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身代わりで嫁いだ死神侯爵に、異常なほど溺愛されています ~虐げられ令嬢は最恐英雄の唯一の花嫁でした~  作者: 新川さとし


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第14話 名を呼ぶ前に守るもの


 封書は、執務机の中央に置かれていた。


 王家の紋章。

 淡い色の封筒。

 重量以上に重みを感じさせる封筒だ。


 その中身が問題だった。


 届けた使者が帰った、ということは返事を急ぐ必要はない。

 今すぐ返さねばならない内容であれば、待っているのが慣例だからだ。


 考えるべきだと思いながらも、私の指先は無意識に、エレーナの名を何度もなぞっていた。


 私は椅子に深く腰を下ろし、静かに読み返す。


 形式ばった言葉に、長々とした社交の言葉。そして、遠回しな確認。貴族として当然のように美辞麗句に溢れた文章に差し込まれたひとことが浮かび上がる。


「エレーナ・ヴァルマン侯爵夫人」


 その名を、私は、また指先でなぞった。


 王家は、知りたいのだ。彼女が、どのような位置に置かれているのか。どこまでを「確保」し、どこからを「譲る」つもりなのか。


 あるいは、私がどこまで踏み込むのか。


 マルセルから「そのことだけはお許しを」と頭を下げられている。


 王家からの書状に名があったことをエレーナに教えた件だ。


 是非もない。


「随分と、気が早いな」


 マルセルは、黙ったまま、頭を下げる。


 侯爵家のあり方を熟知している男が「教えておくべきだ」と判断する以上、それは正しいのだろう。


 教えたくなかったという気持ちは確かにあるが、それが感情であることを否定できないからだ。


「構わない」

「ありがたく」

「だが、返信は今すぐはできない」


 恭しいお辞儀は、沈黙の肯定だが、この表情は「しかし」であった。


 返信を先送りにするのは、理性の判断ではないというのか。


 ひとつ、ため息を落とした。


 書状を丁寧にたたむと、机の端に置いた。


「返答は、しばらく先とするべきであるが……」


 正確には「察せ」となる。


 王家に対しては不遜とも取られかねない。だが、彼らの不作為に、これ以上報いる必要はないはずだ。

 

 そして、王家であれば、それで「最も言いたいこと」を読み取るはずだと思うのだが。


 頭を上げないマルセルは、無言のまま、私を諫めていた。


 窓の外に視線を向ける。


 夜の庭は静まり返り、あの白い花だけが、淡く光を受けていた。


 名を呼ばれないまま、そこにある白。


 私は、無意識のうちに、数々の報告を思い返していた。


「図書室でお過ごしでした」

「自然に本を手に取られて、楽しげに」

「その一冊ずつに迷いがありませんでした」


 そんな断片的な言葉を思い出しつつも、一番、聞きたい情報が頭を占めるのは当然のこと。


「庭先で、あるいはお菓子を召し上がるときに」と侍女達は言う。


「笑顔か」


 侍女達から聞いた、一番知りたい言葉。


 口をついて吐き出された言葉に、マルセルが頭を上げた。


 たった、それだけの報告だが、私には十分なのかもしれない。


 彼女は、与えられた自由に怯えず、与えられた静けさに、身を委ねることができている。


 それは、弱さではない。


 奪われ続けた者が、なお失わなかった強さだ。


「王家は、彼女を私に対する一枚の札として扱うつもりなのだろう」

 小さく、けれどもハッキリとした「御意」がマルセルから聞こえた。

 

 だが、私は違う。


 彼女は、まだ、名を呼ばれる段階にいない。

 役割も、義務も、期待も。

 それらを背負わせるには、早すぎる。


「わかった。私は今、冷静ではないのかもしれないな」


 そこに返答はなかった。


 私は、机の引き出しから別の書類を取り出した。


 王家宛の返答文。


 エレーナに関する記述は、あえて一行だけに留めた。


「問題はない」


 それ以上は、書かない。


 渡してなるものか。


 ペンを置いたとき、胸の奥に、かすかな熱が残っていることに気づいた。


「大切な人を守る」


 そう言葉にすれば、重すぎる。だが、事実。


 名を呼ぶ前に。

 役割を与える前に。

 彼女が「ここにいていい」と思える時間を、奪わせない。


 それが、私の選択なのだ。


 マルセルが書状をもって下がるのを待って、私も立ち上がり、執務室の灯りを落とそうとした。


 静かなノックの音が響いた。


 この時間だ。来る人間は決まっている。


「入れ」


 執務室の入口にセドリックが立っていた。

 いつから、そこにいたのかは分からない。だが、この男は、最初からそういう立ち位置にいる。


「王家は確保という言葉を使いません」


 どうやら手紙の件のことらしい。


「代わりに、把握という言葉を選びます。それが、あの方々の礼儀です」


 私は答えなかった。

 否定も、肯定も必要ない。


「お館様、うかがっても?」

「問題はないと……」


 セドリックはゆっくりと肯いた。


「奥様を守っているとも、預かっているとも言わず、ただ『問題はない』とだけ返す。王家にとっては、最も読みにくい答えでしょう」

「……ああ」

「ただし」


 そこで、わずかに声の調子が変わった。


「ひとつだけ、心に留めていただきたいことがございます」


 私は、ようやく彼を見た。


「奥様は、何も知らないわけではありません」


 断定ではない。

 だが、確信を含んだ言葉だった。


「名を呼ばれないことを、役割を与えられないことを、奥様は保護として受け取っておられます」


 私は、眉を寄せた。


「だが、それは」

「ええ。今は、それでよろしいかと存じます」


 セドリックは、静かに頷いた。


「しかし、その時間が長くなりすぎれば、奥様は、ご自身の価値を測ろうとなさいますでしょう」


 その言葉は、刃ではなかった。だが、確かに刺さった。


「名を呼ぶかどうかは、侯爵閣下のお考えで構いません」


 セドリックは、一歩引く。


「けれど、呼ばれない理由が、奥様ご自身の中で誤って形作られぬことだけは」


 私は、しばらく黙ってから言った。


「覚えておこう」


 それで十分だったのだろう。


 セドリックは、深く一礼した。


「では、失礼いたします」


 扉が閉まる。


 私は再び、夜の庭に目を向けた。


 白い花が、静かに揺れている。


 名を呼ばれないまま。

 だが、確かに――そこに在る。


「急ぐつもりはない」


 だが、無期限に、待たせるつもりもない。


 その自覚だけが、胸に残っていた。


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