第12話 距離のある優しさ
第12話 距離のある優しさ
午後の光が、長い廊下に静かに伸びていた。
図書室で過ごした時間は、思っていた以上に私を落ち着かせていたらしい。
部屋に戻って椅子に腰を下ろしても、胸の奥にあった粒立つ感覚が、ほとんど消え去っていた。
『……不思議』
何もしなくていい時間に、少しずつ慣れ始めている。
それが、少しだけ怖くもあった。
ノックの音がした。
控えめで、私の気持ちを慮ってくれる響き。
「はい」
「失礼いたします」
入ってきたのは、リディアだった。
「奥様。お疲れではございませんか」
「大丈夫です」
そう、私は大丈夫。少なくとも、今は
私の声は自分で思うよりも力が入っていたらしい。彼女は安心したように微笑む。
「お館様より、お伝えすることがございます」
「侯爵様から、ですか?」
侯爵「閣下」から「様」へと変えてみた。小さな冒険。
胸が、小さく跳ねた。
それが伝わったのかどうか。リディアの笑みがクッキリしたものとなる。
「ええ。本日のお帰りが、ご夕食に間に合わないとのこと」
「そう、なのですね」
頭の中で「じゃあ、今日の夕食はないのね」と浮かびかけて、慌てて、意識がそれを消した。
義母が食べなければ、残り物がなくなる…… そんな思いは、もう、しなくていいのだから。
けれど、一抹の寂しさが浮かんだのは、あの厳つい侯爵様がいらっしゃらないとわかったからだ。
そして「侯爵様が遅くなるなら私も」と考えた瞬間、まるでそれを予想したようにリディアは続けた。
「自分を待たずに、お好きな場所で夕食を、とおっしゃいました」
「え? でも……」
「奥様が、お召し上がりにならないと」
そこで言葉を切ったリディアは、口元にだけ微笑を浮かべて、少しだけイタズラな瞳となった。
「きっと、お仕事が上手く行かないと思います」
これは、私どもの見立てなのですが、と付け加えた。
「本日はご一緒できない代わり、と申しますか」
リディアは少しだけ言葉を選んでから、続けた。
「奥様のお好きな場所で召し上がってほしいとのこと」
「え?」
どういうことだろう。
「昨日と同じディナールームでも、こちらのお部屋にご用意もできます。奥様のお好きな場所で召し上がっててほしい、と」
お好きな場所で。
その言葉が、胸に静かに落ちた。
「自分を待たないで欲しいと仰っていました」
「……」
私は、思わず視線を伏せた。
優しさだと、わかっている。
それでも、距離を取られているように感じてしまう自分もいる。
「ですが」
リディアは、柔らかく続けた。
「奥様がご不安でしたら、いつでも声をかけるように、とも」
「……はい」
それだけで、少し救われた。
その夜、昨日と同じ席に用意された食事。向かい合わせの空白は、少しだけ寂しく感じたけれど、でも、確かに穏やかな時間だった。
一人分の食卓。
バラエティー豊かで、食べやすい形にサーブされる、私のための量。
お腹に負担をかけない味付け。
『ちゃんと、考えられている』
誰かに合わせるためでも、評価されるためでもない。
ただ、私がここにいる前提で整えられている。
それが、何よりもありがたかった。
食後、部屋に戻る廊下で、外が目に入った。
昨日は気付かなかったが、あの花壇だけが薄らとライティングされていた。
白い花が、薄闇の中で静かに浮かんで見える。
『あの花は』
名を呼ばれないまま、そこに在る白。
昼間よりも、少しだけ近く感じられる。
そのとき、玄関に人の集まる気配。
使用人たちが口々に「お帰りなさいませ」と出迎える声が聞こえた。
知らず、私は急ぎ足になっていた。
玄関ホールに人影が見えた。
カシアン侯爵だった。
距離は、ある。
声をかけるほど近くはない。
けれど、彼は一瞬、こちらを見た。
視線が合う。
それだけ。
言葉も、合図もない。
それなのに――なぜか、胸の奥が温かくなった。
追い込まれない距離。
踏み込まれない優しさ。
『……この人は』
私を急がせない。だからこそ、私は、自分の意志で歩き出す
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
ぶっきらぼうなひと言だけど、そこには何かを押しつけようとする意志は見えなかった。
「遅くなった。だが、まだ仕事がある」
それだけを言うと、昨日出迎えてくれた男性を横に、ツカツカと奥へと行ってしまった。
聞き間違いではければ「ゆっくり休みなさい」と聞こえたはずだ。
言われたとおり、部屋に戻り、椅子に腰を下ろす。
今日も、何も起こらなかった。
けれど、それがもう、怖くはなかった。
白い花が、窓の外で揺れている。
名を呼ばれないまま。
それでも、確かに見守られている。
『……ここにいていい』
その思いが、少しずつ、言葉になり始めていた。




