第17話 選んだもの
その日、エレーナは図書室で、いつもより奥の棚に立っていた。
大判の地図帳や年代記が並ぶ一角だ。以前なら、詩集や随筆のある棚に自然と足が向いていたが、今日は、こっちだ。
理由は自分でもわからなかった。
背表紙を一つずつ確かめる。
王国史や近隣諸国の歴史や地理
「懐かしく感じるのも不思議ね」
辛うじて通わせてもらった前期課程でもこうした内容は学んでいる。
「こっちはリセの内容ね。ふふっ、自習になってしまったけど」
経済や、法律の本が並んでいた。
リセでは、詩や文芸だけではなく、こういったことについてレポートの課題が毎週、出されていた。
クラリスは、それを「ヒマなんでしょ。ヤッておきなさい」と言って、パーティだ、お茶会だと忙しそうだった。
エレーナが代筆しているのを知っていた義母は、それを咎めないどころか、課題が最高点を取れないと、手をムチ打った。
何のために、お前がいるんだ、と。
だから、必死になって勉強する必要があった。家事をしながらの勉強は辛くないと言えばウソになる。
けれども、心が現実世界から遊離される時間は、貴重だったのかもしれない。
その学びを、さらに高度にした本……どれも重く、内容も決して軽くはない。
侯爵家が関わる通商記録に、古い裁判の結果。そして逆に最新の法律集。
目立たないが、本に大変なお金を掛け、手間を掛けて整理されている図書室だ。
そんな大切な場所を自由に使える喜び。
彼女は、もう迷っていなかった。
侯爵家が関わることを学ぼうと、手当たり次第に、本を抜き取った。
セドリックは少し離れた書架の前で、その様子を見ていた。
声をかけることはしない。図書室での彼の役目は、助言を求められたときだけ応じることだ。
エレーナは一冊を抜き取り、数頁を開いた。
自分の知識でも、何とか理解できそうだ。
少し考えてから、棚に戻す。
次の本を取る。
今度は、最後まで戻さなかった。
静かに机へ運び、椅子を引く。
座り方も、ページをめくる手つきも落ち着いている。以前見られた、周囲を気にする癖はなかった。
しばらくして、セドリックが声をかけた。
「差し出がましく、申し訳ありません。お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「はい」
「今日は、随分と実務寄りの棚をお選びですね」
エレーナは顔を上げ、少し考えてから答えた。
「難しそうだとは思いました。でも……今は、これが読みたい気がして」
「理由を伺っても?」
「理由…… ですか」
問い返したあと、彼女は首を振った。
「はっきりした理由はありません。ただ、今の自分は、こちらを読みたい…… いいえ、知りたいと思ったからです」
それが求められているとも思わない。けれどもエレーナは、ハッキリと「知りたい」と思ったのだ。
セドリックは、その言葉を聞いて、ほんのわずかに目を細めた。
「なるほど。お時間をいただき恐縮です。ご質問などございました、お申し付けください」
恭しく下がったセドリックは、再び「石」に戻った。
エレーナは再び本に視線を落とす。
選んだのは、誰かのための知識ではない。今の自分が「知りたい」と思うことが載っている。ただ、それだけで、本を読むのが楽しくなった。
それで十分だと、思っていたのだろう。
その日の夕刻。
侯爵は執務室で、本日最後の決裁書類に目を通していた。机の上は、ようやく片付いたのだ。
ノックの音。
「入れ」
入ってきたのはセドリックだった。
「奥様の件で、ご報告がございます」
侯爵は視線を上げる。
「何か問題でも?」
「いいえ。むしろ、その逆です」
セドリックは簡潔に、昼間の図書室での出来事を伝えた。
本の棚の選び方。
迷いのなさ。
そして、彼女が明確に口にした言葉。
「『知りたいと思ったからです』と」
その言葉を聞いたとき、侯爵のペンが止まった。
「……そうか」
短い返事だったが、そこに含まれた意味を、侯爵は理解した。
椅子にもたれ、少し考える。
彼女は、前に進み始めている。
その認識が、はっきりと形を取った瞬間だった。
「よく見ていてくれた」
「私の仕事です」
セドリックは一礼する。
だが、今日の報告はそれだけではなかった。
「もう一つ。先ほどの王家からの手紙の件です。うかがってもよろしゅうございますか?」
侯爵の視線が鋭くなる。
「内容は正式な照会だった。侯爵夫人の公的な扱いについて正面からの質問だ」
「そろそろかとは思っておりましたが」
王宮は、彼女が侯爵家の妻として迎えられたのか、知りたがっている。侯爵の真意を確かめたいのだろう。
侯爵は立ち上がり、窓辺に向かった。
庭の一角に、白い花が見える。昼間、彼女が立っていた場所だ。
今、名を呼んでも、確かに応えるだろう。
だが、それは彼女が選んだ一歩ではない。
侯爵は、静かに言った。
「返答は、私が書く」
王家への手紙を侯爵本人が書く。それは儀礼や通信の意味を越え、すでに政治の領域である。
「承知しました」
「ただし」
侯爵は厳しい目で机を睨みつけたまま、続けた。
「彼女の名を外に出すのは、まだだ。しばらく…… もう少し先にしよう」
セドリックは一瞬だけ迷い、それから肯いた。
「今が、境目とお考えなのですね」
「ああ」
守るために待ってきた時間が、意味を持ち始めている。
選ぶことを覚えた者に、次に必要なのは、背負わされることではない。
選んだ結果に、手を差し伸べられることだと侯爵は知っていた。
その決意を察したセドリックは、侯爵家の紋章入りの便せんを用意した。
「あと少しだ。誰にも邪魔はさせない」
そのことだけは、はっきりと決意していた。




