1話
「先輩、コロシです!」
田所の声が、朝の事務室に響いた。
三枝は、カップ麺にお湯を注ぎながら言った。
「おい田所。“殺人事件”って言え。あと、声のトーンが“犯人見つけました!”になってるぞ」
「すみません……でも、ほんとに殺人なんです。団地の一室で、男性が首を絞められて亡くなってました」
「現場は?」
「布団の上です」
「じゃあ、まず“殺人”かどうかも怪しいな。布団の上で死んでたら、だいたい病死か事故死だ」
「でも、首に痕が……」
「それなら、鑑識が来るな。科捜研は来ないぞ」
「えっ、来ないんですか?」
「来ない。科捜研は“科学捜査研究所”であって、“現場捜査研究所”じゃない。現場に来るのは鑑識課。しかも、白衣で乗り込んでくることはない。あれは演出だ。実際は、腰痛持ちの佐々木さんが、静かにルミノールを吹きかけて帰る」
---
団地の一室。畳の上に布団、その上に遺体。
田所は、ドラマで見たような“現場に乗り込む科捜研”を期待していた。
白衣の女性研究員が、レーザーライトをかざしながら「この繊維は……!」と呟く――そんな場面を。
だが、現実に現れたのは、鑑識課の佐々木さん(58歳・腰痛持ち)だった。
作業着姿で、無言で道具箱を開ける。
---
佐々木さんは、スプレーボトルを取り出し、床に向かってシュッと吹いた。
ルミノール反応――血液の鉄分に反応して青白く光るはずの薬品。
田所は、部屋が青く輝くのを期待していた。
だが、何も光らなかった。
「血痕は……ないですね」
佐々木さんは、それだけ言って、次の作業に移った。
---
佐々木さんは、ガラスのコップに黒い粉をふりかけ、そっと筆でなぞった。
浮かび上がった指紋を、セロハンでペタリと採取。
田所は、ドラマで見たような“指紋照合システム”を期待していた。
画面に指紋が浮かび上がり、「一致しました!」と鳴るアラート。
だが、現実では、採取した指紋は袋に入れて、後日照合。
しかも、照合結果が出るのは数日後。
一致しても、「犯人確定」ではなく、「関係者の可能性あり」程度。
---
田所が言った。
「爪の間に皮膚片があれば、DNA鑑定で犯人が……」
三枝が即答した。
「それ、鑑定に3週間かかる。しかも、結果が出ても“誰の皮膚か”はわかるだけで、“殺した証拠”にはならん。あと、毛髪は毛根がついてないと無意味。抜け毛じゃダメだ」
佐々木さんが補足する。
「あと、DNA鑑定は予算が必要です。今回は、自白が取れれば使いません」
田所は、ドラマで見た“DNA鑑定で真犯人が浮かび上がる”展開を思い出していた。
だが、現実では、予算と時間の壁が立ちはだかる。
---
「靴の跡とか、繊維の付着とか……」
田所が言うと、佐々木さんは畳を見て首を振った。
「畳には靴跡は残りません。繊維も、布団と服が同じ素材なら、判別できません」
三枝が言った。
「ドラマみたいに“特殊なソールパターン”とか言うためには、全国の靴底データベースが必要だ。そんなもん、ない。あと、“この繊維は犯人のものだ!”って言ったら、鑑識が怒る。“断定するな”って」
---
佐々木さんは、デジカメを取り出し、無言でパシャパシャと撮影を始めた。
遺体、布団、窓、玄関、靴、ゴミ箱、冷蔵庫――すべてを淡々と記録。
田所は、ドラマで見たような“現場写真を見ながら推理する刑事”を思い描いていた。
だが、現実では、写真は記録用であり、推理には使われない。
「この写真、何に使うんですか?」
「報告書に添付します。あと、裁判で“現場状況”を説明するためです」
---
作業を終えた佐々木さんは、道具を片付けながら言った。
「じゃ、報告書は明日出します。PDFで」
田所は、ドラマで見たような“現場での鑑識の推理”を期待していた。
だが、現実では、鑑識は“分析する人”であり、“推理する人”ではない。
三枝が言った。
「科捜研は来ない。鑑識はしゃべらない。現場は光らない。あと、ルミノールは、だいたい反応しない」




