵夫人がわざわざ誘いに訪れても、その場限り。

 

 そして決め手となるのは、王都の商人達の様子だ。


 宝石を扱う者も、ドレスを扱う者も、王都での有力な商会は、限られている。


 お互いが、どの家にどこの商会が呼ばれたのかを熟知し、腹を探り合うのが高位貴族の夫人たちがなすべきこと。


 しかし、どこの商会も、侯爵家には呼ばれてないことが事実である。


 ウワサは断片の事実を拾い上げて、また新たなウワサを作り出していく。


「死神侯爵が、王命の婚姻に怒り、伯爵令嬢を閉じ込め、日夜虐待している」


 そんな囁きが、甘い菓子と一緒に口に運ばれる。


 だが、その噂は、まるで、春雷が凍てつく冬を吹き飛ばしたかのように、ある日突然、形を変えた。


 誰が訂正し、何を言ったのか。まして公式発表があるわけでもなく、ただ、そういう空気になった。


 変えたのが「誰」なのか、誰も知らないとなれば、人々はピンとくる。やんごとなき筋であろう、と。


 しかし、それを確かめるのは不敬でもあり、ソフィストケートされた振る舞いでもない。


 ウワサとは支配する空気が決めるものなのだから。

 

 空気を読むことに長けた貴族達は、王宮に醸し出された気配を読み、流れを変えたのである。


「伯爵家からの照会が黙殺されたらしい」

「黙殺というより、あれは拒絶では?」

「たった一枚の便せんだけを返したそうだ」

「侯爵家として応じられないとだけ……」


 他家に届けられた手紙で、しかも、その家に恥となる話である。それが、どこから伝えられたのか、誰も知らない。


 しかし、人々は、それを事実として受け止め、事実として話した。


 そして恐るべきは、その噂が流れても、侯爵家も、そして伯爵家も何も言わなかったこと。


 社交界は、沈黙に弱い。沈黙は、想像を呼ぶのである。


 次に囁かれ始めたのは、こういう類の言葉だった。


「侯爵は、伯爵家と断絶したがっている」

「ひょっとしたら、侯爵は守っているのではないか?」 


 そこまで言って、誰もが口をつぐむ。

 守っている、という言葉は、噂としては甘すぎる。

 けれど、甘い噂は広がるのが早い。


 そして、そこに添えられるのは「白い花」の話だ。


「侯爵邸には、白い花――リュミエール・エーデルの花壇があるらしい」


 これは衝撃的な噂である。


 貴族達には、正式名のアルバ・ノビリスとして知られているその花。野に咲く姿が美しいとされ、この「アウレリア王国」の国花として大切にされている。


しかし、庶民がリュミエール・エーデルと呼んで慈しむと言っても、本来は、素朴で小さな花である。貴族が、わざわざ花壇を作ってまで育てる花ではないのだ。


 しかも、高山植物でもあるため、育てるのは大変難しいとされていた。


 なんらかの意図が?


 その疑問符に答えるかのように別の噂も用意されていた。


 奥様が、いつもその花壇のそばにいらっしゃる。

 英雄侯爵が、たいそう、その花をお好みだ。



 誰も、白い花と伯爵家令嬢の結婚についての答えを持っていない。けれど、社交界は答えがなくても満足する。


 「空気が変わった」ことそのものが、最大の情報だからだ。

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