肆
「麗麗様に直接お会いできるのは、ごく限られた方だけなんです! 村長とか、隣町の豪商とか……。宗派の方々は『高弟』と呼んでおられました」
宵闇が迫る刻限の町の外れを、麗麗は語り部だった娘……釉釉の案内で歩いていた。
麗麗の傍らにはもちろん翠熙もいるが、翠熙はほぼ無言なので釉釉の相手を務めているのはもっぱら麗麗だ。釉釉の口が軽くなるように気を使っているのか、翠熙の気配はいつにも増して薄い。もしかしたら釉釉は、本気で翠熙の存在を忘れているかもしれない。
「御布施を弾んでくれる方としか、麗麗様はお会いになられないのかしら?」
「お布施をすることは、信徒の大切な勤めですから! 麗麗様が会う方をお選びになるのも当然です」
──この子、かなりのめり込んでるわね。
釉釉が口にする『麗麗様』という呼称にむず痒さを感じながらも、麗麗は目深に被った外套の下から釉釉の表情を観察していた。
頬を紅潮させながらいかに『麗麗様』が素晴らしいかを語る釉釉の瞳は、ドロリと熱っぽくとろけている。およそ冷静な人間の目でないことだけは確かだ。
──お友達を早々に解放してあげて正解だったみたいね。
飯店で麗麗が二人に声をかけると、すぐに熱っぽく事情を語り出した釉釉に対し、もう一人は戸惑ったような表情を浮かべたまま口を開かなかった。
麗麗が聞き耳を立てていた分には楽しく語り合っているように思えた二人だが、どうやら釉釉の友人は積極的に話を聞いていたわけではなく、釉釉に捕まって仕方なく話を聞いていただけだったらしい。
話しかけて早々に友人が『これ以上、この件には関わりたくない』と言わんばかりに顔を強張らせていることに気付いた麗麗は、さり気なく友人を押しのけて釉釉の前に座り、釉釉の意識が自分に集中するように誘導した。
さらに言葉尻と身振りと流し目で『ここは私に任せて逃げなさい』と友人に示すと、友人は『いっけなーい! もうこんな時間! 私、用事があったんだった!』と実に大根役者な演技とともに逃げ出していった。店を出る間際に麗麗にだけ分かるように小さく頭を下げていったから、きっと『いらぬお節介』ではなかったはずだ。
──まぁ、この娘は、お友達の大根役者っぷりにも、お友達がどんな風にこの娘を見てるかも、きっと分かってないし、気にしてないんだろうけども。
麗麗の存在に気付いた瞬間、釉釉が麗麗の身なりをサッと確かめ、嬉しそうにニタリと笑ったことに麗麗は気付いていた。さっさと『お友達』から麗麗へ意識を切り替えたのも、外套の下からわずかに覗いていた麗麗の身なりがひと目で裕福な人間のそれだと分かったからだろう。
つまり今の釉釉が求めているのは、『友人』ではなく『金づる』なのだ。さらに言うならば、自分に少しでも縁がある人間ならば、誰を金づるにしても良いと考えている。
自分が信奉する『麗麗様』のために。
──分かりやすく金集めが目的の集団ね。小物だといいけれど。
信者を洗脳して金を搾り取る輩は、その輩自体を成敗しても被害者の今後の人間関係に大きな傷を残す。
信頼関係や情愛といったものは、長い時間をかけて構築していくものだが、壊れるのは一瞬だ。そして一度決定的に壊れてしまうと決して元には戻らない。
──私と翠熙の仲も、壊れていないようで破綻しているようなものだし。
チラリと一瞬翠熙に視線を投げてから、麗麗は釉釉へ視線を戻した。『紅麗麗に憧れている、旅の途中の裕福な若奥様』という設定を意識しながら、妖艶な微笑みといつもよりも落ち着いた声音を操り、麗麗は釉釉と当たり障りのない会話を続けていく。
「お会いしていただけると良いのだけれども。いきなり押し掛けて、ご迷惑にならないかしら?」
「大丈夫ですよ! 望む者に対して、門扉はいつも大きく開かれていますから!」
──つまり、全てはどこまで金を積めるかにかかっている、ということね。
余程大丈夫なはずだけど、ともう一度翠熙に視線を送った瞬間、釉釉の足が止まった。
倣って足を止めれば、鬱蒼と茂った木々が途切れた先に石垣が築かれ、その切れ間に門扉が開かれた厳しい門が鎮座しているのが目に飛び込んでくる。向こう側には前庭が設えられているのか、今立っている位置からは石畳が真っ直ぐ奥へ続いている他に特に目につくものはなかった。
「ようこそおいでくださいました。こちらが紅麗麗様の御所、紅雲閣です」
釉釉は勿体付けるように麗麗へ向き直ると、両袖を重ね合わせるように両手を胸の前へ捧げた。貴人の礼を精一杯真似たのだろうが、慣れていないのか動きがどこかぎこちない。
「紅雲閣……」
──今度の紅雲閣は、随分と辺鄙な場所に置かれたわねぇ。
琳王宮で己の御所が冠していた名前をここで聞くことになるとは思わなかった。どうやらここにいる『紅麗麗』は、きちんと『本家』周囲の逸話を把握しているらしい。
釉釉の動きを真似て一礼を返すことで、麗麗は噛み殺さなかった苦笑を誤魔化した。
その瞬間、麗麗の後ろに控えていた翠熙がピクリと何かに反応を示す。その理由が門の向こうからやってきた気配にあることは、麗麗ももちろん気付いていた。
「何者だ」
「黒雲様!」
釉釉がパッと顔を輝かせて声の主を振り返る。麗麗が釉釉の視線の先を追うと、門の向こうで足を止めた人間が品定めするような顔をこちらに向けていた。
もっとも、『顔』と言っても頭巾と面紗で大部分が覆われているせいで、相手の目元しかこちらは見ることができないわけだが。
「黒雲様、紅麗麗様へのご面会を希望される方をお連れいたしました」
──体格的に男ね。術師のようには見えないけれども……
釉釉の紹介の声を受けた麗麗は、黒雲と呼びかけられた男に向き直ると、わざと中の装束が見えるように外套を翻しながら大袈裟に一礼を向けた。麗麗の意図を察した翠熙も、同じように頭を下げる。
「御高名な紅麗麗様の御所がこちらであると、旅の道すがら伺ったものでございますから。無礼を承知で、お邪魔させていただきました」
宵闇が周囲を包み始めたこの時分でも、麗麗の装束の鮮やかさや翠熙が身につけた装飾品の美しさは見て取れるはずだ。日々無知な人間達から金を巻き上げることに余念がない人間であるならば、小金の匂いには敏感だろう。
「御礼は弾ませていただきます。紅麗麗様に一目お会いすることは適いますでしょうか?」
そうあたりをつけた麗麗は、優雅な声音と物言いで丁重に頭を下げる。
そんな麗麗の挙措を観察していた男は、一瞬面紗の下でフッと笑うと柔らかな声を上げた。
「当派の門は、望む者には広く開かれております。娘娘、先生、どうぞこちらへ」
──まずは第一関門突破ね。
用いられた呼称から推察するに、どうやら相手は麗麗と翠熙を『身分のある女性とその従者』と見て取ったらしい。
一瞬、麗麗の心の片隅を『夫婦として扱われなかったことに翠熙が怒らないかしら?』という不安が転がっていったが、背後に控えた翠熙は静かな気配を保ち続けている。どうやらきちんと任務として割り切っているようだと、いらぬ心配をしていた麗麗はほっと胸を撫で下ろした。
──思えば昔から、私よりもずっと、任務となれば感情が割り切れる性質だったわよね、あんた。
そんな翠熙だったからこそ、麗麗を討つこともできたのだろう。
さらに過ぎった他事を意識して頭から締め出すと、麗麗は下げていた頭を上げた。改めて顔を向け直せば、門の内に立ったままの黒雲は半身を捌くようにして体を引き、恭しく片手を上げて奥を示している。
麗麗は再度謝意を示すために軽く頭を下げると、前へ足を踏み出した。その後ろを音もなく翠熙が進む。さらにその後ろに浮かれた釉釉の足音が続いたが、麗麗と翠熙が門の敷居を越えた瞬間、厳しい声が釉釉を制止した。
「お前は入ってはならぬ」
「えっ、で、ですが……!」
「この門をくぐるには、お前はまだ功徳が足りん」
──『功徳』ね……
どうやら釉釉は一度紅麗麗と対面を果たした後、こうして門前払いをされ続けているらしい。一目で金目な客だと分かる人間を連れて来た今回ならば、その功績で中に入れてもらえると考えていたのだろう。
夢を打ち砕かれた幼子のような顔をした釉釉は、涙が滲む目を伏せるとギュッと裙を握りしめる。それでも黒雲に文句を言おうとしない辺りから、釉釉の狂信の片鱗が見えたような気がした。
「功徳を積めば、いずれ宗師様のお側にお仕えすることもできる」
うつむいてしまった釉釉へ、黒雲は声をひそめるように甘く囁きかけた。
その言葉は釉釉にとって、天から垂らされた蜘蛛の糸に等しいのだろう。途端にパッと顔を上げた釉釉は、一転して希望に頬を紅潮させていた。そんな釉釉の様子に黒雲は満足そうに目を細める。
「弛まず励め」
「は、はい!」
『失礼します!』と元気よく答えて一礼した釉釉は、もはや麗麗を振り返ることなく跳ねるように駆けていった。頭の中はすでに次のカモを見繕うことに忙しいのだろう。きっと今の釉釉の中で『紅麗麗』以外のものは価値が皆無に等しいほど霞んでしまっているに違いない。
──ああいうのは、たとえここを潰せたとしても、救ってあげられない。
目の前に今まさしく破滅に向かって転がり落ちていこうとしている人間がいるのに、麗麗にはそれを止める手立てはない。そのことに麗麗はやるせなさを噛みしめる。
「お目汚しを失礼致しました」
麗麗の視線が釉釉を追っていることに気付いたのだろう。黒雲は丁寧に頭を下げると再度奥を示した。
「さあ、こちらへ。宗師様が御面会いたします」
その声に、翠熙が無言のままそっと麗麗の背中に手を添えた。
その手に込められた思いを正確に汲み取った麗麗は、感傷を振り切ると黒雲へ顔を向け直す。
──そうね、翠熙。今は目の前のことに集中しなくちゃね。
「ええ」
外套の下で艶やかに微笑み、麗麗は傲慢に顎を上げた。
「案内をしてちょうだい」
──さぁ、魔物の巣窟にお邪魔させてもらいましょうか。
まるで蔓延る瘴気が具現化したかのように視界を闇が覆っていく中、麗麗は躊躇いのない優雅な歩みで奥へ続く石畳を踏みしめた。