第28話 君に救われた
その日の夕食は、昨日までとそっくりで、それでいて、全く違っていた。
いつ話を切り出せば良いのか。
どうやって尋ねよう。
勇気を奮い起こして口を開きかけると、今度は何を聞けば良いのかわからなくなる。
夕食を終え、部屋に戻っても、落ち着かなかった。
胸の奥に、昨日までなかった緊張が、はっきりと居座っている。
庭師の話が、何度も頭の中でリフレイン。
図書室の詩。
そして、白い花。
聞かなければならない言葉がいったい何なのかもわからない。
ただ、一つだけわかっていることがある。
――このままではダメ。
私を守ろうとしてくださる、侯爵様も、この邸の人たちも信じられる。
でも、ここで、知ろうとしなければ、後悔する。そんな気がした。
意を決した私はリディアを呼んだ。
「奥様、いかがいたしましたか」
いつものように柔和な笑顔を見せて、私の言葉を全て受け入れると、全身で伝えてくるリディア。
「お願い。侯爵様に…… 侯爵様とお話ししたいの」
一度ゆっくりと瞬きをしたリディアは「かしこまりました」と受け止めてくれた。
そこから、幾ばくもなく、リディアが呼びに来てくれた。
「奥様」
「はい」
「今回は、私が遣いをいたしましたが……」
しまった。こういう時はメイドに頼むべきだったのだろうか?
言葉を先読みして謝ろうとした私を、リディアは笑顔で制してくる。
「以後は、用件があるときは…… いえ、会いたいと思ったときは、そのまま、お部屋に向かうことをお勧めします」
「え?」
「ご夫婦ですので。それに、用件があるときと申しましたが、できれば、要件がないときも、会いたいと思ってくださると、きっとお喜びなさいますわ」
リディアは、私が反応する前に、書斎のドアをノックしていた。
「奥様が、いらっしゃいました」
「入ってくれ」
低く、落ち着いた声。
いつもと変わらないはずなのに、その声に、少しだけ心臓が早く打った。
「さ、どうぞ。ご用命があれば、鈴を」
そう言って、ドアを閉じてしまった。
目の前には侯爵様。
机の前に立っていた。
書類はすでに片付けられていて、灯りも柔らかい。
「どうした?」
問いかけは簡潔だった。けれど、こちらを見つめる視線は、逃げ場を与えないほど真っ直ぐだった。
「……お話が、あります」
一瞬だけ、侯爵様の視線が揺れた。それから、ゆっくりと頷く。
「座ろう」
向かい合って椅子に腰掛ける。その距離が、今日に限ってはやけに近く感じられた。
私は、深く息を吸う。
「図書室で、詩を見つけました」
侯爵様は、何も言わなかった。一つ頷いて、私の言葉を待っている。
「中二階に、額装されていた詩です。あれは、私が、かつてコレージュで書いたものです」
ここで、止められるかもしれない。頭のどこかで、そんな気がしていた。けれど、侯爵様は目を伏せただけで、口を挟まなかった。
「なぜ、あの詩が、あそこにあるのか。知りたいと思いました」
言葉にした瞬間、逃げ道が消えた気がした。しばらくの沈黙のあと、侯爵様が立ち上がった。
「少し、待っていてくれ」
そう言って、書斎の奥にある机に回り込むと、引き出しから何かを取り出した。
細長い包みを、大切そうに持って、戻ってきた。
テーブルに置かれた。絹だろうか? サラサラとした、とても高質な布を、そっと解いた。
一目で「宝物を取り出す」動作だとわかる。
現れたのは、ひどく傷んだ紙だった。折れ、擦れ、角はほとんど形を留めていない。それでも、文字だけは、確かに読めた。
いえ、文字だけではない。その紙自体を見たことがある。そして、そこに書かれた見覚えのある、言葉。
息を呑んだ。
「これが原本だ。戦場に届けられた、君の手紙だ」
侯爵様の声は、静かだった。
「戦場で、ずっと持っていた。いや、離せなかったと言った方が正しい」
私は、その紙に目が釘付けされている。
「この詩を書いたのが君だと知ったのは、ずっと後だ」
ゆっくりと、言葉が続く。
「だが――この詩がなければ、私は死んでいた」
はっきりとした断言だった。
「極限の状況で、人は生きる理由を失うことがある。命の瀬戸際では、このまま終わる方が楽だと思うこともね」
ふと、遠い目は、戦場を思い馳せているに違いなかった。
「だが、私は最後まで…… 本当に、最後まで、生きる理由を……違うな。帰る理由を、けして失わずにすんだのだ」
侯爵様は、私を見た。
「この詩を読んでから、私は、一瞬たりとも、帰るべき場所を見失ったことはない」
その目は、まっすぐに私を見つめている。真剣だった。
「君の言葉が、私を生かした」
胸が、締め付けられる。
「やっと言える」
「え?」
「ありがとう」
重い言葉だった。そこは、命の重さが込められているのだ。
私は、それを「私なんて」と謙遜することだけはしてはならないと思った。
謙遜すれば、それは、自分では無く、侯爵様の命を、いえ、侯爵様のそばにあった全ての命を否定する気がしたから。
たぶん、私の返事を侯爵様は期待してない、というよりも、言葉を返さないことこそを望んでいたんだと思う。
不器用な笑顔を――確かに、笑顔だった――を浮かべたあとで「王命の件だが」と言葉を足した。
「だから、王命は、命令であって命令ではない。結婚することは、確かに王命だったが、相手は…… 私が望んだ」
「え?」
「誰を迎えるか、考えるまでもない。戦場で終戦を知った時、すでに、私の中で決まっていた」
その言葉が、静かに落ちる。
「私は、君に救われた。だから、今度は、私が守ると決めただけだ」
これは告白なのかもしれない。そう思った。
しかし、甘さというよりも、それ以上に重々しさがあった。
言葉が出ない私に、侯爵様は、少しだけ居ずまいを正して言った。
「愛している、と言えば楽だろう。だが、それでは足りない」
侯爵様は、原本をそっと包み直した。
「君がここにいる理由は、それだ」
言葉が、胸の奥まで届く。
私はゆっくりと息を吐いた。
「ありがとうございます」
震えそうになる声を、必死で抑えながら、辛うじて声を出した。
「やっと、聞けました」
侯爵様は、わずかに目を細めた。
「急ぐ必要はない。答えを出すのも、受け取るのも」
その言葉が、何より優しかった。白い花は、言葉にされなくても、ここにあった。
この夜、私は初めて知った。
この人が、私を選んだ理由を。
そして――私が、ここにいる意味を。




