転生という名の人格乗っ取り〜補足
前回の感想文で「転生という名の人格乗っ取り」を批判する内容を少し書いた。ここではその内容を補足しておきたい。なお私は、転生ものを楽しんで乱読してきた一読者だから、ジャンルとしての転生ものを頭から否定する気はまったくない。楽しんできたからこそ気になった部分、スルーできなかった部分にかんする指摘と受けとめていただきたい。
転生とは表現次第でどのようにでも定義できる実体のない用語であること(生まれ変わった、前世の記憶を取り戻した、憑依した、その他)、フィクションに描かれた転生は多かれ少なかれ人格の乗っ取りであること──前回書いたのは要約すればその二点だった。とくに、転生先が子どもを虐待する継母であったとしても、その人格を勝手に押し退けて転生者が自分の正義や価値観を語り出せば盗人猛々しいと言わざるを得ない──という部分が批判の要点であり、これは実際にそういう作品をいくつか読んで強く感じたことでもある(特定の一作品にかんする感想ではありません)。
幼気な児童を虐待する悪らつな女に転生した主人公が、自分の正義と価値観で児童を愛し慈しみ、その結果、虐待で心を閉ざしていた児童は心を開いて笑顔をみせ、家族みんなが幸せになって転生者は聖女のように愛され崇拝される──これは本当に皆が幸せになる展開、見た目通りのハッピーエンドだろうか。幸せなのは転生者だけに見えてしまうのは私だけなのだろうか。
いま仮に、私がその「児童を虐待する悪らつな女」を愛する一人の男であったとする。その場合、私が彼女=転生者に言いたいことはただ一つ、「今すぐその肉体から出ていけ。本来の彼女を返せ」──それ以外には何もないし出てゆくまで許すことはないだろう。なぜなら私が彼女を愛したのは彼女が彼女であったからで、彼女が児童保護に熱心な聖女様だったからではない。親が児童保護に熱心なら皆が笑顔で幸せというのは、そもそもが現代の薄っぺらな価値観だし、その価値観を押し付ければ皆が幸せになるという発想は、特定の宗教を平気で押し付ける歪んだ社会と何も変わらない。それ以前に他人のからだを乗っ取って主張することじゃない。
ではどうすべきか。一番簡単な「解決」は、そのように児童を虐待する女(醜く描かれる)とそれを愛する醜い男である私、結果オーライの「皆の幸せ」を拒否する私のような男を社会から排除することで、実際、現実の社会は今日もその排除に熱心だが、そのような排除を積極的に後押ししているのが、「悪い奴は肉体を乗っ取って改心させればよい。そうすれば皆が幸せになれる」という発想になる。それに加担するか否かは表現者=作者一人ひとりの選択になる訳だが、特定の価値観に基づく思考コントロール(現代の良識とされる表現や教育)が最終的に人間の首を絞めることになるという認識は、常に念頭に置くべきだと思う。
まとめると、転生による人格乗っ取りというのは実質的には価値観の押しつけ、リアルでは思い通りにならない人や世界を自分の価値観でコントロールしたい、自分の価値観でコントロールできる世界を楽しみたい──という願望でもあるのだから、それが娯楽をこえて社会正義の主張になってしまう表現については、対立する視点からの批判も覚悟すべき──というのが私の意見になる。
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この意見には異論も多いと思うので、ご自由にご批判下さい。論争は避けたいので反論への再反論は一切行いません。主張はともに一歩通行であることをご了承下さい。m(__)m