2話
団地の階段を上りながら、田所は心の中で“聞き込み”のシーンを思い描いていた。
ドラマでは、刑事がチャイムを押すと、住民がドアを開けてこう言う。
「昨日の夜、悲鳴が聞こえたんです。しかも、男の声で“やめろ!”って……」
それが決定的証言となり、事件は一気に動き出す。
だが、現実は違った。
---
田所が最初に訪ねたのは、被害者宅の隣室に住む70代の男性だった。
チャイムを押すと、ドア越しに声がした。
「新聞いらないよ」
「警察です。昨晩、何か物音など……」
「テレビ見てたから、わかんないね」
次の部屋では、40代の女性がこう言った。
「うるさい人だったけど、まあ、死ぬほどじゃないよ」
三枝が言った。
「聞き込みってのは、基本的に“知らない”“見てない”“関わりたくない”の三拍子だ。ドラマみたいに“決定的証言”は出ない。あと、住民が“実は昔、被害者と揉めてて……”って語り出すこともない。あるのは、“あの人、よく洗濯物干してた”くらいだ」
---
田所は、団地の中庭で聞き込みを続けた。
ベンチに座っていた女性に声をかけると、代わりに反応したのは彼女の飼い犬だった。
「ワン!」
「……あの、昨晩、何か気づいたことは?」
「この子が吠えたけど、たぶん猫です」
三枝が言った。
「ドラマだと、家政婦が“あの夜、奥様が何かを隠していたような……”って言うだろ。でも現実では、家政婦はそもそもいない。探偵も教授も来ない。現場に顔を突っ込んでくるのは、だいたい野次馬か、近所の犬だ」
---
田所は、団地の掲示板に貼られた“地域文芸サークル”の案内を見て言った。
「先輩、近所に作家が住んでるらしいです。もしかして、事件に関係が……」
三枝は即答した。
「ない。作家は小説を書く人だ。殺人事件の謎解きはしない。あと、近所の喫茶店のマスターが“実は元刑事”って展開もない。そもそも、喫茶店は今、定休日だ」
「じゃあ、被害者の部屋に“意味深な絵”とか……」
「ない。あるのは、洗濯物と、食べかけのカップ麺だ。あと、壁に“過去の怨念”を書いたメモとかもない。あるのは、電気代の督促状だ」
---
「じゃあ、被害者の爪の間に犯人の皮膚片が……」
「それ、鑑定に3週間かかる。しかも、結果が出ても“誰の皮膚か”はわかるだけで、“殺した証拠”にはならん。あと、DNA鑑定は“万能の証拠”じゃない。むしろ、“補強材料”だ」
「じゃあ、靴の跡とか……」
「現場が畳だ。靴の跡は残らない。あと、ドラマみたいに“この靴跡は特殊なソールパターンで……”って言うためには、全国の靴底データベースが必要だ。そんなもん、ない」
---
田所は、聞き込みの内容を記録用紙に書きながら言った。
「先輩、これって、事件解決の鍵になるかもしれませんよね」
三枝は言った。
「ならない。聞き込み記録は、裁判では“伝聞証拠”扱いになる。つまり、“誰かが言ってた”は証拠にならない。必要なのは、“誰が、何を、どう見たか”を、本人が証言することだ」
「じゃあ、聞き込みって意味ないんですか?」
「意味はある。だけど、“ドラマみたいな劇的展開”はない。あるのは、“地味な積み重ね”だけだ」




