聖女の重み
海の見える修道院で、ディーネは他の修道女達と共に祈りを捧げていた。
白亜の壁に囲まれた静謐な空間。
天井の高い礼拝堂には、海風が運ぶ静かな波の音がほんの微かに届く。
中央には、女神の姿を象った白い石像が厳かに祭られていた。
穏やかな微笑みを湛え、優しく両腕を広げるその姿は、まるで全てを受け入れるかのようだった。
蝋燭の灯火が揺れ、柔らかな影。
誰も彼もが眼を閉じて静かな時を刻んでいく。
ディ0根は静かに手を胸の前で組み、深く呼吸を整えた。
―ー神よ、この身に導きを…
静かな祈りの中で、心は研ぎ澄まされていく。
この修道院に身を寄せている間も、彼女は決して僧侶としての清らかな心を忘れてはいない。
旅の疲れを癒しながらも、修道院の生活に触れる内に、彼女は改めて自分が僧侶として、まだまだ未熟である事を実感していた。
祈りとは何か。
信仰とは何か。
此処にいる修道女たちは皆、信仰を深く胸に抱き、日々の務めに励んでいる。
彼女達と共に祈ることは、ディーネにとってとても有意義な時間だった。
自分は本当に、僧侶として成長出来ているのだろうか。
『――貴女ならやれます。何故なら、かつては聖女と讃えられたおばあさまの血を、受け継いでいるのですから』
司祭様の言葉。
『――ディーネが私の事を気にしているのは解るわ。でもね、後悔しないようにするには旅に出るべきよ。貴女の心に従いなさい』
旅立つ前のおばあちゃんの導き。
それらを思い返しながらも、まだ答えは出ない。
こうして祈る時間も、彼女の心は少しずつだが乱れが生じていた。
目を閉じ、静かに願う。
―ー神よ、どうか私に力を。
――そして、この旅でわたしが成長する意味を…
「ラ・マーレの司祭様を、知っているんですか?」
祈りの時間が終わり、型付けをする修道女達。
その中で、ディーネはシスターから、思いもよらない話を聞いた。
「ええ、もちろん。彼とは昔からの知り合いで、修道院の者たちもよく存じておりますよ」
シスターは微笑みながら頷く。
「そうなのですね…!」
ディーネの声が嬉しそうに弾んだ。
彼女の顔には、懐かしさと尊敬の色が浮かんでいた。
「私も、見習いだった頃に司祭様には。大変お世話になったのです。とても優しく信仰深く、そして誰に対しても分け隔てなく接して下さる方でした」
シスターの穏やかな口調が、ディーネの心に温かさを運んできた。
懐かしい司祭様の姿が脳裏に浮かぶ。
「そうですっ。司祭様は本当に、素晴らしい方なんです!」
ディーネは目を輝かせながら言う。
「ラ・マーレでは、誰もが司祭様を慕っています。わたしも、あの方のおかげで信仰を学びました。沢山の事を教えていただいて…」
言葉を紡ぎながら、ディーネは自然と微笑んでいた。
修道院の静かな空気の中で、思い出が鮮明に蘇ってくる。
そんな時、話をしていたシスターがふと、ディーネの顔をじっと見つめた。
「貴女…もしかして、ルーナの縁の者では?」
「えっ?」
ディーネの笑顔が、一瞬にして驚きへと変わった。
「…えっと…その、はい。ルーナはわたしの祖母です…」
「やはり。貴女はルーナ様のお孫さんでしたか」
シスターが柔らかく微笑む。
「なるほど、確かに面影がありますね。優しい瞳の色も、話し方の雰囲気も…あの方のお孫さんだとは、すぐには気づきませんでしたが」
「そうですか…?」
ディーネは苦笑いを浮かべながら、肩を竦める。
「ルーナ様の縁の者であれば、貴女もさぞ立派な『聖女』のお力をお持ちなのでしょうね」
「いえ…わたしなんて、まだとても…」
…また『聖女』
此処でもまた。おばあちゃんの話が出た。
何処へ行っても、誰と話しても、ルーナの名はついて回る。
祖母は名の知れた僧侶だった。
その慈愛深さと聡明さ、そして信仰心の篤さから、多くの人々に慕われ、尊敬されていた。
――それに比べて、わたしは。
胸の奥に、ちくりとした痛みが走る。
おばあちゃんの孫である事を誇らしく思う気持ちと、その偉大さに到底及ばない自分へのもどかしさが、心の中でせめぎ合う。
「ルーナ様には、私も何度も助けられました」
シスターは懐かしむように目を細める。
「彼女の言葉に救われた人は、数え切れないほどいるでしょう。私も、修道女としての道を迷っていた時、ルーナ様の導きのおかげで前へ進む事が出来ました」
「…そうですか」
ディーネは表情を崩さずに答えたが、その内心は複雑だった。
司祭様の様な、りっぽな僧侶になりたい。
おばあちゃんの孫として、恥じる事のなく『聖女』を受け継ぎたい。
でも、それが今の自分に出来るだろうか。
司祭様とおばあちゃん。
二人の偉大な人物を思い浮かべながら、ディーネは深く息を吐いた。
「…わたしなんて、まだまだです」
「そうでしょうか?」
「え…」
シスターは優しく微笑んだ。
「大切なのは、自分を信じ、少しずつでも成長しようとする心です。ルーナ様だって、最初は小さな一歩から始めたそうですよ。貴女の優しさと誠実な祈りがあれば、きっと人々を救える僧侶になれるでしょう」
「でも…私には、祖母のような力はありません。どんなに祈っても、傷ついた人を奇跡のように癒すことなんて……私には無理です」
シスターはディーネの言葉を静かに聞き、彼女の手をそっと握り締めた。
「でも、貴女はルーナ様と同じように、人を想い、助けようとしている。その心がある限り、きっと道は開けますよ」
その言葉が、少しだけディーネの心を軽くした。
ほんの、少しだけ。
…それでも、おばあちゃんには遠く及ばない。
そんな思いを胸に抱えながら、ディーネはそっと目を閉じた。
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