第20話 差し出される親切
その日、エレーナは朝から落ち着かなかった。
理由ははっきりしている。
先日、庭で起きた出来事――公爵家の使者が、はっきりと「自分」を測る目で見た、その感覚が、まだ身体に残っていたからだ。
公爵家という巨大な存在が、自分を探るべき「対象」と見なしている。
英雄であり、侯爵という高位の貴族であっても、社交という巨大な網の前では、個人の意志は簡単に絡め取られるのかもしれない。
実家で、義母やクラリスから受けてきた「支配」の構造が、あまりにも切実な恐れとして頭から離れない。
その事実が怖かった。
やってきた使者と侯爵で、どのような話になったのかはわからない。けれども、エレーナにだってわかる。
侯爵様にとって、不快な話し合いが行われたことは間違いない。
自分のせいで。
しかし、朝食の席の侯爵は普段通りだった。
食事の進め方も、言葉数も同じ。ぶっきらぼうであるが、ただ、エレーナを気遣う態度のままなのだ。
ただ、視線だけが違った。
エレーナがカップに手を伸ばすとき。
パンにナイフを入れるとき。
ふと考え込むように間が空いたとき。
確かめるような視線が、必ず一度、こちらに向けられる。
「何かありましたか?」
思い切って聞くと、侯爵は一拍だけ置いて答えた。
「今日、客が来る」
「私に……ですか?」
侯爵は否定も肯定もしなかった。
「正確には、侯爵家に、だ」
それ以上は言わなかった。
食後、エレーナはサロンで待つように言われた。
ドレスアップは必要ないと言われた。けれども、来客がある時に、侯爵家妻であれば、どうすればいいかを考えられる程度には常識があるつもりだった。
自分が、その場に呼ばれると言われたわけではないが、リディアに頼んで「侯爵家の妻として、当たり前の姿に」と頼んだ。
一瞬、何とも言えない顔で返事を貯めたリディアは、満面の笑みをたたえて「では、お言葉に甘えまして」と数人の侍女を呼び出したのだ。
「このような日が、これほど早く訪れますとは」
口々に、エレーナの決意と美貌を誉め称えながら、髪をセットし、化粧をしてくれる。
決意なんてしてない、という言葉は出せなかった。ただ、鏡の中で、自分が確かに「美しく」――それも信じられないほど――なっていくのを見ていると、心の中で渦巻く言葉。
これで、いいのだろうか?
誰に会い、どう振る舞うのか。
何を期待され、どう測られるのか。
何もわからない。
それでも、逃げる理由はなかった。
一通りの身支度ができてから、私が迎えたのは「待ち」の時間。
そこに、リディアが入ってくる。
「奥様、公爵夫人様がお見えです」
「私に?」
声が少し上ずったのを、自分でもわかった。
「はい。ただし……」
リディアは一瞬、言葉を選んだ。
「あくまでも、ご挨拶という形で、です」
その表情と言い方で、察した。
これは断れない類のものだ。
サロンに入ると、そこには全てが磨き抜かれた「衣装」を身見つけた端正な貴婦人がいた。
年齢は侯爵よりやや上だろうか。
立ち姿すら美しい姿勢に載せられた微笑みは柔らかい。
だが、視線の奥にあるのは、長年、社交の場で立ち続けてきた者の冷静さだった。
「初めてお目にかかりますわね。ヴァルマン侯爵夫人」
丁寧で、完璧な礼。
「公爵家当主の妻、マルグリットと申します」
「エレーナです。お目にかかれて光栄です」
教えられた通りの言葉が、自然に出た。
それを見て、公爵夫人は満足そうに微笑んだ。
「噂には伺っておりましたの。とてもお静かで、思慮深く、そしてお美しい方だと」
噂。
その一語に、胸の奥がわずかに波立つが、それすらも押さえ込んでくる笑顔の圧力。
「突然お伺いしてしまってごめんなさい。でも、どうしても一度、お目にかかりたくて」
そこにあるのは「観察」という言葉。
一部のスキもない笑顔の中に、昨日の使者の視線が重なる。
「侯爵様はお強いお方ですもの。英雄の妻として、どれほどのお立場か……皆、関心を寄せておりますの」
それは、誉め言葉の形をした現実だった。
公爵夫人は、少し身を乗り出す。
「ですから、親しい者として、ひとつご提案を」
来た、とエレーナは思った。
「もしよろしければ、私どもの茶会にご一緒なさいませんか?」
美しい声に載せられた、軽やかな言葉。けれども、その中身が酷く重いものであることは明白だった。
「ご安心なさい。最初は、身内だけですわ。堅苦しいものではありません。社交というより、慣れるための場、と申しましょうか」
慣れるため。つまり「導いて差し上げます」という親切心。
……という名の鎖を付けたいのだろう。
「侯爵夫人としてのお立場を、少しずつ、社交界で形にして差し上げたいのです」
疑いようもない善意の言葉だ。
エレーナは答えを探した。
断る理由が、見つからない。
しかし、幼い頃に見聞きした数少ない社交界のことをエレーナは覚えている。
善意の言葉こそ、社交界では出口のない檻となるのだと。
けれど、その言葉が「善意」である以上、それを断れば、巨大な軋轢を生む。
義母による「力の支配」を受けてきただけに、公爵夫人という名の巨大な力を前に、エレーナは震えるしかない。
どうしたら……
そのとき、静かな足音が近づいた。
「妻の予定は、私が管理している」
低く、落ち着いた声。
侯爵だった。
公爵夫人は一瞬だけ目を見開き、すぐに微笑みを深めた。
「あら、これは失礼を。侯爵様にもご相談すべきでしたわね」
「いえ。先に私に話が通っていない時点で、答えは出ています」
空気が、わずかに張り詰めた。
侯爵はエレーナの横に立つ。
触れない距離。
だが、はっきりと「こちら側」だと示す位置。
「妻は、まだ社交の場に立つ段階ではない」
「ですが……」
「彼女は今、自分で選ぶ力を育てているところだ」
公爵夫人の目が細くなる。
「それは、教育の不足を理由に、場から遠ざけるという意味であれば、私が誠心誠意、補いますわ?」
善意のカタマリ。しかし、妥協を一切知らない善意だ。
「逆だ」
侯爵は即答した。
「不足を、他人の善意で埋めさせるつもりはない」
その言葉に、エレーナは息を呑んだ。
「いずれ社交に出る。その時は、誰かの庇護ではなく、ヴァルマン侯爵夫人として立つ」
公爵夫人は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「なるほど。王家のお考えとは、少し違うようですわね」
王家。
その名が、はっきりと出た。
「ええ。ですから、ここで線を引いています」
侯爵は一歩も引かない。
「今は、私の責任で預かる」
預かる。
その言葉が、公爵夫人の中で何かを確定させたのだろう。
「そうですわね」
微笑みは保たれたまま、しかし、目の奥の光が変わった。
「では、本日はこれで。いずれ――その時が来た時には、またお声がけいたしますわ」
「その時は、こちらから」
侯爵の答えは簡潔だった。
公爵夫人が去ったあと、サロンには静けさが戻る。
エレーナは、しばらく動けなかった。
「私、失礼でしたか」
やっと出た声は、小さかった。
「いいや」
侯爵は即座に否定する。
「あなたは、何も間違えてない」
少しだけ間を置いて、続ける。
「ただ、外があなたを『早く形にしたい』と思っている。外の風が勝手に騒ぎ始めただけだ」
「形に……」
「社交に出せば、都合がいいからだ」
侯爵の視線が、窓の外に向く。
「あなたの過去も、教育歴も、噂も。すべて上書きできると思っているのだろう」
その言葉に、エレーナは理解した。
親切は「守る」ため。同時に、封じるためのものである。
「私は、あなたには、けっして急がせたくない。たとえ相手が、公爵であろうと…… 王家であろうと」
侯爵はエレーナを見た。
「あなたが、あなた自身として立てるようになるまで。私が風を受け止めよう」
胸の奥が、じんと熱くなる。
そのとき、セドリックが静かに一礼した。
「お館様。もう一件、報告が」
「何だ」
「奥様のご実家より、問い合わせが届いております」
空気が、変わった。
「内容は?」
「……侯爵夫人としてのご様子を案じているとのことです」
侯爵は、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「そうか」
それ以上は言わない。
だが、エレーナにはわかった。
外の圧力は、もう一方向からだけではない。
そして――過去が、こちらを見始めている。
そのことだけが、静かに、確実に告げられていた。




