第26話 白い花の理由
黎明
元々静かなお屋敷だけど、音というよりも気配でわかる。
まだ、邸全体が目覚める前……
この邸に来てから、初めて、こんなに早く目覚めてしまった。
昨日、見てしまった「詩」のことが頭から離れないせいだろう。
色紙に書いたのは誰なのかはわからないけど、書かれていた詩は、絶対に、わたしの詩だった。
なぜ、それを侯爵様が飾っているのか、気になって仕方がない。かといって、口に出して聞く勇気はなかった。
だからこそ、今、花を見たいと思った。
「中庭くらいなら、大丈夫」
自分に勇気を出すために、あえて言葉にした。
衣装部屋に入って、ドレスに着替える。部屋中にあふれ、シチュエーションごとにまとめられた服も、やっと選べるようになってきた。
ただ「どれを着ても良い」というのは、なかなか慣れないけれど。
モーニングドレスに着替えて、外套を羽織る。
目的は、あの花壇。
いつか侯爵様はおっしゃった。
「私とあなただけが愛でれば良い」
白い花。そして、わたしの詩。
考えてみれば、この邸に来て、最初の食事から、テーブルを飾っていた白い花だ。
あの時、侯爵様は「自ら選んだ」とおっしゃっていた。
胸が高鳴る。
あの花に何か秘密があるんだと思えてならない。
花壇に近づこうとした時に見えた。
身体の大きな男性がいた。
大事そうに土をいじっている。
右足が不自由そうで、動きはゆっくりだけど、理由はそれだけじゃないと思えるほど、丁寧に、丁寧に花に向き合っているように見えた。
迷うことなく、その男性に近づいた。
意外にも、かなり若い人らしい。
「おはようございます」
ビクンとなった男性は、振り向いた。
わたしを見るなり、あたふたと手袋を外し、帽子を胸に当てて深く頭を下げながら跪いた。
「奥様。おはようございます。申し訳ありません」
「いいえ。お世話をしてくれていたんでしょ? 庭師の方かしら」
むしろ、邪魔してしまった申し訳なさがある。
「お目汚し失礼いたしました、すぐに下がりますので」
「そんなこと……ないです。あなたが世話をしてくれるから、こんなに綺麗に咲いてくれるのだもの」
「めっそうもない」
脚が痛いはずなのに、こんな姿勢は見ている方が辛い。
幸い、庭は芝生になっている。
心の中でリディアに「ごめんなさい」を言ってから、芝生に腰を下ろした。
侯爵夫人としては失格だと思う。だけど、痛む脚で跪く姿を見ると、腕や背中をムチ打たれた傷跡がズキリとした気がして、そのままにできなかった。
「ほら、私は、座ってしまったわ。あなたも、楽になさって」
「奥様、そ、そんな」
「ごめんなさい。いつも手入れをしてくださったんですね。気付かなくて。少しだけお話を聞かせてくださいな」
ペコペコと頭を下げた男性は、何かを決意した表情になると脚を伸ばして座り込んだ。
「失礼いたします。庭師として雇っていただいているジョンと申します。平民です」
「いつもお庭を綺麗にしてくださったのですね。ありがとうございます」
「そんな、もったいないお言葉です。庭師として、まだまだ駆け出しでして。それに……」
そこで一拍置いた男性は「お話しさせていただいても?」と私を直接見ないようにしながら、顔を上げた。
「ええ。むしろ、お話を聞きたいわ」
「あの、オレは、あ、私は」
「ふふっ。普通にお話ししてくださいな。私の方がずいぶんと年下だと思いますよ」
「あ、えっと、あの…… では失礼して」
庭師だという男性は、一瞬、口を引き結んでから、思い切ったように話し始めた。
「奥様には……知っておいていただきたいんです。この花壇が、どうしてここにあるのか」
わたしは息を止めた。
「お館様はオレの命の恩人なんです」
庭師の口調は切々としていた。
わたしは花壇を見た。
白い花が揺れている。
夜が明けきる前の淡い光の中でも、その白さだけは浮き上がって見える。
「この花……侯爵様がお好きなの?」
つい、その先を知るのが怖くて口をついて出た。
庭師は一瞬だけ目を上げて、それから、ゆっくり頷いた。
「はい。……好き、というより」
言いかけて、庭師は唇を噛んだ。何を言うか迷っているように見えた。
知っておきたい。けれど、知っていいのか。昨日から、ずっとその境目に立たされている気がする。
でも、ここで勇気を出さなきゃダメ。
「聞かせて」
庭師は小さく頭を下げた。
「この花壇は、お館様の命令で作りました」
それは、以前、侯爵様から聞かされた。
けれど、彼の出す雰囲気が、ただの命令とは違っていると伝えている。
庭師の声には、きちんとした重さがあった。
「オレは、お館様と同じ戦場で戦ったんです。兵士でした」
わたしは思わず庭師の顔を見た。
頬のあたりに薄い傷がある。恐らく、脚の傷も戦場で受けたのだろうと思わせた。
「脚の怪我で、兵士には戻れなくなりました」
庭師は、視線を足元に落とした。言い訳のようではなく、報告のような声だった。
「この国は戦争に勝ちました。でも、傷を負って帰ってみれば、働き口なんてなくて。その時、お館様が拾ってくださったんです。庭を任せると言われました」
拾ってくださった。
その言葉が、妙に胸に刺さった。
「でも……それ以上に」
庭師の声が少し低くなった。
「オレの命は、戦場で、お館様に救われたものです」
わたしは返事ができなかったが、庭師はそれを待たずに続けた。
「今でも、覚えてます」
庭師は花壇の白い花に顔を向けた。けれども、その視線は、花よりも彼方を見ているのがわかった。
「その時、ウチの部隊は罠にはめられて、周り中が敵だらけ。オレは脚をやられて逃げようもない。覚悟しました…… そこへ、死神侯爵が助けに現れたんです」
「死神?」
思わず、言葉を繰り返してしまった。なぜ、助けに現れて悪く言われるの?
しかし、庭師の男の表情は、嬉しそうだった。貶めているつもりを一切感じない。むしろ憧れの表情だ。
「えぇ。すみません、奥様に言うべき言葉じゃないのはわかっているんですが、戦場で、オレたちはお館様に憧れたんです」
「死神に憧れたんですか?」
「もちろんですとも。お館様の行くところ行くところ、敵が片っ端から倒されるんです。だから、いつも言ってました。死神侯爵さえいれば、オレたちの勝ちは決まったなって。オレたちの憧れ……英雄です」
ひょっとしたら、王都の貴族達――女性たちは、大きく勘違いをしていたのかもしれない。
侯爵様は確かに死神だった――敵にとって。
唖然とするわたしの表情を彼は何か勘違いしたのだろう。少し慌てた口調になった。
「侯爵様なのに、あれだけお強いなんて。王都じゃ、ああいう強さは想像もされてないでしょうね。でもオレたちが憧れた死神侯爵が助けに来てくれた。あの時のオレは、どれだけ嬉しかったか」
言葉が途切れた。それでも「ただ、それでも、です」と続けた。
「確かに死神の二つ名はダテではありませんでした。強かった。本当にすごかった。でも、脚をやられているオレに肩を貸しながらでは、無理がありすぎました」
庭師は喉を鳴らした。
「お館様も、あちこちに傷を負ったんです。それでも、オレを見捨てずに。自分も血を流してるのに…… オレは、もう良いですって言ったんです」
侯爵様を道連れにするなんて、出来ませんからね、と言葉を押し出してきた。
淡々と、けれども、命を覚悟した言葉だった。
「そうしたら、なんて言ったと思います?」
「必ず助ける、でしょうか?」
「そうですね、そんな意味のことも言ってました。でも、侯爵様は、詩を、たぶん、ですけど、剣を振るいながら詩を暗唱したんです」
笑いというより、息が漏れたような表情だった。
「自分も傷を負いながら、私に肩を貸して、敵の真ん中を通ってるんですよ? それなのに詩を口ずさんでるんです」
わたしの心臓が跳ねた。
昨日見た額装の詩を思い出してしまった。
あれが、戦場に届いたのだろうか。
これは、もう「知らなかった私」ではいられない話だと、直感していた。
庭師は白い花を見たまま、ふっと笑った。
「生きて帰るぞ。帰って……この白い花を一緒に見るんだって」
私は動けない。
白い花。一緒に。帰って……見る。それは、詩で歌ったことと、同じだった。
「後で聞いたら、その時、お館様は意識がなかったそうです。ただひたすら、剣を振るい、詩を口ずさみ、オレを見捨てなかった」
庭師は小さく息を吸って、続けた。
「その後、奇跡のように味方が戻ってきて、オレたちは助かりました。そこで初めて安心したのか、お館様は倒れたんです」
「まぁ……」
「味方に運ばれながら、お館様がうわごとのように口にしていたのは、あの白い花を一緒に見るんだってことでした」
私は、唇を開いたのに声が出なかった。それを見たのだろう。庭師は、ためらうように眉を寄せた。
「すみません。奥様に、こういう話をするのは……」
「いいの」
私の声は、自分でも驚くほど小さかった。
これは偶然ではない。偶然では、済まない。
「それで、オレは決めたんです」
庭師の声が、少しだけ明るくなった。
「命を救ってもらった恩を返すとか、そういう大層な話じゃなくて」
庭師は花壇の縁に視線を落とした。
土の粒を、丁寧にならした場所。
「白い花の咲く、この花壇を、いちばん綺麗な状態で保つ。それが、オレの生きる理由だって」
私は胸の奥が熱くなった。けれど、それは泣きたい熱さではなかった。
もっと、別の種類の熱だった。理解してしまう熱であり、逃げられなくなる熱でもある。
「すみませんこんな話。でも、奥様に知ってほしかったんです」
庭師は真っ直ぐに言った。
「この花壇は、ただの飾りじゃない。お館様の命の話で……オレの命の話です。だから」
言葉が途切れた。けれど、最後は、はっきり言った。
「奥様がここを歩かれるなら、この花壇を、意味のあるものとして見てほしいんです。すみません、こんなこと」
私は、白い花を見た。
小さく揺れている。
風のせいなのか、私の目が揺れているのか、わからない。
「ありがとう」
それだけ言うのが精一杯だった。
庭師は深く頭を下げた。
「めっそうもございません」
私は花壇の縁に、そっと指を伸ばした。
土は冷たい。
冷たいのに、その奥に熱がある気がした。
私の知らないところで、私の詩が誰かの命に繋がっていた。
そして、その中心にいたのは――侯爵様。
胸の奥で、言葉にならない問いが形を取り始めていた。
どうして。
なぜ。
いつから。
心に浮かぶ言葉はたくさんある。けれど、今はまだ、白い花の揺れを見つめるだけだった。




