第13話 名を呼ばれる前に
朝から空気が少しだけ違っていた。
はっきりと言葉にできるほどではない。
風の匂いが変わったわけでも、屋敷が騒がしいわけでもない。
ただ、この日は歯車がひとつ、静かに動いた日だったと思う。
そんなことを、後になって思い返すのだろう。
すっかり侯爵家の朝に馴染み始めた私が、朝食を終えて部屋に戻ろうとした時のことだった。
「奥様」
廊下で声をかけられ、足を止める。
リディアではなく、落ち着いた所作の、年配の男性。
あぁ、あの時の人だと、すぐにわかった。
私を迎えに出てくれた人だ。
この屋敷を仕切り、侯爵のお仕事になくてはならない役目の人だと、もうわかっていた。
「お時間を、少しだけよろしいでしょうか」
あくまでも敬意を持った態度だし、言葉が優しい響きだったのはたしかだ。けれども、断るという選択肢は、最初から用意されていないようにも感じた。
「はい」
応えると、男性は一礼した。
「私はマルセルと申します。家の実務を預かっております」
名乗りは簡潔だった。けれども過不足のない説明で、マルセルの優秀さがわかってしまう。
応接用の小部屋に通されると、テーブルに一通の封書が置かれていた。
これは……
いかにも上質な淡い色の封筒。封蝋には見覚えのある紋章。
胸の奥が、ひくりと音を立てる。
「王家、ですか」
いったいなぜ?
自分の声が、少しだけ硬くなったのがわかった。
マルセルは、すぐには答えなかった。
一拍、ほんのわずかな間を置いてから、口を開く。
「はい。侯爵閣下宛ての書状でございます」
宛て先が私ではない?
それだけで、少しだけ息が楽になる。
けれど、次の言葉が、その安心を静かに崩した。
「ただし」
マルセルは、封書に視線を落としたまま続ける。
「文中に、奥様のお名前がございます」
その瞬間、胸の奥が、冷たい水に触れたように静まった。
何かを言われたわけではない。まして、責められたわけでも、命じられたわけでもない。
それなのに、身体が覚えている。だって、名前を呼ばれることは、いつも何かの始まりだったから。
「中身は?」
マルセルは何かを私に伝えようとしているのは確かだ。
尋ねる声が、思ったよりも小さかった。
「内容につきましては、お館様のご指示があるまで、お伝えできません。しかしながら、王家からの便りがあったことだけはお伝えしておかねばと考えた次第です」
きっぱりとした言い方だったが、冷たさは感じない。
「つまり、ここで教えてくださったのは、マルセルさんのお考えということでしょうか?」
「侯爵家にお仕えしている者です。奥様は私の主でございます。ただ、マルセルとお呼びいただければと」
私の問いに直接答える代わりに、柔らかな笑顔で「奥様」の立場を思い出させてくれる。
その笑顔の中に何かを伝えたいのだと思った。
王家からの侯爵宛。
その中に、私の名前がある。
そして、奥様という立場を思い出させる。
私の結婚に関わる話だと、直感した。
なんで王家が私の結婚に? 心臓が速く打ち始めるのを感じた。
私がそこにたどり着くまでを十分に見極めてから、マルセルは、恭しくお辞儀をした。
「奥様におかれましては、これまで通り、お過ごしいただくことがお館様の望みであり、そしてお仕えしている我々の気持ちでございます」
これまで通り。
その言葉が、今はひどく重く感じられる。
「私は何か、今、した方が良いのでしょうか?」
気づけば、そう口にしていた。
マルセルは、ほんの一瞬だけ目を伏せ、そしてはっきりと言った。
「いいえ」
迷いのない否定だった。
「少なくとも、今は」
今は。
その言葉が、耳に残る。
「侯爵閣下は、奥様には、お体とお心を十分に休めていただき、新しい生活に慣れていただくこと。ただ、それだけをお望みです。たとえ王家から何を言われても、同様にお答えになるはずです」
深く、柔らかい笑顔のまま、それ以上は、語られなかった。
マルセルは「お時間をいただきありがとうございました」と丁寧な礼をして、案内の者を呼んだ。
封書は、マルセルが文箱に丁寧にしまっている間に、案内のメイドがやってきた。
小部屋を出るとき、ふと振り返ると、封書は最初から存在しなかったかのようにテーブルが、ただ、そこにあるだけ。
部屋に戻ると、窓の外で白い花が揺れていた。
名を呼ばれないまま。
ただ、そこに在る白。
『……まだ』
私は、胸の前でそっと手を重ねる。
まだ、私は呼ばれていない。役割も、命令も、与えられていない。
だからこそ、この静けさは、守られている。
けれど、外の世界は、私の名を見つけ始めているのかもしれない。
それでも今は、名を呼ばれる、その前に、この場所で、息をしていた。




