第11話 想像していたよりも
書類に目を落としているはずなのに、数字は意味不明な羅列となり、文字が頭に入ってこない。
こんなことは、久しくなかった。
戦場でも、政務でも、感情を切り離すことには慣れていた。
自分の感情や欲から切り離して、最善の判断をするのが私の義務だからだ。
だが今日は、どうにも集中できなかった。
原因は――昨夜の食卓と、今朝の報告。そして、ほんのわずかに交わした言葉だ。
家令からの報告は簡潔だった。
よく眠られ、朝食も問題なく召し上がり、庭を少し歩いたあと図書室へ向かわれたという、それだけのこと。
問題がない、という意味でもある。
想定していた以上に、順調だ。
私は、ペンを置いた。
図書室。
その言葉が、わずかに引っかかる。
調査で知っていた。
彼女が王立学園の基礎課程では優等生だったこと。だが、妹と違い、その先に進んでいないことも。
伯爵家の娘としては異例だ。
学園には「病気のため」と届け出ていたことも聞いていた。
――やはり奪われていたのだな。
学ぶ機会も、時間も、選択肢も。
だからこそ、図書室を勧めた。ただの気まぐれに近い判断だが、彼女にとって良かったと思える。
静かな場所で、居心地良く、何も求められない空間。
それだけを与えるつもりだった。
もう一つの報告書は、図書室を管理するあの男から。
自然に本を手に取った、とある。
メモのような報告書は、必要最低限。
「特別なことは、何も」
そう前置きした上で、
「ただ、古典を基礎にした詩集を一冊。普通の女性なら、あまり手に取られない類のもの」
それを聞いた瞬間、胸の奥で何かが、わずかに音を立てた。
特別な称賛ではない。評価というほどのものでもない。
ただ――想像以上だった。
彼女は、学んでいた。いや、学ぶことを、やめていなかったと言うべきか。
あらゆるものを奪われながら……
それを、誇らしいとは思わない。そうせざるを得なかったのだから。
私は、書類の束に視線を戻しながら、戦場で受け取った、あの手紙を思い出した。
名もなき娘が、祖国の花を詠んだ詩だ。
帰還を願うのではなく、「共に見る未来」を静かに祈る言葉が編まれていた。
あれもまた、派手ではなかった。だが、忘れられなかった。
机の端に置い、小さな白い花に目が行く。
名を呼ばれないまま、そこにある花。
あの花を、食卓に置くよう命じたとき、自分が何を期待していたのかは、わからない。
ただ、彼女は、それに気づいた。
理由を問わず、説明を求めず、けれど、何かを感じ取った。
それで、十分だった。
私は、深く息を吐く。
守るべきものが、増えたわけではない。責任が変わったわけでもない。
それでも、彼女がここにいることは、最初から、間違いではなかったと思える。
評価するのは、まだ早い。
期待を載せるつもりもない。
ただ、思っていたよりも、彼女は静かに…… そして強い。
その事実だけを、胸の奥に留めて、私は、再びペンを取った。
仕事は、山ほどある。
だが今日は、ほんの少しだけ、書き進める速度を落としてもいい。
そう思えた。




