とある女性の記憶
フウマの逃走により、場は一瞬だけ静寂を取り戻した。
しかし、その背後で太后が、不気味な笑みを浮かべていた。
「さて…余計な者がいなくなった今、本当の『儀式』を始めるとしましょう」
彼女の体を覆うオーラが不気味に揺らぎ、魔物の気配が更に強まる。
「太后…!」
アルデールが冷静に剣を構える。
「魔物の意識に乗っ取られたとしても…貴女をこのままにはしておけない」
一方、エルヴィンはその場で震える手を隠しつつ、魔法の準備を整えていた。
「兄上…どうするおつもりです?」
「決まっている。太后を止める。それが、王の後継者としての責務だ」
二人の皇子は、それぞれの思惑を胸に、魔物に操られた太后と対峙する。
継承式は、突如として吹き荒れた暗殺者と魔物の力により混乱に陥った。
玉座の間は揺れ、参列者たちは恐怖に叫び声を上げる中、アルデールとエルヴィンの兄弟が共に立ち上がった。
二人の皇子はそれぞれ剣と魔法を手にし、太后の中に潜む魔物に立ち向かう。
「母上を取り戻す!この国も、家族も守る為に!」
「兄上。僕達ならやれます。もう誰にもこの国を壊させない!」
彼らの言葉には迷いがなく、二人が背中を預け合いながら魔物に向かっていく。
その姿は、かつて幼かった頃の仲睦まじい兄弟そのものだった。
アルデールが前線で剣を振るい、エルヴィンが後方から魔法で援護する。
兄弟の連携は見事で、周囲の魔物に大きなダメージを与えていった。
アルデールは、決意を込める。
「この国を護るのは俺達だ!」
エルヴィンは魔法陣を展開しながら、その表情を苦痛に歪ませた。
「母上…もう、もうやめて下さいっ!」
成長した我が子。
それを見つめるその瞳が、妖しく光る。
それは人間か。
はたまた魔物としての彼女なのか――
暗い回廊に響く静かな足音。
かつての太后――まだ若く、美しい頃の彼女は、暗い廊下を歩いていた。
その足元は重く、心は沈んでいる
愛する姉を亡くし、残された甥・アルデールを気遣おうと、日々努力していた。
彼女の胸に去来するのは、喪失感だった。
姉の死後、彼女が感じたのは『姉の影の大きさ』だった。
亡き姉は国王を支え、国王に愛され、聖母のような存在だった。
優れた魔力で城や街全体を包み込む結界を張り、魔物の侵入を防ぐだけでなく、国民の心にも希望を与えていた。
そんな姉に比べ、妹である自分には彼女よりも秀でた部分など、何処にもなかった。
「私には何もない…」
彼女は廊下の窓から外を見下ろし、呟くようにそう言った。
姉の代わりにはなれないかも知れない
それでも、明るさを失ったこの家族を放っておける訳がなかった。
姉が国王を愛していたように、自分も彼を愛していた。
愛する王妃を失った悲しみを埋めるように、国王の傍に寄り添った。
愛する母を失った悲しみに沿うように、皇子の心に明かりを灯した。
そんな彼女の前にある日、一匹の魔物が現れた。
薄暗い庭園に立つ彼女の背後から、黒い影のように滑り込んで来たその存在は、太后に言葉を投げかけた。
魔物は、低く冷たい声で言った
「お前の心の中にある、小さな炎……ワタシには見えるよ」
太后は振り返り、警戒しながらその手に魔力を込める。
「…誰です?」
魔物は薄闇の中で微笑むように、その姿を明らかにした。
漆黒の鱗に包まれた獣のような体躯。
燃えるような赤い瞳。その姿は一目で異質であると分かるものだった。
「貴女の姉は確かに偉大だった。そしてその偉大さの影に隠れる、貴女の存在……。自分も気付いているだろう? 誰も、お前を見ていない」
「黙りなさい」
太后は魔物を睨みつけて言う。
しかし、その言葉に力はなかった。
姉の持っていた力、名声、愛――
どれも自分には手に入らないものだ。
例え、姉の『代わり』だっとしてもよかった。
国王の眼が、自分に姉を重ねていたとしても構わない。
それでも、この家族を守り、亡き姉の意志を継ごうと努力する姿は本物だった。
しかし魔物は、太后の足元に漂う小さな嫉妬の炎を見抜き、言葉巧みに心の奥底に入り込もうとする。
「お前が欲しいもの、手に入らなかったもの、全てをワタシは知っている。そして、それを手に入れる方法も知っている」
魔物は冷たく低い声で囁いた。
それはほんの少しの誘惑だった、
国をより良くする為。
アルデールを守る為。
失った姉の遺志を引き継ぐ為――
太后は魔物の言葉に耳を傾けてしまった。
だが、魔物の囁きは少しずつ彼女の心を侵していった。
魔物はその力で太后に力を与えた。
その力を使えば、街や城を護れるとさえ思わせた。
そして彼女は、その代償として魔物に『小さな隙間』を与えてしまう。
――それは心の一部と、肉体の一部だった。
長い年月をかけ、魔物は少しずつ太后を支配していく。
彼女の行動は徐々に変わり、冷たさと異様な威圧感が増していった。
周囲はそれを『彼女の強さ』と勘違いし、次第に恐れるようになる。
太后の心の奥底には『姉への嫉妬』や『アルデールへの本当の気遣い』が残されていた。
アルデールが泣き崩れていたあの日の記憶――
姉が亡くなり、初めて孤独を味わった少年を胸に抱きしめた夜を、彼女は忘れる事が出来なかった。
『どうして母上は、僕を置いて行ってしまったの?』
『アルデール様、貴方には私が居るわ。…私が、必ず守る』
その言葉に嘘はなかった。
だが、『人間』としての太后はその約束を守りきれなかったのだ。
魔物は彼女の体を支配し、ほぼ完全にその意識を奪った。
しかし、その心までは完全に支配することが出来なかった。
太后がアルデールを護りたいと願った気持ちは、彼女が姉と過ごした日々、そしてアルデールを見守ったあの日々に根付いたものだった。
それが、魔物の侵食を拒む最後の砦として残されていた。
その結果、太后の行動は二重性を持つようになる。
一方では魔物の意志に従い、王国を揺るがす暗躍を行いながらも、もう一方ではアルデールやエルヴィンを護りたいと願う小さな心が、僅かに存在している――
その狭間で、太后は苦しみ続けているのだった。
その光景を見つめる太后の中で、激しい葛藤が渦巻いていた。
魔物の支配を受け入れてから、長い年月が経った。
だが今、この瞬間、彼女の胸中にはかつての想いが蘇っていた。
かつて自分が守ると誓ったアルデールと、実の息子であるエルヴィン――二人の命が危険にさらされている。
ーー私が選んだ道が、彼らをこんな危機に追い込むなんて…
ーーこれは、お前ガ背負うべき罪ダ。
太后の中に潜む魔物は、彼女の動揺を嗅ぎ取って囁き始めた。
「彼らを守る? くだらない。お前はモウ私のものダ。この国など滅びルべきだロウ。」
「黙れ…! 彼らを、二人を守るのは、私の…母としての使命です!」
アルデールが剣を振るい、エルヴィンが魔法を繰り出す中、敵の数は次々と増え続けていた。
それを見た太后はついに立ち上がり、広間の中央へと歩み出た。
「何をするつもりだ?」
しかし太后は微笑むだけで、その目は二人の皇子を真っ直ぐに見つめていた。
「アルデール、エルヴィン…今だけは、私を信じてちょうだい」
「…母上っ!」
彼女の体が突然、眩い光に包まれた。
広間にいた全員が目を見張った。
その光は魔物の支配から来るものではなく、太后自身の力
――彼女の中に僅かに残っていた、純粋な意志が解放されたものだった。
太后はその力で、自身の体を媒介にして、内なる魔物を引きずり出した。
その姿は巨大で凶暴、これまで広間に現れた魔物たちとは比較にならないほどの存在だった。
『グ、グケケケケッ!!』
太后の中で、魔物は嘲笑するように、叫びをあげる。
『お前如きガ、ワタシに抗えルと思うのカ?』
だが、太后の表情には迷いがなかった。
「私の命なんて、とうの昔に捨てたものよ。ただ、二人を――愛する人やこの国を守れるなら、それで十分…っ」
彼女は最後の力を振り絞り、光の奔流を魔物に向けて解き放った。
『この、クソ女がぁあああッ…!』
その光は周囲の魔物を焼き尽くし、浄化していった。
魔物を倒した後、太后は光が消えゆく中でゆっくりと崩れ落ちた。
「太后!!」
「母上!!」
駆け寄るアルデールとエルヴィン。
「何故、何故此処まで……!」
太后は微笑みを浮かべ、二人の顔を見上げた。
「アルデール、エルヴィン……ごめんなさいね。でも、これであなたたちは自由よ。この国を――守って…」
そう言い残し、太后は静かに息を引き取った。
太后の最期を見届けたアルデールとエルヴィンは、互いに目を合わせた。
「まだ終わりではないぞ…エルヴィン」
「えぇ、解っています」
太后の決死の一撃で、全てを終わらせた訳ではなかった。
しかし、事態は着実に鎮静化している。
何よりも、太后の中に潜んでいた魔物の気配が、何処にも居なくなっている事が大きかった。
◇◆◇
魔物は、混乱と暗闇に紛れて大広間から逃げ出していた。
予想外にも、太后の激しい抵抗により身体の大半が損傷し、魔力も殆ど尽きていた。
『人間の愛が生んダ力? 馬鹿馬鹿シイ――…!』
魔物は息を荒げながら、独り言を呟く。
「…モウ要らぬ。我が手に入ラぬこの国は捨てるシカない。他にもっと…狙いやスイ場所を…!」
身を潜めるようにして城の裏庭にたどり着いたその時。
目の前に立ちはだかる影があった。
「フーディー。何してるの…」
「綺麗な庭で食べるご馳走。格別と思わん?」
「思わない。見てるだけで胸焼けしそう…」
「ジェリーは小食やもんなぁっ」
一人は、やや無造作にフードを被り、長身で端正な顔立ちをした男――嫉妬を司る悪魔、ジェリー。
その横には、場違いなほど気楽な雰囲気を漂わせたフーディーが立っていた。
「…こういう場所、嫌いなんだよ。人間達が偉そうに威張ってさ。くだらない」
ジェリーの声には僅かな苛立ちが滲んでいたが、その目には何処か落ち着かない様子も垣間見えた。
それを見たフーディーは、ふっと笑いながら肩を竦める。
「ほら、文句言ってないでちゃんと見ておくんやで。あんたの『ファン』がやらかした結果をな」
ジェリーはフーディーの言葉に眉を顰めた。
「『ファン』なんて呼ばないでくれ。アレが勝手に憧れてただけ。僕は知らない…」
「でも放っておいたんやろ? あんたが無視してる間に、此処まで好き勝手やっちゃったって訳や」
ジェリーはその言葉に小さく舌打ちし、視線を地面に落とした。
「正直、国一つがどうなろうと知った事じゃない」「
フーディーは手元の小さな杯に入ったワインを一口飲みながら肩を竦めた。
「さあなー? でも国が傾く時って、大体悪魔か魔物が関わってるやん。こういうの、わりと定番っていうかー?」
ジェリーは冷たい目でフーディーを見た。
「君も悪魔の端くれだろうに。そうやって楽しそうに眺めてるのが腹立つよ…」
「腹立つって言いながら、こうやって来たのはジェリーやん? 本当は気になって仕方ないくせに~」
「…僕のお得意様がこの国に来てるって話だから」
ジェリーはそう言い返して、漸く魔物に視線を向けた。
「お疲れさん」
『…っ!?』
「随分草臥れとるみたいやけど、もう逃げ場はないで?」
魔物が恐る恐る顔を上げると、其処には『暴食』悪魔・フーディー。
そして彼女の横には、冷めた目で魔物を見下ろす『嫉妬』の悪魔・ジェリーの姿があった。
ジェリーの姿見歌魔物は、途端に目を見開く。
『ジェリー様…!』
「君…本当に僕を『真似た』つもりでこんな事をしたの?」
魔物の顔が歓喜に染まる。
『…やっと……やっと見てクレたのデスね! ずっとワタシは、貴方のようになりタかった…!』
しかし、ジェリーの表情は全く動かない。
それどころか、心底面倒そうな為息を吐く。
「…君、誰?」
『え…』
ジェリーじゃ冷たく一蹴した
「見ていない。そもそも君に興味なんてないよ」
『ジェリー様…!?』
その言葉に驚愕し、魔物の体が震える。
『いえ! ワタシは貴方を崇拝しテいまス! だからコソ、こんなニ努力を…国一つを潰そうと…!』
「ぷっ…あははははっ!!!」
フーディーがそれを聞いて、声を上げて笑った。
「努力って! それ、めっちゃ滑稽やで。ホンマ『嫉妬』の力の使い方が下手くそ過ぎるわ」
魔物はフーディーを睨みつけたが、すぐに視線をジェリーに戻し、懇願するような目を向けた。
『ジェリー様! ワタシを認めて下さい…!』
ジェリーはその言葉に一瞬目を細めたが、すぐに冷たい声で言い放った。
「君の嫉妬と僕の嫉妬を一緒にしないでくれ。君は『嫉妬』の意味を履き違えているよ」
『え…?』
ジェリーは魔物を冷たく睨みつけたまま続ける。
「嫉妬は力だ。人間を動かす原動力にもなるし、時には破滅のきっかけにもなる。それをただ暴走させて、誰かに認められたいなんて浅はかな理由で使わないで」
魔物はその言葉に絶望したように崩れ落ちる。
「いや~、流石ジェリーやなぁ。キッツいけど正論やで。で、あんたはどうする? 諦めるん?」
フーディーは何処あ楽しそうに言いながら、魔物の反応を待つ。
魔物は最後の力を振り絞るように立ち上がり、ジェリーに手を伸ばした。
「ワタシは…ワタシは…!」
その瞬間、ジェリーが手を軽く振ると、魔物はまるで霧のように消えていった。
断末魔の叫びも空しく消えた姿に、フーディーが拍子抜けした顔でじぇりを見る。
「あれ。もう消しちゃったん?」
「…醜いし、見るに堪えないから」
「せやな。ちょーっと女々しい奴やったなぁ」
フーディーはその様子を見て、少し困ったように笑った。
「でも愛されてるなぁ、ジェリー。ファンに泣かれるとか、モテモテやん。」
ジェリーはその言葉に無表情で振り返る。
「…僕はジョーカーじゃないんだ。あいつと一緒にしないで」
その言葉に、フーディーはニヤリとしながら笑った。
「あの魔物…ジェリーのようになりたいと思うほど、崇拝してたんやなぁ」
「…結局、自分の弱さを増幅させただけだったけど」
「まあまあ、そう言わんと! こういう舞台が一番面白いんやで。人間も、悪魔も、結局は最後に何を選ぶかで決まるんやから」
「人間が選んだのは『家族』だったみたいだけど」
フーディーはその言葉に驚いたように目を見開き、やがて笑みを浮かべた。
「家族って、ええなぁ…」
「…帰るよ。フー」
「えっ。もう帰るん!?」
「あとは人間達が何とかするでしょ」
「ちょい待ち! まだあっちにご馳走残ってるんやから!」
「…君。まだ食べるの」
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