第22話 閉じられる道
侯爵家の執務室は、レースのカーテン越しに注ぐ午後の光が柔らかく満ちていた。
机に広げられた書簡を、侯爵は二度読んでから畳む。
「ずいぶん、揃ってきたな」
呟きは、独り言に近い。
これで三通目だ。
セドリックは机の脇に立ち、言葉を挟まない。主人が求めるまで口を閉ざしているのも、必要なことである。
「公爵家、辺境伯家、そして、これか……」
侯爵は指先で書簡の端を揃えた。
「社交の場に備えて、友好を深めて…… そして、侯爵夫人として相応しい場を用意してさしあげたい、ね」
いずれも、同じ形を別の言葉でなぞっているだけ。
「善意という名のやっかいな道筋だな」
「はい」
主の求めは、思考の言語化であろう。
セドリックは、低く答える。
「王家の意向を先読みし、先回りする動きかと」
「王家が動いたから、動いた」
侯爵は立ち上がり、窓辺に寄った。
庭の一角。
白い花が、変わらずそこにある。
あの場所に、彼女が立つことは多くなった。
「彼らは、急いでいる」
「ええ。理由は明白です」
セドリックは静かに続けた。
「奥様の過去が、完全に整理される前に、現在の立場を固定したい」
「つまり?」
「社交に出せば、噂は都合良く上書きできる。問題は誰にとって都合が良いかと言うところかと存じます」
侯爵は、わずかに目を細めた。
「都合良く、か」
「ええ。王家も、公爵家も、どこもです」
セドリックの言葉は、淡々としている。
「奥様の状態を知り、いかようにも染められるという予想で動いているのでしょう」
その言葉に、侯爵は即座に頷いた。
「それは許さない」
短い断言だった。
机に戻り、侯爵は新しい紙を引き寄せる。手紙を次々と書いていく。
「返答は、すべて同じにする」
「はい」
「侯爵家としての社交は、当面控える。妻は体調と学びを優先する。必要な場は、私が判断すると」
「当面という言葉を?」
入れるのか、という問い。それは、侯爵の決断を問う意味もある。
「ああ。完全拒否ではない。自らが何をどう望むか、それが判明するまでだ」
ペンが紙を走る。
それは、拒絶ではなく「線引き」の手紙だった。
「それと」
侯爵は、書き終えた紙を置いたまま言う。
「先日の実家からの問い合わせは?」
「伯爵家から、形式的な照会が一通。侯爵夫人としてのご様子を案じている、とのことですが、返信は、まだです」
「案じている、か」
乾いた声音だった。
「返信は不要とする」
セドリックがわずかに目を上げる。
「完全に?」
「当面は、だ」
侯爵は迷わなかった。
「彼らが心配しているのは、本人のことではない。立場と体面、そして利益だ」
「承知しました」
しばし、静寂が落ちる。
外では、風が木々を揺らしている。
「動きは、これで止まりますか」
セドリックの問いに、侯爵は首を横に振った。
「いいや。次は、もっと直接だろう」
「王家、でしょうか」
「あるいは、その名を借りた誰かだ」
侯爵は署名を終えるとセドリックに渡した。これを書簡の形にし、送り出すのが役目だ。
「だが、誰が来ても同じだ」
「奥様には?」
「知らせない」
即答だった。
「知る必要がある時は、私が言う。彼女が一人で立てるようになった時だ」
セドリックは一礼する。
「お館様」
「何だ」
「奥様は、この頃、よく笑顔を見せてくださるようになりました」
侯爵は、一瞬だけ手を止めた。
「そうか」
「はい。以前より、ずっと自然に」
そこで口を閉ざすセドリックに一つ頷いてから、侯爵は窓の外を見た。
白い花が、風に揺れている。
「なら、それでいい」
静かに言い切る。
「外がどれだけ騒ごうと、今は――ここを静かに保つ」
それが、彼の選択だった。
そしてその選択が、場合によっては別の嵐を招くことを、侯爵はよく分かっていた。
だが、それでも――守ると決めた以上、迷わない。
どんな風が吹こうと、自分が立つ。
もう、決めたのだ。
侯爵家で静かな、けれども断固たる決定がなされている頃……
王妃の執務机には、一冊の薄い報告書が置かれていた。
王妃は、改めて開かなくても、全てそらんじられるほどに読み込んでいた。
側近を使い、精密に調査した結果だ。
必要な情報は、すべて揃っている。
家庭内のことですら、元メイド、元料理人、元庭師…… 詳細で、膨大な証言を集めてある。
言葉だけではない。伯爵家出入りの商人が、何を売り「何を売らなかったのか」まで、調べ尽くしたものだ。
当然、コレージュでの様子は、教師達からの証言も得ている。
テストの出来や課題で提出するレポートのひどさに比べて、会話したときに感じられる知性とで、ひどく違和感があったこと。特に、国語の教師からの証言は、圧倒的だった。
授業中に成された戦地への慰問の手紙の件だ。
書かれた詩の中身が、クラスの中で異色な出来であった。
家庭で時間をかけて仕上げたはずのレポートとは打って変わり、教養と知性、そして品性を兼ね備えた素晴らしいものであったという。
それは教師達の間で話題になったほどだ。
「伯爵家の姉妹は、何もかもがチグハグだ」
それがリセの教師達を含めた「評価」でもあった。
全てを調べた側近のまとめは、王妃が下した結論と事実上同じ。
義理の姉の分を含め、五年間の記録の全てを押さえた結果が、真実を物語っている。
「ヴァルツ伯爵家が――家庭管理者が「娘」をどのように扱っていたか」
ここに、曖昧な部分は一切ない。
調査は徹底的に行われたのだから。
驚くべきことに、王家が調べる前に、英雄侯爵の配下が同じことを調べた形跡すら発見したのだ……
これをどう判断し、どう持っていくのが最善なのか。
答えを探しつつあるところだ。
しかし、と王妃は独りごちる。
「あの男は、知らなかった」
そう結論づけることは簡単だった。
だが、王妃は、それですむことだとは思わない。「知らなかった」のは、免責とはならないのであるから。
王妃は、親友の顔を思い出していた。
セシリアは、感情が豊かで、誰にでも優しく、明るい人だった。
特に、子どもが生まれてからは、いつだって、笑顔だった。
彼女がいるだけで、その場の空気に幸せが満ちるのかと錯覚するほど。
娘が読む本の話、覚えたての言葉の話、可愛らしい仕草の話……
どれ一つ取っても、幸せを感じることばかりだ。
その相手に選んだ夫が、報告だけで家庭を理解したつもりになっていたという最悪の行動を五年間もとった。
王妃自身も、そんな男の言葉を信じてしまったことを悔いるしかない。
自分の選択が誤りであったと認めたくはないが、その結果がこれだ。
胸の奥で静かに疼く。
だが、感情で動いてもいけない。また、感情で動いて良い立場でもない。
できるのは「最善の判断、最良の対応」だ。
王妃は、側近を呼び、簡潔に指示した。
ヴァルマン侯爵の婚姻について、侯爵の判断を、王家は追認する形にすること。
伯爵家については、当面、静観とするが、今後の動きは逐一、報告を上げること。
側近は、即座に理解し「早速、調整して参ります」と退出した。
そう…… 調整が必要だ。
王家の意向とは、王妃一人で変えられるモノではない。時に、王自身ですらままならぬ場合がある。
決断はした。後は側近に任せるしかない。
しかし、できることはやるべきだろう。
王妃は、友人に当てるときに使う便せんを持ち出すと、ゆっくり、言葉を選びながら、手紙を綴ったのである。
王妃は、その手紙に記した名前を、心の中でなぞった。
エレーナ。
親友の忘れ形見。
王命によって結ばれた婚姻。
その娘は悪意の元に五年もの間置かれていた。
だが、それは、一人父親の責に帰すことはできない。
王家は、父親を「仕事」に使うだけ使い、家庭を顧みさせることをしなかったのだから。
この五年間、仕事に打ち込む――それが妻を喪う悲しみから逃げるためであっても――ことを、容認するどころか、利用してきたのだから。
それは間接的な加担に他ならない。
断罪されるなら、王家もまた、逃れることはできないだろう。
王妃は、そこまで考えてから、ひとつの決断を固めた。
王家は、主導権を取り戻す必要などない。大事なのは、侯爵の判断だ。
理由は不明ではあるが、侯爵は自身の手によって、事態を調べた。
だからこそ、侯爵は、すでに動いた。
自分の意志で、選び、自分の責任で守ろうとしている。
ならば、王妃がすべきことは明白だった。
政治の場で孤立させない。
王家の沈黙を、拒絶ではなく承認として機能させる。
伯爵家には、猶予を与える。
慈悲ではなく、自分が、何を見落としていたのかを理解する時間として。
王妃は、椅子から立ち上がった。
窓の外に広がる王都を見下ろす。
街の喧噪はここまで届かない、静かな光景。
だが、水面下では、すでに流れが変わり始めている。
王妃は、その変化を追いかけないと決めた。
ただ、親友の忘れ形見が、あるべき場所を得、あるべき姿を取り戻すことを見守るようにと整える。
それが、今の王妃にできる、唯一の贖いだった。




