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身代わりで嫁いだ死神侯爵に、異常なほど溺愛されています ~虐げられ令嬢は最恐英雄の唯一の花嫁でした~  作者: 新川さとし


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第15話 名を呼ばぬという判断


 王宮は今のところ静観を決め込んだらしい。

 

 今朝も、執務室は静かだった。


 相変わらず机の上は書類の山だ。


 マルセルが補助をしてくれるとは言え、決裁待ちの案件は、常に山のように出てくる。急ぐものも含めて報告を疎かにするわけにもいかない。


 だが、あの手紙を見た日よりも、少しずつ集中が戻ってきていた。


 私は一通り目を通し、署名を終えた書類を左へ寄せる。次の束に手を伸ばしたところで、ふと、ペンの動きが止まった。


 庭の方角から、かすかな声が聞こえた。


「お茶をどちらにご用意いたしましょう」


 使用人の声だ。


 短いやり取りのあと、足音が遠ざかる。


 それだけのことだが、私は視線を上げ、窓の外に目を向けていた。報告によれば、今の時間帯、彼女は庭に出ているはずだった。


 彼女は「奥様」と呼ばれた。


 当然の呼び方だ。侯爵家において、彼女はその立場にあるのだから。


 礼に適った対応だし、声色も「主」に対するものとして折り目正しい。


 むしろ、過剰なほど丁重だ。


 それでも、胸の奥に小さな引っかかりが残った。


 同時に、私は立ち上がっていた。


 窓辺に近づくと…… 見えた。


 あの花壇の前に、彼女が立っている姿が見えた。


 背筋を伸ばし、穏やかな表情で花を見ていた。


 最初の頃に見られた硬さは、ようやく薄れてきた気がする。


 自然に歩き、意のままに立ち止まり、また歩く。使用人に声をかけられれば、即座に返事をし、自分の希望を簡潔に伝えている。


 「奥様」としての振る舞いが、少しずつ身についてきていた。


 これは良い変化だ。


 だが同時に、ひとつの判断を迫られている感覚もあった。


 まだ、彼女の名を呼んでいない。


 結婚の成立後、正式な場を除き、意図的に避けてきた。名を呼ぶという行為が、彼女に与える影響を考えた結果だ。


 親しさを示すと同時に、関係性を固定するのを恐れてのこと。


 それを、今、与えるべきかどうか……


 彼女はまだ、環境に慣れている最中だ。ここが安全な場所だと理解し始めたばかりで、役割を果たす準備が整ったとは言い難い。


 王家からの書状が届いた今、その判断はより慎重であるべきだった。


 王家宛の言葉を思い出す。


 問題はないと、ただひと言。


 それが最適だと判断した。彼女を情報として差し出す段階ではない。


 背後で、控えめなノックの音がした。


「入れ」


 扉が開き、セドリックが姿を現す。歩みは静かで、執務の妨げにならない距離で止まった。


「今朝のご様子はいかがですか」


 彼は、私の視線の先を一度だけ確認してから、そう聞いた。


「落ち着いている。庭にも出ている」

「それは何よりです」


 短いやり取りだが、互いに必要な情報は共有できている。

 私は、窓の外から視線を戻した。


「王家の件については、予定どおりで進める」

「承知しました。マルセルには?」

「伝えてある」

「承りました。それが最善かと存じます」


 彼は判断を疑わない。


 沈黙が落ちる。

 私は、その沈黙を破るべきか一瞬考え、結局そのままにした。


 セドリックが先に口を開いた。


「奥様は、安定されつつあります。ただ」


 そこで一拍置く。


「自分の価値を、周囲の反応で測ろうとする兆しも見え始めています」


 おそらく、その指摘は正しい。


 私は再び窓の外を見る。


 彼女は、使用人と短く言葉を交わし、サンルームへ向かって歩き出していた。足取りは落ち着いている。迷いは見えなかった。


「もう、名を呼ぶべきだと?」


 私の問いに、セドリックは首を少しだけかしげた。


「判断は、侯爵閣下にお任せします。ただ、呼ばれない理由が、奥様の中で誤った意味を持たぬように、と」

「分かっている」


 私はそう答えたが、即答できるほど単純な問題ではない。


 名を呼べば、彼女は戸惑うだろう。

 喜びも、緊張も、責任も同時に背負うのだから。


 それを与えるのは、今か。それとも、まだ待つべきか。


 窓の向こうで、白い花が風に揺れる。彼女が足を止め、花壇を振り返る。


 その横顔を見た瞬間、名が口元まで上がった。


「エレーナ」


 声にはならなかった。


 私は視線を外し、机に戻る。


 今は、まだだ。


 彼女は、自分の居場所を見つけ始めたところだ。ここにいていいと、ようやく思える段階に来ている。その感覚を、私の判断で急がせるべきではない。


 名を呼ぶのは、その先でなければ。


 彼女が、自分の立場と価値を、他者の評価ではなく、自身の感覚で受け止められるようになったとき。そうなってからでなければ、名は重くなる。


 私は、書類の束を取り直し、次の決裁に目を通した。


 執務は続く。

 彼女の一日も、穏やかに流れている。


 まだ、という判断は、今の最善の選択だ。


 そう結論づけて、私はペンを動かし続けた。

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