“前世=現代日本”を捨てて活きた異世界〜『婚約破棄までの10日間』
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(夫は、家具職人だったわ)
手製の家具に囲まれた素朴な家で二人で慎ましく楽しく暮らしていた。自宅は工房を兼ねており、常に木の香りがする中で夫が作ってくれた揺り椅子に腰掛けるのが好きだった。
最後に見えたのは、まだ若い自分が息を引き取るところ。彼女の体から抜け出たエレナは、泣いて遺体に取り縋る夫を触れられぬ腕で抱きしめて――そこで目が覚めたのだ。
(あちらが本当で、こっちの世界が夢のようなのよね)
作品:婚約破棄までの10日間/作者:小鳩子鈴/第1話「婚約破棄まであと10日」より
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転生からスタートした(たぶん)悪役令嬢ものは次第に裾野を広げて、いわゆる中世ヨーロッパ風の異世界を舞台とする非転生系のストーリーも数多く生みだしてきた。この作品の主人公エレナは現代日本からの転生者ではなく、舞台となる異世界も乙女ゲームの世界ではない。
主人公エレナは事故で記憶喪失の伯爵令嬢。口うるさく気位の高い“悪役令嬢”だった自分の過去は思いだせず、かわりに、若くして家具職人の夫と死に別れたという前世の記憶がある。普通の転生ものだと前世は現代日本になるところだが、この作品では同じ世界の過去、せいぜい一世代前くらいの過去であることが示唆されていて、この設定と前世の描き方が、普通の転生ものとは異なる魅力を作品に与えている。珠玉という言葉が似合いそうな、よい作品だと思う。
エレナは庶民の夫と過ごした幸せな記憶を“前世の夢“”という形で覚えている。気位の高い令嬢だった現世の自分を忘れ、幸せな妻だった前世の自分を知っているエレナは、むしろ穏やかな性格で、接する婚約者のオスカーをとまどわせる。高慢なエレナに辟易していたオスカーは、とある事件で堪忍袋の緒が切れてエレナに婚約破棄を突きつけ、物語はそこから始まるのだが、エレナのキャラがすっかり変わってしまったことで、オスカーは逆に自分の非や落ち度を素直にみつめるようになる。婚約者として不誠実だった自分の態度、エレナがなぜ口うるさく気位の高い令嬢だったのか、その背景を知ろうとしなかった無関心など、視点をかえれば見えていたはずの事実にオスカーは気付いてゆく。
結局、この物語でオスカーが改めて「出会う」エレナ、現世の記憶を失い、前世の儚い記憶(この記憶は徐々に消えてゆく)で自分を支えているエレナというのは、実は高慢なエレナの本来の姿、現世での立場やしがらみという化粧を落とした素顔のエレナだった──というのが、作品を読んだ私の感想になる。正直これは微妙な感想で、他者の意見もきいてみたいのだが、私には前世の記憶が現世のエレナを「助けに来た」ように読めてしまった。そうだとすれば、この作品は、前世の記憶が人格の乗っ取りではなく、人格の解放として働いている珍しい作品といえるかもしれない。
いずれにせよ、この作品は程よい長さできちんと完結している点と、中途半端な現代知識を異世界にもちこまない構成も、個人的には好感度高かった(異世界で現代知識を活かして大活躍──の勘違いと危険性については機会あれば詳述します)。作品の長さに関しては、私の場合エピソードが数百をこえるような長編はなかなか最後まで読み通せない。作者的には作品世界を深化させて壮大な物語にしているのだと思うが、ぶっちゃけ飽きてしまう。たんに私が飽きっぽいだけかもしれないが……
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