第23話 無風の圧
アルベルト・ヴァルツ伯爵は、書類の束を前に、淡々と決裁を進めている。
それでも、朝に持ちこまれた書類は、昼を過ぎても、減るより増えることの方が多い。
一心不乱、ただ忠実に、ヴァルツ伯爵は職務に取り組む。
少なくとも、その間は、癒えることのない心の痛みから目を逸らすことができた
生涯ただ一人の愛する妻。
自分の心は、セシリアが事切れた時に、死んだのだ。
以後の自分は仕事のためにあれば良い、と決めた。
実際、家のことを任せる女を定めて以来、ほぼ、家に帰ってない。そこかしこにあるセシリアの思い出に接するたびに、心が悲鳴を上げるからだ。
その点、無機的な仕事が山のように降ってくる執務室は良い。
戦後処理に関する調整が一段落した今、様々な軋轢を処理する場面に入っている。
夫を亡くした寡婦、孤児たちの生活をどうするか。あるいは、怪我をした兵士が仕事を求めて訴え出ている。
嘆願書に、貴族家からの相談、新しい法律を求める派閥に、これを好機と捉えて取り入れようとする商人達の動き。
税制そのものも、見直す必要が囁かれている。
当然、そうなると派閥の利益を最大にするために、人事に介入したがる高位貴族が登場する。
派閥の調整には手を焼くが、書類レベルになってくれれば、お手のもの。
担当者を決めて綿密な調査をさせ、精密な取り組みを構築する。税の細かい計算に経費の計算。どれもが彼の得意分野だ。
新しい書類を決裁した時に、控えめなノック。
「入れ」
現れたのは、伯爵家の家庭管理者だった。
「ここに来るのは控えよと言ってあるはずだが?」
形式的な一礼のあと、オデットは恐る恐る言葉を出した。
「ごめんなさい。手紙の返事の件で、急ぐかと思って」
「ふむ。何と言ってきた?」
「それが、侯爵さんのところから、返事がないです」
アルベルトの手が止まった。
「返答が、ない? もう、ずいぶん経ったが」
「はい。言われたとおりに書いたのですが…… それに伯爵家の封蝋も使いました。でも、紙一枚、返ってきません」
一瞬だけ、思考が空白になる。
返答がない?
官僚的に言えば拒否、ないしは「処理不要」と判断されたという意味だ。
アルベルトがこの立場になって以来で、そのような仕打ちに遭ったことはない。
屈辱、いや、困惑と疑問で、眉根を寄せていた。
「単なる確認だぞ? 侯爵夫人となった娘を案じる、形式的な照会だった」
「私は、言われたとおりに書いて、きちんと侍従に届けさせました」
伯爵家の使用人が、めったなことをするはずがない。
となると、こちらの手紙を拒否、あるいは「不要」と切り捨てたのか。理解に苦しむ判断だった。
まるで、好んで敵対心を見せつけているかのような行動は、意味がわからない。
アルベルトは、椅子に深く腰を下ろした。
これは想定外だった。
王家の意向により、王命の形を取った婚姻だ。
そこに政治的な意味を持たせるにしても、これはわけが分からない。
『親からの手紙を無視するだと?』
思わず「そこまで不満であったか」と一人呟くと、その声を拾ったオデットは「あの、やっぱり侯爵様はお怒りで?」と生な言葉で尋ねてきた。
一瞬、返事に困る。
「わからないから、手紙を出したのだ」
声を荒げてはいないが、オデットがビクッと縮こまったのを見て、アルベルトは、一つ頷いて、空気を変えようとした。
『仮に、王命で受け入れた娘に不満があったなら、それはそれで、不満の…… あるいは呪詛に満ちた返事をするはずだ』
侯爵の、なんらかの意思表示がなされるはずなのに。
まるで、無風。
つまり、侯爵家はアルベルトに対して「説明する必要も気持ちもない」と判断したということだ。
「ずいぶんと強気だ」
思わず、独り言が漏れる。
確かに、アルベルトは伯爵であり、英雄侯爵よりも立場は低い。しかし、アルベルトは単なる義父という立場では無いのだ。
王命により結ばれた婚家の当主である。
それは、すなわち王命によって父の立場を得た存在だ、と言い換えることもできるのだ。
それなのに、軽侮した振る舞いを取る。これを大げさに言えば、王家への反発、反抗と言われても申し開きようがない態度と見なされるだろう。
『英雄侯爵は、貴族的な振る舞いができる人だと聞いていたが、理解できん』
アルベルトにとって、娘の婚姻は既に「完了した案件」だ。
王命があり、侯爵家が受け、成立し、既に妻として同居している。
不満があるなら、王家に直接言えなくても、それなりの意志を伯爵家に見せれば良い。
むしろ、それを汲み取るための手紙でもあるのだから。
「不出来な娘であったな?」
オデットに向けての言葉だが、その返事など期待してない。報告された事象を、再度、確認するのは無駄なこと。
「そのような娘を差し出したのは、父親として失敗であったか」
父親らしいことは何一つしてこなかったが「侯爵家の嫁」となることは、娘にとっては幸いなはず。
たとえ「死神」と言われていても、事実は違うことをアルベルトはちゃんと知っている。
顔に傷があったとしても、不出来な娘にとっては我慢すべきことのはずだ。
「いや、エレーナは、ひどく、ワガママなんだったな。となると、顔が怖いだのなんだのと泣き叫んで、侯爵が手を焼いているのかもしれん」
娘にとって最善だと判断して、父親なりに幸せを祈ったことでもあった。だが、わがままで、頭の悪い娘にありがちな「見た目だけで拒否」をしている可能性を考えてしまった。
『あるいは、死神侯爵のウワサに、怯えて正気を失っているのか。だとしたら、侯爵としては、怒りに震えるどころではすまないぞ』
その結果が「沈黙」という侯爵の反応だとしたら、かなり困った事態になっているのかもしれない。
そこまで考えたところで、先日、王妃に謎かけのような問答をされたことを思いだした。
あれは、王妃様が何かを知っていると言うこと。
「ではなんだ? 何を知っていらっしゃる?」
「あの…… 旦那様?」
厳粛で、何事にも即断即決するはずのアルベルトが、何とも悩み深い表情となることに、オデットは心底驚いた。
いつもなら、何かを考えているときに声など掛けないが、ついつい声を出してしまったのは、オデットなりに心配したからだ。
だが、アルベルトは、集中しようとしているところに、女が口を出すなど、ありえないことだとしか思えない。
「あぁ、うるさい。邪魔だ。報告が済んだなら帰れ。追って連絡する」
オデットがしおしおと部屋を出て行く後ろ姿を見て、アルベルトは、初めて違和感を覚えた。
「家庭管理者」
ぽつりと、言葉を口にする。
アルベルトにとって妻とは、たった一人、かけがえのない人のことを指す。オデットは「妻」という立場を与えて、家庭を任せただけ。
娘の養育と日常の管理を任せ、自分が報告を受け、判断する。
しかし、王妃様の言葉は、そこに何かしらの「意」を持っていたことは明白だ。
となると、何かで齟齬があったと言うことか?
官僚として、家庭に深入りするのは非効率。
それが、アルベルトの思考だったが、王妃様は、そこに何かしらを見た……
「となると、英雄侯爵の反応も、そこに原因があるということだろうか」
あの英雄侯爵は、エレーナを前にして、自分で判断している。
アルベルトは、初めて気づき始めていた。
何かを間違えたのか?
しかし、事態としては「娘の結婚相手が愚痴を言わない。追従を言わない」という程度のこと。
危機感を覚える理由としては弱い。
「……様子を見るか」
そう結論づける。
王家が動かない以上、こちらから動く必要はないはずだ。余計なことをすれば、かえって面倒ごとが起こりかねない。
娘の件も、時間が経てば落ち着くだろう。
アルベルトは、そう判断した。
その判断が、どれほど致命的か、理解していなかった。
とは言え、理解したら、間に合っていたのかは不明ではあった。
全ては過去の判断の結果なのだから。
一方、王都の別の場所。
王妃は、側近から簡潔な報告を受けていた。
「ヴァルツ伯爵は、手紙を黙殺されたことについて、静観の構えです」
「そう」
王妃は、書類に視線を落とした。
伯爵が動かないということは、この猶予を「何もしなくていい時間」だと誤解している証拠だ。
本来、それは「理解するための時間」でなければならない。
理解できない方なのね。仕事は優秀なのに。
王妃は、静かにペンを置いた。
選択肢は、既に閉じられているのだと、窓の外を見たのである。




