第16話 この花壇は
二週間が経とうとしていた。
侯爵様のお仕事関係の場所以外、この邸の全てに足を運んでいた。
想像以上に広い邸の中も、どこにどんなお部屋があるか、どんな人たちが働いているのか、全てが頭の中に整理できていた。
歩き回る私に、働いている人たちは、恭しく頭を下げてくれる。
そこにあるのは敬意。そして好奇心だった。
私がちょっと、昨日と違う動きをすれば、すぐに周りは動いてくれた。
リディアは「何か必要なものが?」と尋ねてくれるし、侍女達は、お茶の用意を、と気を遣ってくれる。
食事だって、そう。
出される料理は全て配慮が行き届いて、食べやすくサーブされてきた。
私がテーブルマナーも貴族の娘として最低限のことはでき、シルバーの使い方だって人並みにできることがわかったのだろう。食べやすさや量が「普通の料理」に近づいてきたのは、きっと、細かい観察の結果のはずだ。
全てが私中心の生活。けれども、何かが引っかかる。
それは、ほんの些細な違和感から始まった。
午前中、私はいつものように図書室へ向かった。
セドリックがいる静かな場所で、本を開く時間は、今では私の生活の中に自然に組み込まれている。
その日は、ほんの少しだけ視線を感じた。
若いメイドたちの目線が、いつもと違っている。
声にならない会話の中心が私に向けられたものだと気づいたのは、当然だった。
この邸で不自由なく、大切にされている。それでも、「名を呼ばれない」という一点だけが、胸の奥に残っていた。
侯爵様は無骨なしゃべり方だし、会話が多いわけでもない。けれども確かに、私を大切にしてくれている。
それは疑いようがないこと。
それでも、夫婦として踏み込む気配はなく、名も呼ばれないままだ。
働いている人たちの目には、まだ本物の妻として、映ってないのかもしれない。
『私は、このままでいいの?』
この邸で、ただ、大切にされているだけ。
『私は、この家で何ができれば良いのか?』
それがわからなかった。「名を呼ばれない理由」は、十分に説明がつく。
一度考えてしまうと、急速に開いた本の文字が、頭に入ってこなくなった。
私は静かに本を閉じ、席を立った。図書室を出たところで、ちょうどリディアと鉢合わせた。
「奥様? どうなさいました」
「少し、風に当たりたくて」
自分でも驚くほど、声を平静に出せた。だからこそ、リディアは深く追及しなかったのだろう。
庭へ向かう途中、足取りがいつもより速くなっていることに気づく。
理由は分かっていた。
答えを――自分が何をすべきか答えを探したいから。
花壇の前で立ち止まる。
あの白い花は、今日も変わらず、そこに在った。
名を呼ばれないまま、役割も、評価も与えられず、ただ、そこに在る。
無意識に、自分の立場と重ねてしまった。
その瞬間だった。
「気に入ったか?」
低く、しかし迷いのない声が、背後から落ちた。
振り返るより早く、私はそれが誰のものか理解していた。
「侯爵様?」
彼は数歩の距離を保ったまま、私を見ていた。
表情は厳しいまま。けれども、その瞳は温かさを帯びている。
その視線には、迷いがなかった。何かを伝えようとしているのだと、心に伝わってくる。
ふっと視線を外した侯爵様は、一歩、花壇に近づいた。
「この花壇は…… 作らせた」
「え?」
「この邸で働くものは、それを全員が知っている」
何かを答えるべきだ。しかし、侯爵様が何を伝えようとしているのだろうか、答えを探そうとした私は沈黙となる。
その沈黙だけで、彼には十分だったらしい。
「答えなくていい」
彼はそう言って、私の横に並ぶ。
花壇を見る侯爵様の顔に浮かんでいるのは、緊張……だと思えた。
「一つだけ、伝えておく」
花の方を向いたまま、低く響く、よく通る声が、はっきりと言った。
「この花を愛でるのは、私と…… あなただけで良い」
それだけ言うと、彼は一歩だけ距離を取って、私へと身体を向けた。
「誰が何を言おうと関係ない。それだけは覚えておいてくれ」
この花は、私のために用意された?
そよ風に、花弁が揺れた。
侯爵様は、私の目を見つめながら、ホンの少しだけ唇が動いた後、また、パッと花の方へ向いた。
言葉が急に、トーンを変えた。
「今日は、昼食を一緒に取る。そのつもりで」
声に何かが込められている。それだけはわかった。
私は、ただ頷くだけ。
だが、その背中は明確に示していた。
この花は、役割を果たすためにあるわけではない。
そう理解したとき、胸の奥の緊張がほどけた。
また、そよ風が吹いた。
名を呼ばれないまま、けれど、確かに――守られている場所で良い。
私は、ようやく、息を吐き出せたのかもしれない。




