第21話 報告だけで足りる男
王宮内、アルベルト伯爵の控え室はベッドと粗末なテーブルと椅子があるだけ。
そして、喉が渇いたら飲む水差し。食事は、食堂に行けば、いつだって用意される。
十分すぎる。
何よりも、廊下を隔てて、ドア二つを通過するだけで執務室に戻れる。
最高の能率だ。
「今日も、整っているな」
その一言で、アルベルトの朝は始まる。
王宮の執務室は、整然としているのが基本。
書類の置き場は未決と既決の箱に別れている。昨日、決裁した書類は部下が持っていったのだろう。
空き箱になった「既決」と書かれた箱を見て、満足げに肯いた。
「よろしい」
しかし、目を上げると、書棚の参考資料が一つズレているのを発見した。
「実によろしくない」
ほんの少しの乱れで、能率が落ちる。
「後で叱らねばならないだろう」
直ちに置き場所を直すと、デスクに座る。同時に、いつもの場所に置いた「覚え書き」の一行目に、慣れた手つきでメモ。
執務室は、自分も部下も、書類やペンの位置を統一することで能率が最大限になると信じている。
乱れ一つ許されない。
仕事こそ全て。
感情や、気分などという余分なモノは、仕事の邪魔になるだけだというのがアルベルトの信条だった。
早速仕事に取りかかろうとした瞬間、ノックの音。
「入れ」
そう言いつつも、飛び込みの案件は、たいてい厄介ごとだと知っている。
「伯爵、王妃陛下がお呼びです」
侍従の声に、アルベルトは即座に立ち上がった。
呼ばれた理由を考えるより先に、身体が動く。官僚として身につけた反射だ。同時に『これは業務案件と違うのでは?』という予感がして、苦い顔になっている。
その意味で、アルベルトは、感情を失っているわけではなかった。
侍従について、王妃の待つ応接室へと到着すると、既に、座っている姿に、動揺する。
貴人が官僚の到着を待つなど、あって良いことではない。
慌てるアルベルトの鼻腔に、柔らかな花の香り。
――セシリアは、この花が好きだった。
不意に胸の奥がちくりとしたが、アルベルトはその感覚を押し流した。
思い出など、仕事の邪魔にしかならない。
「アルベルト・ヴァルツ、お呼びとのことで、罷り越しました」
「久し振りですね。アルベルト」
王妃はテーブルに向かったまま、こちらを見なかった。
声は低く、静かだ。
ふわりとした動きで、こちらを見ると、機嫌が悪いわけではなさそうだ。
「朝から呼び立ててごめんなさい。少し、あなたに確認したいことがあるの」
「は。何なりと」
王妃は、ゆっくりと視線を合わせてきた。
その瞳に宿る感情を、アルベルトは正確に読み取れない。
「あなたの娘、エレーナの件です」
来たか、と思った。
だが、驚きはない。王命による婚姻なのだから、報告や確認があるのは当然だ。
「英雄侯爵との婚姻は、滞りなく成立しております。王家の意向に沿った、良い配置になったかと存じます」
事実だけを述べる。
それが、彼のやり方だ。
「そう…… 私が、先に尋ねたいのは、なぜ結婚式がなかったのかしらということなのだけど」
問いは穏やかだったが、逃げ場はない。
「英雄侯爵は前線に長くおられましたし、形式を省く判断も合理的です。娘も……」
言いかけて、言葉を選び直す。
「娘は病弱な上に社交に不慣れです。盛大な式は、かえって負担になると、家庭管理者から報告を受けております」
王妃は、わずかに目を細めた。
「家庭管理者ね」
「はい。結婚という形を取り、娘を養育させて参りました」
しばしの沈黙のままテーブルを見つめた。
それが再び向けられた瞬間、思っている以上に冷たい視線にたじろがざるを得ない。
王家に連なるものの、冷徹な視線の圧である。
一瞬、自分が何かミスをしたのか、と思いを巡らすが、何もないはずだと、自分に言い聞かせる。
その心を切り裂くように、静かな、しかし明らかに責める響きの言葉が、美しい唇から吐き出された。
「家庭管理者ね…… いいわ。あなたと妻の関係について、今はおきましょう」
射貫くような冷たい視線だ。
何が間違っている? 私は正しいはずだ。
「あなたは、その報告を、そのまま信じたのね?」
「家庭の細部まで、私が直接確認するのは現実的ではありません。信頼できる者に任せ、要点の報告を受ける。それで十分だと判断しました」
官僚として間違っていない。
アルベルトはそう確信している。
「……そう。細部、なのね」
王妃は、それ以上すぐには言葉を続けなかった。
机の上の書簡に指先を置き、しばし沈黙が落ちる。
その沈黙が、妙に長い。視線を再び上げた王妃は、怒りではなく、全ての感情をそぎ落としたもの……とアルベルトは感じた。
淡々とした口調。
「あなたは、あの子を幸せにしたと思っているの?」
直球だった。
「はい」
即答する。
「エレーナは、貴族家の娘として十分な教育を受けられなかったと聞いています。その点を考えれば、英雄侯爵の庇護のもとで静かに暮らせるなら、それは本人のためでしょう」
それは、後妻から繰り返し聞かされてきた評価だ。
勉強嫌いの劣等生。気分屋で内向的だから他人との交流を嫌う。何かと病弱。
つまり、貴族家の娘として決定的な欠陥を持っている……
だからこそ、前線帰りで実務にも理解のある英雄侯爵の妻になることは、むしろ救いだ、と考えた。
決して間違ってない。
しかし、王妃の唇が、わずかに震えたのを見て、不安を覚えたのもまた事実。
「あなたは、本当に、何も知らないのね」
「陛下?」
声の調子が変わったことに、ようやく気づく。
王妃は立ち上がった。
ゆっくりと、しかし距離を詰める。
「覚えているわね? 私は、セシリアの友人よ」
その名が出た瞬間、アルベルトの背筋が硬直した。
「彼女はね、自分の娘がどう育つか、どんな本を読み、どんな言葉を覚えるか。誰よりも我が子を気にかける人だった」
王妃の声は抑えられている。
だが、抑えきれない怒りが、その奥にある。
「その娘が、教育歴を理由に『静かにしていろ』と、その意志を尋ねることもせずに婚姻を結ぶ。社交に出る前に、他家の意向のままにされそうになる」
王妃は、首を少しだけ傾けて、右の口角を上げた。
笑顔に見せかけた、不快を示す王家独特の表情だ。
「それで、あなたは幸せにしたと言いきるの?」
アルベルトは答えに詰まった。
否定する材料が、手元にない。
しかし「正解」なら存在する。
「王家としては、侯爵家との関係を安定させ、英雄となった侯爵を臣下の序列に明確に置く意味でも、この結婚は意味があるかと存じます」
「それは王の理屈よ」
王妃の声が、さらに鋭くなった。
「私は、親友の娘の話をしているつもりだけど?」
その一言で、空気が変わった。
「あなたは、家庭を管理者に任せ、報告で納得し、結果だけを見て安心した」
責める言葉かもしれない。だが、王妃は、不快の念を右の口角を上げるだけの形で示しただけ。
「あなたのやり方は、官僚として正しいことかもしれない。でも、母を失った子に対して…… 父として、それが?」
正しいと思うのか、と無言が告げる。
アルベルトは、何も言えなかった。
言い返せる相手ではない。
亡き妻の友であるとは言え、アルベルトにとって、その人が「王妃」であることは、抜きにできないのだから。
どんな場合でも仕事を抜きにして会話などできない。
「私は、効率を考え、最善を選んだつもりです」
「ええ。あなたはそう思っているのを、知っているわ。あなたは優秀な官僚だもの」
王妃は深く息を吐いた。
「だからこそ、厄介なのよ」
沈黙が落ちる。
「王家は、あなたの有能さも、仕事に対する真摯な態度も疑っていない。だから、これまで口を出さなかった」
それは事実だ。
アルベルトは、戦後処理と官僚機構の再編で欠かせない存在だった。
「けれど、真実を知ってしまった以上、見過ごせない」
王妃は、はっきりと言った。
「英雄侯爵は、あなたの娘を、人形のように可愛がるためだけに領地にいさせているのではないわ」
アルベルトには、王妃の言わんとすることがわからない。
結婚した以上、夫が妻を可愛がるのは良いことではないのだろうか?
表情を消したつもりのアルベルトであったが、王妃は、ちゃんと「疑問」を見抜いたらしい。
「妻は、お人形さん扱いされて、嬉しいと思う?」
そこでいったん言葉を切った王妃は「優秀な官僚」の殻にヒビを入れるべく、言葉をあえて換えた。
「セシリアは、一人の人間として接する夫を喜んだのではなくて? それとも、あなたはお人形さんだと思っていたの?」
パリッと、心のどこかが割れた気がした。しかし、アルベルトは優秀な官僚である。どんな時でも、感情に流されての発言はしない。
まして、王妃相手に、表立っての反論をしようとすることはできない。なによりも、生涯ただ一人、愛した女性を「人形」扱いなど、絶対にしてない。
ここの中のざわつきを押さえて、アルベルトは懸命に言葉を抑えた。
「妻は…… 妻は、そうです。一人の人間です」
「そうね、そして英雄侯爵も、あの子を一人の人間として扱おうとしている……と思うわ。だけど、普通の結婚と形が違う」
「結婚式をしないことが?」
それほど問題なのだろうか。
「それは、些細なことよ。でも、結婚以来、領地から、いえ、邸からも、全く出ていない。それがどういう意味がお分かりかしら?」
「まさか、虐待されていると?」
その瞬間、目を見開いた王妃は、耐え切れぬとでも言いたげに、確かに笑ったのである。
クスクスと、まるで舞台で女優が笑っているという、形だけの笑いだ。
「どの口が、それを言うの?」
いったい何をおっしゃりたいのですかと、聞こうとした瞬間、王妃は、すぐ続けた。
「逆よ。守って、嵐から遠ざけているの。」
その表現に、アルベルトは眉をひそめた。
「嵐、とは?」
「あなたが知らなかった嵐よ」
王妃はそれ以上、説明しなかった。
今ここで全てを明かすつもりはない、という意思表示だ。
「覚えておきなさい、アルベルト」
最後に、静かに告げる。それは託宣の響きを持っていた。
「あなたは『善意』だったのかもしれない。でも、誠意のない善意だった。それが招いた結果よ。そして、まだ、何も終わっていない」
謁見は、それで終わった。
廊下へと出たアルベルトは、しばらく回廊に立ち尽くしていた。
自分が責められたのかどうか、判然としないが、王妃の怒りだけは、はっきりと伝わってきた。
「嵐、か」
小さく呟き、首を振る。
感情に引きずられるのは、非効率だ。
必要なのは、追加の報告と、事実確認。
ふと、あの王妃のクスクスと笑って見せた「演技」が胸に引っかかる。
「問題ない。全ては形を整えている」
そう結論づけて、彼は再び歩き出した。
自分が、決定的な何かを見落としている可能性には、まだ、気づかないまま。




