第19話 境界線に立つ人
昼食のあと、エレーナはサンルームへ向かった。
日差しが柔らかく、椅子も、テーブルの花も、全てが居心地良く整えられている。
胸の奥の緊張がほどける気がして、すっかり起き入りの場所だ。
お茶を淹れてくれた侍女は、いつもより言葉少なだった。
「奥様、お砂糖はいつも通りでよろしいですか」
「はい、ありがとうございます」
静かに頷き合って、侍女は片隅へと移る。最初は、自分のためだけに彼女が控えているのだと思うと落ち着かなかったが、やっと慣れてきた。
ただし、ずっと立っていられると、さすがに気になるので、頼んで座ってもらった。
いつもの通りの、いつもの姿。しかし、何かが違う。
理由を探しても仕方がない。エレーナはそう思って、本を開いた。
読み進めていると、遠くで足音が重なった。廊下の向こうだ。普段ならあまり人が動かない時間帯のはず。
サンルームに喧噪は届かないが、エレーナはページの上に指を置いたまま、耳を澄ませてしまった。
扉が控えめにノックされた。
「奥様。失礼いたします」
リディアだった。表情はいつもの通りだが、心なしか、声が硬い。
「どうしたの?」
「ご心配をおかけしないよう、先にお伝えいたします」
「はい」
「王都より、お客様がお見えです」
「お客様が?」
エレーナは思わず本を閉じた。
王都。
その言葉だけで、胸がきゅっと縮む。
「どなたかしら?」
「公爵家のご使者でございます。公爵夫人から、奥様へご挨拶をと」
公爵夫人から……
エレーナが反応する前に、リディアが続けた。
「お館様が、執務室でお会いになります」
「私ではなく?」
口に出してから、自分が少しだけ安心したことに気づいてしまった。
リディアは頷く。
「奥様には、いつも通りお過ごしいただければと」
「そうなの」
そう答えながら、エレーナは手元を見た。
指先が、少し冷たい。
公爵夫人が、私に挨拶を?
高位貴族の夫人同士が関係を結ぶのは、社交として当然のことだと、エレーナも知っていた。「自分は侯爵夫人なのだ」と胸の中で噛みしめる。
けれど、今の自分は、その立場を受け取る準備ができているのだろうか?
胸の奥が、キュッと縮こまる気がした。
リディアはそれ以上言わず、少しだけ声を落とした。
「奥様。お館様は、奥様をないがしろにするつもりはございません」
「わかってる。……ありがとう」
わかっていると、言い切れるほどの自信はない。それであっても、侯爵様が、自分をないがしろにするおつもりがないことだけは信じられた…… 信じたいと思ったのだから。。
リディアが下がると、サンルームに静けさが戻る。
――私の知らないところで、何かが始まっている。
その感覚だけが残った。
エレーナは気分転換に庭へ出ることにした。足を動かした方が、余計な考えが薄れる。
花壇の前に立つと、白い花はいつも通りだった。
この花は、何も知らなくても、そこに在る。
エレーナはしゃがんで、花弁を見た。
そのとき、背後から、慣れた足音が近づいた。
「奥様」
振り返ると、セドリックが立っていた。今日は図書室ではなく庭だ。珍しい。
「こちらにおいででしたか」
「少しだけ。今日は、何かあるのですか?」
曖昧な問いだった。自分でもずるいと思う。しかし、公爵夫人からの来客が、単なる挨拶だけとは思えなかった。
セドリックは、すぐには答えない。答えられないのではなく、言葉を選んでいる間だった。
「ある、と申し上げるのが、正確でしょう」
「そう……」
胸が重くなる。けれど、セドリックの声は落ち着いていた。
「けれども、奥様が気に病む必要のある『ある』ではございません」
「でも、来客は」
「はい。ですが、奥様が今この場でお受けになるべきものではない、というご判断です」
その言い方は、誰の判断かを明確にしている。
侯爵様のとは、聞かなかった。しかし、セドリックは、まるでエレーナの心を見たように答えた。
「僭越ながら、お館様は、奥様をお守りしたいとのお気持ちでいらっしゃると拝察いたします」
守る。
その言葉が、なぜか胸に刺さった。
守られる側でいることに慣れていない。慣れたと思っても、どこかで「守られるほどの価値があるのか」を考えてしまう。
エレーナは花壇から立ち上がった。
「私が、まだ足りないから……ですか?」
言った瞬間、自分で嫌になった。
口にしたい言葉ではなかったのに、出てしまった。
セドリックは否定する代わりに、違う方向へ矯正した。
「奥様。足りる足りないで測ることではございません。測られる場所に立てば、それが、いつしか癖になります」
静かな声だった。
「お館様は、その癖を奥様に渡したくないのでしょう」
癖……他人の評価で自分の価値を決めるな、といっているのだ。
思い当たる。
あの家で、生きるために、ずっと身につけてきたもの。
エレーナは唇を噛みそうになり、代わりに息を吐いた。
「私は、どうすれば」
「奥様は、いつも通りで結構です」
「でも、それが一番難しいです」
言うと、セドリックは少しだけ目を細めた。笑ったのではなく、理解した顔だった。
「難しいとお感じなさる奥様であればこそ、お館様にとって、守る価値がございます。もちろん、私どもも同じ気持ちでおります」
「そういう言い方、ずるいです」
エレーナが呟くと、セドリックは軽く頭を下げた。
「申し訳ありません。ですが、事実です」
そのとき、庭の入口の方で声がした。
「奥様!」
駆けてきたのはリディアだった。息が少し乱れている。
「奥様、こちらへ」
言いかけた瞬間、リディアの背後に見知らぬ男の姿があった。
瞬間、リディアの顔に、明確な怒りが浮かぶ。
一方、見知らぬ男のいでたちは、一目でわかるほどに仕立ての良い外套。
礼儀正しい立ち方は、長く、研ぎ澄まされてきたもの。
しかし、その視線は探るようなものだった。
公爵家の使者だ。
エレーナでもわかった。
男はエレーナを見つけると、すぐに頭を下げた。
「ヴァルマン侯爵夫人にご挨拶を申し上げたく」
そこまでだった。
セドリックが一歩、前に出た。
「申し訳ありません。奥様は今、お取り込み中です」
「しかし、私は正式に訪問した立場ですが?」
「正式であれば、なおさら執務室へ」
セドリックの声は柔らかい。なのに、動かしようがない壁だった。
使者の視線が揺れる。
その揺れが、外の圧力を物語っていた。
リディアがすぐに言葉を挟む。
「こちらへ。ご案内いたします」
使者は一瞬だけエレーナを見た。
まるで確認するように。価値を測るように。
その目が、エレーナの背筋を冷やした。
けれど、エレーナの肩の前に、セドリックの影が落ちる。
そして次に、庭の通路の向こうから、もう一つの影が差した。
「それ以上、妻を見るな」
低い声。
振り向くまでもない。侯爵だった。
いつもより歩幅が大きい。
怒っている、というより、何かを決断した歩き方だ。
侯爵は使者の前で止まり、視線だけで押さえつけた。
「用件は私が聞く。戻れ」
短い。
だからこそ、明確だった。ここは境界線だ。越えるなと、強烈な色彩を放つ言葉が聞こえるかのようだ。
使者は顔色を変え、深く頭を下げた。
「失礼いたしました。……すぐに」
リディアが誘導し、使者は足早に去っていった。
庭に残ったのは、エレーナとセドリックと侯爵。
エレーナは言葉を探した。
礼を言うべきか。謝るべきか。立ち去るべきか。
でも、どれも適切に思えない。
侯爵はエレーナを見た。
その目は厳しさの中に、柔らかな光を宿していた。
「怖かったか」
「……少し」
正直に言うと、侯爵の眉間の皺がわずかに緩んだ。
「次からは、誰かいる時に動くなら。私に声をかけろ」
「はい」
命令のようで、命令ではない。
これは『手順』の指示――守るための手順。
侯爵は続けた。
「今後『奥様に直接お目にかかりたい』と言う者が増える」
「……」
「あなたが答える必要はない。私が答える」
エレーナの胸の奥で、何かが沈んだ。
答える必要はないのは、ありがたい。
でも同時に「あなたには答えられない」とも聞こえてしまう。
その揺れを察したのか、侯爵は言葉を足した。
「あなたが答える場面は、私が選ぶ」
選ぶ。
その一語が、エレーナの胸を少しだけ軽くした。
侯爵は踵を返しかけて、ふと思い出したように一言だけ残す。
「昼は、約束通り一緒に食べる。支度をして待て」
それだけ言って、侯爵は去った。
セドリックも、いつもの距離へ戻る。
庭に、白い花だけが残った。
エレーナは花を見つめる。
外の目は、測ろうとした。
でも、その前に、境界線に立つ人がいた。
その事実が、胸の奥でじわりと効いてくる。
私は守られている。
今日の出来事は、言葉ではなく行動で、それを教えてくれたのだと、エレーナは気付いたのだった。




