D級盗賊、毒味をする
昼の光が広い食堂に差し込み、華やかな装飾に囲まれた長テーブルの中央で、エルヴィンが席に着いていた。
その向かいには兄のアルデールの席が用意されているのだが、当人は未だ姿を現さない。
目の前には温かい食事が並べられて、既に10分は経過しようとしている。
しかしエルヴィンは、未だそれに手を付ける事はなかった。
「エルヴィン皇子、食わないのか?」
「兄上が来るまで待っていようと思って…」
そう言って、エルヴィンは小さく笑う。
兄弟で過ごせる数少ない時間を楽しみにしているだが、当の本人は一向に姿を現さない。
しかしこれはいつもの事で、アルデールはわざと時間をずらして此処に訪れている事を、彼は知っていた。
「アルデール皇子も、もうすぐ来ますよ」
レンがそう言うと、エルヴィンは頷く。
やがてレンの耳に、アルデールやウォルター達の足音が近づいて来るのが聞こえた。
その姿が目に入るや否や、エルヴィンは嬉しそうな顔で恋を浮かした。
「あ、兄上っ」
「…まだ食べていなかったのか」
「兄上と一緒に食べようと思いまして」
アルデールはエルヴィンを一瞥するなり、無言で自分の席へ着く。
返事のない事に、またもその表情は曇りがちになりながら、エルヴィンもまた静かに座り直した。
程なくして、侍女達が数々の料理を運びにやって来た。
スープにサラダ、肉と言ったいつも通りの豪勢な品数に、早くもいい香りが食欲をそそる。
「俺達も食事にしよう」
これから皇子達の食事が始まる。
護衛には万全を期して、二人が残る事にしていた。
それに伴い、レン達も交代で食事をとる算段を立てた。
「じゃあディーネ。先に行っておいで」
「はい、解りました」
「おっさんも先に行っていいぜ」
「あぁ、ありがとう」
基本的に、この場でレンとディーネが二人になる事はない。
それは戦力的に考えても解る事で、アルデールが居る場では、護衛の編成には特に気を付けるようにしている。
いつ何時、また侵入者が現れるとも限らないからだ。
しかし――
ぐぅ…
「腹減った…」
目の前にご馳走があると言うのは、マオにしてみればそれはちょっとした拷問にも近い。
そんな彼に視線を向けて、レンは小さく笑った。
「マオちゃんもディーネ達と先に食べて来る?」
「んー…」
悩むような顔をしたマオが、ちらっとフウマを見ている。
「フウマと一緒に食いたいからな。我慢する」
「えっ」
意外な発言に、フウマどころかレンも驚いた。
彼がこんな事を言い出すのは、何気に初めてだ。
「は? レンとじゃねぇのかよ」
「オレはフウマと食いたいんだっ」
「…まあ、そう言われて悪い気はしねぇけどよ」
「私は逆に、マオちゃんを盗られた気分です…」
軽く落ち込んでいる所に、エルヴィンが小さく微笑んでいた。
それに気付き、レンは慌てて姿勢を正す。
「ご、ごめんなさい。騒がしくしてしまいましたっ」
「いいえ。食卓が賑やかでいいです」
「あー。普段が通夜みたいに静かだからな、どっかの皇子様は」
フウマの言葉に、アルデールの鋭い視線が投げかけられた。
「食事中に余計な会話など不要だ」
「そんな事ねーだろ。家族団欒って言葉、知らねーのか皇子様?」
「さあな」
「このやり取り、もう何度目だろうね…」
主にフウマがこの光景に茶々を入れるのが、食事の時のお決まりの風景になりつつもある。
その事をレンは感じ、僅かに苦笑した。
多分、フウマなりに気を利かせて会話をさせようと言う魂胆なのだろうが、どう見てもアルデールとフウマの会話にしかなっていない。
食事の手を進めていたエルヴィンが、ふと気付いた様に顔を上げる。
「兄上、召し上がらないのですか?」
テーブルの着いてから、アルデールはまだナイフと―フォークすら手にしていない。
その事に疑問を持ったエルヴィンが声を掛けると、アルデールの表情は少しだけ曇った気がした。
「…」
アルデールは、目の前に並べられた料理を見つめたまま黙っている。
この姿は、日々の食卓の中でレンもよく目にする光景だった。
何かを警戒するように料理を見つめているその顔には、何処か緊張の色が見て取れなくもない。
…警戒?
料理を運んで来たのは、傍に控えている侍女達。
そして厨房では、腕利きの料理人立が腕を振るっている。
もしも其処で、『何か』が混入していていたとしたら…?
まさか、料理に何か仕込まれているとでも言うのだろうか。
あり得ない話ではないと、レンは思った。
アルデールが命を狙われていると言うのは、先日の『暗殺未遂』からも解っている事だ。
いつどこで、何が起こるか解らないと言うのは、食事の時も同じだ。
「…あの料理って、誰かが味見したんですか?」
「えっ…」
レンは、テーブルの横に立つ侍女に聞いてみる事にした。
彼女は少し驚いた顔をした後、静かに頷く。
「え、えぇ、勿論です。皇子様方に召し上がって頂くのですから、味に間違いがないように、ちゃんと味を確かめてお作りしております」
味を見ているのなら問題はない…が、レンはふと彼女の反応が気になった。
無意識の内にエプロンをぎゅっと握りしめ、手が震えている。
質問の内容が突拍子過ぎたの件もあるのだろうが、どうにも様子がおかしいと思う。
「…誰が味見をしたんですか?」
「それは勿論、厨房の者が」
「そうですよね。すみません変な事を」
「いえ」
その侍女の視線は下に向けられ、まるで何かに追い詰められているかのように、微妙に顔を引きつらせていた。
何かがおかしい――
レンは内心で冷静に考えつつ、隣に居るフウマにそっと囁く。
「まさか『何か』入ってるなんて事…ないよね?」
「…ない訳じゃないな」
「えっ」
「人間が油断する時と言えば、飯か寝る時ぐらいだ」
フウマは小さくそう返し、怪訝な表情を浮かべた。
未だに手付かずの料理を前に、アルデールは相変わらずの沈黙を守っている。
「確かめるしかないんじゃないか」
「でも、確かめるって…?」
「簡単な事さ」
すると。フウマは自然な動作で一歩前に出て、アルデールの皿に視線をやりつつ言った。
「アルデール皇子。お食事の味はいかがでしょうか?」
アルデールは、普段の物言いとは違うフウマの態度に、一瞬だが驚きに目を見開いた。
「…まだ口にしていない」
「では、少しばかり味見をしてもよろしいでしょうか、少し…気になる点がありまして」
アルデールは怪訝そうにフウマを見やる
しかし、フウマのまっすぐな視線に気づいて、軽く頷いた。
「…構わない。何か気になるのか?」
フウマは丁寧に頭を下げ、手元に用意していた小さな銀の匙を使い、アルデールの料理の一部をすくい取った。
そして、その一口を口に含み、僅かに眉を秘める。
その瞬間、テーブル横に居た侍女の顔から血の気が引いて行く様子が、レンの眼に留まった。
今にも倒れそうな様子で、エプロンを握りしめた手が更に震えているではないか。
「――やっぱりな」
小さくフウマが呟いた。
「舌先が痺れる。料理の味にしてはおかしい」
その囁き声を耳にし、アルデールの表情が険しくなる。
「エルヴィンっ!! やめろっ!」
「えっ…!?」
驚いた様子のエルヴィンの手が、ピタリと止まった。
その手には同じくスプーンが握られており、今まさに同じスープを口にしようとしている所だった。
しかもその量は少し減っている。
それに気付いたアルデールが、ガタンと椅子から立ち上がった。
「飲んだのかっ?!」
「は、はい…」
「…っ!!」
「其処のあんた。厨房に行って、料理の見直しをお願いした方がいいぜ」
侍女は一瞬、驚愕した顔でフウマを見つめたが、次の瞬間には意識を失いかけ、ふらふらと後ずさった。
「も、申し訳ございません、すぐに厨房へ確認を取ります…!」
しかし彼女は深く頭を下げながら小声で言い、逃げるようにその場を後にした。
その様子を見届けた後で、レンは慌てた様子で駆け寄る。
「フ、フウマ…!?」
「思った通りだった。あれは即効性の痺れ薬だ」
「痺れ薬? その、毒とかじゃなくて…?」
「そんなもん入れたら、銀食器が反応してバレバレだっつの。大方痺れさせて、体の自由を効かなくさせるのが目的だろうな」
フウマの異変に気づき、周囲の緊張が一気に高まりまった。
だが、蹴は静かに深呼吸し、へらりといつもの調子をを取り戻した。
アルデールはフウマを見やる。
「痺れ薬だと…?」
「安心しろ。エルヴィン皇子の方には入ってないと思うぜ。何ともないだろ?」
「は、はい。僕は何も感じません…」
「…俺の方にだけ入っている、と言う事か」
程なくして厨房から、二人の料理人が慌てたように飛び出して来た。
「も、申し訳ありませんっ! 皇子様のお口に合わないと、侍女からお聞きしましたが…っ!」
「料理を作ったのはお前達なのか?」
「えぇ。今日のスープはこの者が。私はメインディッシュを担当しておりました」
「し、しかし、自分はいつものようにお作りしました!!」
料理人は、信じられないと言った様子で首を振る。
その姿からは真剣さが感じられた。
「おい、よさないか。申し訳ありませんアルデール様。何も言い訳は致しません…!」
「もういい、下がれ」
「えっ…」
「お、お咎めはないのですか…?」
「ただ味がおかしかっただけなのだろう、次から気を付けてくれたらいい」
それを聞いた二人は安どの表情を見せ、深々と頭を下げるのだった。
「で、では…直ぐに代わりのお料理をお持ち致します!」
「要らん。俺は部屋に戻る」
「アルデール様…!」
ガタンと席を立ったアルデール。
その場を後にする彼に。フウマが言った。
「いいのか?」
「誰がやったと言う確証もあるまい」
「まあな…」
それを聞いて、レンの眼がちらりと辺りを観察する。
例の次女の姿は、今や何処にも見当たらなかった。
「そ、それよりも…フウマさんは大丈夫なのですかっ!?」
エルヴィンが席を立ち、慌てたように追いかけて来る。
フウマの身体に何か異常がないかと、心配そうに見つめた。
その姿にアルデールは僅かに眉を顰めるものの、その歩みを止める事無く食堂を出た。
「俺は、ガキの頃から特殊な訓練を受けているからな。これくらいなら問題ないさ」
「と、特殊な訓練? そうなのですね…」
彼は少し肩を竦め、口元に薄い笑みを浮かべた。
「本当に大丈夫なの、フウマ?」
「護衛って言うなら、これくらい当たり前の事だろ。…あ、俺だから出来る事なんだからな?」
「う、うん…」
その『当たり前』を事も投げにやってのけるフウマ。
少量とは言え、口にしたのは『痺れ薬』の入った料理だ。
彼がどんな幼少時代を過ごしたのか、エルヴィンには想像も出来ないだろう。
レンが戸惑いながら頷いた所で、ウォルターとディーネが隣の部屋から出て来た。
「何か遭ったのかっ!?」
「と、突然騒がしくなったようですが…?」
慌てた様子でウォルターが問いかける。
フウマは頷き、表情を一層引き締めて答えた。
「料理に痺れ薬が仕込まれていた」
「な、何だってっ!?」
「でも、フウマが直前で気付いてくれたの」
「フウマが?」
「ただ味を見ただけさ」
「凄いな…そんな事が出来るなんて」
ウォルターが感心したように呟くと、隣ではディーネが心配そうに尋ねる。
「あのっ。お身体は大丈夫なんですか?」
「あぁ」
「そ、そうなのですね。よかった…」
「念の為、ちゃんと薬は飲んでおけよ?」
「わ、あたし、部屋に戻って痺れに効くお薬を持ってきます!」
「いいって。別に南ともないんだ」
『舌先が痺れる』と言っていたフウマだが、ほんの少し時間が経っただけでその異常はもう見られないようだった。
その回復の速さが常人にはどれほどの者かは解らないが、けろっとしている様子を見ると、本当に何ともなさそうだ。
「…ちゃんと優秀な護衛だったんだたな」
アルデールは、表情を変えずにフウマに言う。
それを聞いたフウマは、静かに彼の方を向いた。
「ちゃんとは余計だ。いっとくけどな、俺だから気付けたようなもんだぜ? 弱っちい皇子様が口にしてたら、あっという間に身体の自由が効かなくなっちまう。いくら剣術に長けた皇子様でも、満足には戦えないだろうな?」
「…そうか。お前のお陰で助かった」
アルデールは視線をフウマに向け、真剣な面持ちでそう口にした。
その発言に、フウマは僅かに眼を見開く。
「な、何だよ。素直過ぎて逆に気持ち悪いぜ?」
「人が感謝していると言うのに、その反応は何だ」
「まあまあ…せっかくアルデール皇子が褒めてくれてるんだし、有り難く受け取っておきなよ」
「別に褒めてない。護衛として当たり前の事をしたのだからな」
「やっぱり助けるんじゃなかった!!」
フウマは悪態を吐くものの、アルデールの表情には僅かに笑みが零れている。
「フウマさん、僕からもお礼を言わせて下さい。貴方が居なければ兄上は…」
レンは、エルヴィンの声が微かに震えている事に気付いた。
もしもの事態になれば、先程よりももっと大きな混乱を招いていた事には違いないだろう。
「兄上が安心して居られるように、何とかしないといけませんね」
「どうするおつもりですか?」
「誰がそのような事をしたのか、調べる必要があります。父上や母上にもこの事をお伝えして、犯人を特定しなければなりません」
暗殺未遂に加え、こうしてまた事件が起こったのだ。
何かしらの対処をしない限り、また同じ事が起こらないとも限らない。
だが、それを否定するようにして、アルデールは静かに首を振る。
「放っておけ、余計な事をするな」
「兄上? ご自身の命を狙われたのですよ?」
「いつもの事だ」
「…っ!? そのような事を言わないで下さいっ!」
普段は温厚な性格で優しい表情のエルヴィンが、怒る姿を見るのは初めてだった。
当然レン達は驚いていたが、アルデールは冷たい眼で彼を見やる。
「残念だったな、俺を殺し損ねて」
「あ、兄上っ。僕がそうさせたとでも…!?」
すると,ぴたりと足を止めるアルデールは、レン達に向き直った。
「もう此処でいい」
その言葉を受け、ウォルターは眉を顰める。
「いえ、お部屋までお送り致します」
「いい。一人にしてくれ」
「…解りました」
「兄上!!」
アルデールとエルヴィンの関係が、少しは良い方向に向かうのではないか?
そんな期待はまだまだ甘かったらしい。
「エルヴィン皇子…」
「何だよあいつ」
「…いいんです。兄上は僕を嫌ってますから」
レンとディーネは互いに顔を見合わせ、どう声をかけるべきか迷っていた。
「無理もありません。今は周りが全て敵に見えてしまっているのでしょう。殿下が命を狙われていると言う事には変わりない」
ウォルターの言葉に、エルヴィンは頷いた。
その時だった。
「嫌っている? 本気でそう思っているのか?」
マオが、そんな空気を断ち切るように口を開いた。
エルヴィンは目を伏せたまま頷く。
「だって、あの人はいつも僕に冷たい。何処か突き放した態度ばかりだ」
マオは少し考える素振りを見せると、思い出したように指を立てた。
「なら聞くが。食事の時、痺れ薬が入ってるかも知れない料理を、お前が食べようとしただろ?」
「えぇ。入っていたのは兄上の料理にだけ――でしたが」
「その時、どうしてアルデールはお前を止めたんだ? 強い剣幕で『食べるな!』って」
「え…?」
その言葉に、エルヴィンだけでなくレンやディーネ、ウォルターもはっとした。
するとレンが、思い出したように口を挟む。
「あの時、確かフウマが毒味をした直後に『痺れるような感じがする』と言っただけだった。それも、特に確証があった訳じゃない。料理に何が入っていたとは限らなかったのに……」
マオはさらに畳みかけるように言った。
「もし本当に嫌ってるんだったら、あいつはそのまま見てるだけでも良かったんじゃないのか? それを必死に止めた。弟だから、お前を守りたかったんじゃないか?」
エルヴィンはその言葉に目を見開いた。
「そんな…信じられない…」
マオは肩を竦め、あっけらかんとした調子で言う。
「俺にはそう見えたけどな。もちろん、アルデールに聞いてみるのが一番だが、そんな簡単に言える奴じゃないのは、お前がよく解ってるだろ?」
エルヴィンは俯き、肩を小さく震わせた。
指先が微かに揺れているのが見える。
「…そんな筈ない。兄上が僕を守るなんて…いや、でも…」
彼の声は次第に消え入りそうになり、複雑な感情がその顔に浮かび上がった。
「おいおい…こっちの皇子様まで疑心暗鬼かよ? …いてっ」
「余計な事を言うな」
今度はフウマが肩を竦めて見せるのを、ウォルターが軽く肘で小突いていた
「エルヴィン皇子。もしかしたら、アルデール皇子が思っている事を全部解るのは、難しいかも知れない。でも、今日の話だけで判断するなら…きっと、貴方を守ろうとしている気持ちが何処かにあるんじゃない」
ディーネもそっと付け加える。
「そうですよ。アルデール様が本当に冷たい人なら、マオさんの言う様に必死に止めたりしませnっ」
エルヴィンは、じっと自分の手を見つめた。
その震えは収まらないが、少しずつ落ち着きを取り戻しているようにも見える。
「もし…兄上が本当に僕を守ろうとしていたのだとしたら…」
声は震えていたが、その瞳には何かが揺らぎ、少しずつ変化しているようだった。
彼がこれまで頑なに信じていた『嫌われている』と言う確信が、ほんの少しだけ崩れたのかもしえない。
「まぁ、答えが出るのは時間がかかるだろうけど…あんまり思い詰めるなよエルヴィン。大丈夫だ。アルデールは、お前を嫌ってなんかないぞ」
マオは軽く伸びをして、特に深い意図がある訳ではないような調子で笑った。
その態度にエルヴィンは苦笑しながらも、僅かに肩の力が抜けたようだった。
「僕は本当に駄目ですね、こんなに小さな子どもにまで心配されるなんて…」
其処には、先程まで見せていた哀しみのような感情は、何処にもなかった。
「兄上が何と言おうが、僕はこの事を父上と母上に報告します。これ以上、兄上との距離を離れたくはありませんので…」
「エルヴィン皇子…」
「僕も此処までで大丈夫です。あぁ、そうだ。父上の元に行く前に、兄上に何か軽食でも作って貰うように言わなきゃ」
「では、その役目は俺が。エルヴィン殿下はどうぞそのまま、国王様の元へ」
「ありがとうございます、ウォルターさん。どうか、兄上の事を宜しくお願いします。では…」
ぺこりと頭を下げて、エルヴィンがその場を後にした。
昔は、二人の皇子も本当に仲の良い兄弟だったのかも知れない。
それが王位継承問題によって、いつしか互いに争う形になってしまった。
レンは本当は争いたくないと言う、エルヴィンの本音を、あの庭園で耳にしている。
それはきっと、アルデールも同じなんじゃないか。
そうでなければマオの言う通り、彼がエルヴィンを気遣う様な言葉は出て来ない筈だ。
◇◆◇
夜の城の廊下。
城内の夜は、静寂と冷気が支配していた。
燭台の明かりが揺れ、長い影が壁を這う。
侍女は薄暗い廊下を裸足のまま走っていた。
硬い石畳が足裏を打ち、痛みがじわりと広がる。
「(どうして…どうしてこんなことに…!)」
胸の中で叫びながら、侍女は必死に逃げ惑った。
理由はわかっている。
痺れ薬を仕込むよう命じられ、それに従った事が全ての始まりだった。
薬を盛るよう命じたのは『あの方』。
『あの方』の冷たくも圧倒的な威圧感に、逆らえる者などいない。
だが、計画は失敗した。
そして、失敗の責任は自分が負わされる。
涙が頬を伝った。
助かりたい、もう一度父に会いたい。
それだけを願い、暗い廊下を走り続けた。
荒い息を吐きながら、それでも彼女は止まらなかった。
後ろから響く足音が、死神の鎌のように迫ってくる。
「お願い…誰か、助けて…」
小さく震える声で呟きながらも、足は止まらない。
後ろから聞こえて来る足音が恐怖を煽る。
彼女が口封じされる運命を悟ったのは、あの『一件』が露見した後だった。
「お父さん…!!」
侍女の脳裏には、故郷で寝たきりの父の姿が浮かんでいた。
そんな自分を、いつも『誇りに思う」と言ってくれた父。
『城で働くなんて…大変だろうが頑張るんだぞ』
そう言ってくれた父親の微笑みが、瞼の裏に焼き付いていた。
侍女は、故郷で暮らす父の為に必死で働いていた。
それが全てだった。
しかし、それが今や崩れ去ろうとしている。
城から送る仕送りがなければ、父の薬も買えない。
父を守る為に城で働き始めたが、その日々が破滅へと向かうとは思ってもいなかった。
田舎育ちの自分が、こうしてこの城で働けるのも『あの方』あってこその計らい。
自分を拾ってくれた『あの方』の為。
そして、お金の為に悪事に手を染めた結果が、この報いだ。
「お父さん…ごめんなさい…!」
涙が止まらない。
侍女は逃げ場を探して、暗闇の中を駆けた。
だが、廊下の角を曲がった瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、暗闇に溶け込む黒い影だった。
「ここまでだ」
男の低い声が廊下に響く。
侍女は目を見開き、後ずさった。
「お願いです…見逃してください…! 何も言いません、絶対に!」
侍女は膝をつき、涙ながらに懇願した。
声は震え、言葉は切れ切れだった。
「ち、父が…故郷には、病弱な父が居るんです…私が居なくなれば、父は一人に…!」
「…お前の故郷の家族を守りたい気持ちは、よく解る」
一瞬、男の声に優しさが混じる。
侍女はその言葉に希望を見出し、顔を上げた。
「本当ですか!? 『―ー』様…!」
だが、影の表情は微動だにしない。
その瞳には、暗い決意が宿っている――と、侍女は背筋を凍らせた。
影は、静かに首を横に振った。
「けれど、俺にはもっと重い鎖がある。家族を守る為に、俺はお前を見逃せない」
侍女の目に再び恐怖が宿る。
「そんな…そんな…」
影は己の武器を轢き抜いた。
その動作は無駄がなく、恐ろしい程に滑らかだった。
「苦しませない。それだけは約束しよう」
侍女の瞳が恐怖で見開かれる。
「う…うわああああっ!!」
彼女は震えながら、最後の抵抗を試みようとした。
しかし、その声も、動作も、影の刃が彼女の喉元に触れる事で止まった。
影の刃が彼女の喉を裂いた。
「お父、さ、ん……」
一瞬の静寂。
彼女の身体がゆっくりと崩れ落ちる。
―ードサッ
血の匂いが漂う中、影の男は短剣を見つめた。
自身の行動に後悔はないが、胸の奥に重い感情が沈殿していく。
「俺は…何処まで堕ちるんだろうな」
誰にともなく呟きながら、男は静かにその場を去った。
振り返る事はなかった。
―ー堕ちる。
堕ちて行く…――
『とある男の手記より抜粋』
・
お読み頂きありがとうございました。
ブクマやご感想等を頂けましたら、励みになります。




