壱
昔々……と言っても数年前のこと。
琳という国は、一人の悪女によって牛耳られておりました。
悪女は有名な仙家で修行を積んだ立派な術師であったという話ですが、彼女は我欲から邪術を極め、その邪術を用いて王を始めとする国の重鎮達を操り、非道の限りを尽くしました。
彼女が進む先には富の山が、彼女が歩いた後には死屍累々が積み上がり、犠牲となった民の血が河となって流れました。
何人もの勇気ある者が悪女に立ち向かいましたが、誰も敵いませんでした。それも当然。悪女は国を牛耳る以前は、呪術界屈指の名門仙家の一番弟子だったのです。
しかしある日、ついに悪女に裁きの鉄槌を降す者が現れます。
彼の御方の御名は李翠熙。琳国の第五皇子であり、悪女と同じ仙家で修行を積んだ高位の術者でもありました。
皇子を旗印に、ついに民は立ち上がります。その大地を揺るがすような鬨の声に、ついに『国政不干渉』を貫いてきた数々の仙家も呼応しました。
数多の民と術者が『打倒悪女』を掲げて琳の王宮に傾れ込みました。その先頭で刃を掲げていたのも翠熙皇子でした。
悪女が繰り出す邪術を師より下賜された宝剣で切り伏せ、数多の敵を屠り、ついに皇子は悪女の首を取ります。
悪女が身につけた紅衣よりも鮮やかな鮮血に、民は狂喜乱舞しました。これで平和な時が戻ってくるぞ、もう怯えることはないぞと、都中の人間が喜びを叫びました。
……こうして『紅の邪仙女』紅麗麗は無事に討ち果たされたのです。
めでたし、めでたし。
──って! なる予定だったのになぁー! なぁーっ!!
飯店の片隅に座した麗麗は、どこからともなく聞こえてきた語り部の声に思わず卓に肘をついたままこめかみを押さえた。そのせいで頭の上から深く被った暗色の外套がズルリと後ろへ落ちかける。その瞬間、こめかみを押さえていた手は素早く外套の縁を握りしめ、必死に外套を顔の前まで引き下げていた。
こんな所で姿をさらけ出してしまった暁には、どんな目に遭うか分かったものではない。ここが都から遠く離れた地であろうとも、油断なんてしていられるものか。
「麗麗、どうした」
そのままズルズルと卓に突っ伏した麗麗の向かいから涼やかな声が落ちる。低く、清廉でよく通る声は、まるで深い森の奥を流れる清らかな清水のようだ。
こんな目に遭った後でさえそう感じてしまう自分が、いっそ憎い。
「腹でも痛いのか」
どこか頓珍漢な物言いに、麗麗は卓に突っ伏したままチラリと視線だけを上げる。そしてそこにある御尊顔に思わずヒクリと顔を引き攣らせた。
──本っっっ当に、腹立つほど顔がいい……!
氷のように冷たく整った顔をした男だった。基本的に表情がない顔には今、若干心配そうな雰囲気が漂っている。
光が差し込むと翡翠のように深い緑色にも見える黒の瞳。髪は深い漆黒で、後頭部の高い位置でひとつに纏め上げられていた。目の肥えた人間がその髪を束ねる飾りを見れば、小さな飾りひとつが平民の稼ぎ一年分相当の銭に化けることに気付いただろう。
纏った暗色の外套こそ旅塵に塗れて煤けているが、その中に着込んだ深緑の袍も、合わせた黒い帯も、よく見ればここらでは中々お目にかかれない高級品だ。そんな高価な品々をそつなく着こなす気品が、目の前の男には当然のものとして備わっている。
「……屍尢が腹痛なんてなったら、世も末だわ」
この男の趣味で揃えられた己の衣のことを思い出し、麗麗は厭味を口にしながら今度は外套の襟をかき集めた。その拍子に首に巻かれた紅の絹布がモソモソと揺れる。
──よくよく考えなくても私、真に隠さなきゃいけないのは顔よりもこの装束なんじゃない?
「では、痛いのは首か?」
身動ぎしたせいで襟元から飛び出してきた絹布を外套の中に押し込んでいると、サッと目の前の男が表情を曇らせたのが分かった。この世の終わりと言わんばかりに顔を曇らせた男は、手にしていた茶杯を卓に戻すと麗麗へ手を伸ばす。
「麗麗、無理は良くない。今日はもう部屋を取るから休もう。ともに寝台に並んでゆっくり傷を見せてほし」
「私の首を刎ねた張本人が言わないで」
男にしておくにはもったいないくらい美しい手を、麗麗は容赦なくピシャリと払い落とした。ついでにジトリと睨み上げてやれば、なぜか男はほんのりと頬を赤く染める。
「あと、何でさり気なく同じ寝台で休むことが前提になってるのよ」
「では、いつになったら同じ寝台で休んでくれるんだ、麗麗」
「一生ない。いや、もう私の一生は終わっちゃってるからこう言ってあげる。来世の一生でもない」
「では、てっとり早く既成事実を作るためにもともに」
「なお悪いわっ!! てか『では』って何よ『では』って!!」
ここ最近定番となりつつある噛み合わない会話に溜め息をつきつつ、麗麗は仕方がないから体を起こした。この体はすでに死んでいるというのに、こめかみに走る鈍痛が止まってくれない。
「というかね、そう何回も麗麗、麗麗って呼ばないでくれる?」
麗麗からの苦言にキョトンと首を傾げる目の前の男に……幼い頃から腕を競い合った好敵手であり、人生の最後で対極の立場に立つことになった幼馴染に、麗麗は今日もピッと指先を突き付ける。
「死んだはずの『紅の邪仙女』紅麗麗が目下行方知れずの『救国の仙君』李翠熙の手によって復活させられてて、式として旅のお供をしてるなんて世間に知られたらどうなるか、あんただって分からないわけじゃないでしょ?」
「麗麗、『ただの旅』ではなく『新婚旅行』だ。さらに言えば『お供』ではなく『花嫁』」
──ダメだ。まったく話が通じてない……!
あまりの通じなさに突き付けた指の先までプルプル震えていたら、なぜか翠熙は伸ばされた麗麗の指をそっと握りしめてきた。
違う。何がどうなったらそんな反応になるのか。
──えぇぇもう! いつからこんなに話が通じない人間になっちゃったのよ翠熙ぃぃぃっ!!
麗麗は今日もプルプルと理不尽に震えながら、こんな日々の始まりに思いを馳せた。