潜入
世瀬と小尾飛田が山原夫妻から事情を聞いていた頃、紾はというと未だに旅館へ着く事は叶わず、運転するパトカーは町中を走行していた
蔡茌 紾
(さっきの所、左に曲がった方が良かったのか?)
直前に枝分かれになっていた道は、左側が山道へ続いていた。カーナビが近道だと導かれるままに右側へとハンドルを切った紾は、到着時間を過ぎている事で道を間違えたのではと不安になる
進んだ道の先には、古めかしい商店街がありパン屋や喫茶店、小さな銭湯などが並んでいた。珍しそうにパトカーを見る人と何度か目が合った後【この先は奥島ホール】と書かれた看板を発見した紾は、軽く目眩を覚えた
蔡茌 紾
(やっぱり道を間違ってる…よな?)
確かめるようにカーナビを見てみると、このまま進み続け曲がると、誘蝶木旅館へ着くと表示されている。引き返すにしても、道が狭すぎてここでは迂回できず、仕方なくカーナビが指す方角へ進んでみる事に…
そうして着いた先には、田舎町にしては立派過ぎる建物【奥島ホール】があった。カーナビが曲がれと表示する先には、崖がそびえ建っている
ゆっくりとパトカーを停止させた紾が、窓越しから目を凝らすと、崖の上に小さな屋根らしきものが見えた。おそらく誘蝶木旅館だろう
蔡茌 紾
「……どうやって、登れって言うんだ」
崖を越えさせようとするカーナビを少し恨めしく思いながら、引き返す為にパトカーをUターンさせると、紾の視界の端に一人の男が映った
先に居たのか、男はこの場に似つかわしくない黒と赤の高級車にもたれ掛かっていた。急に現れた紾を観察しているのだろうか、男は無言でじっと見つめていた
紾は、一瞬声を掛けようか迷ったものの先程の人達と同じように、ただパトカーを物珍しく見ているだけかもしれないと、そのまま男をスルーし来た道を戻るべくパトカーを走らせた
バックミラー越しに映った男の視線が鋭く口元が緩んでいたせいだろうか、薄気味悪さを演出させるには十分だった
ー
ーー
ーーー
なんとか誘蝶木旅館へとたどり着いた紾は、小さな駐車場スペースに空きがあるのを確認すると、そこへパトカーを停めた
長時間の運転にやや疲れを感じながらも、まだ始まったばかりだと切り替えると、芥を起こすべく助手席へと目をやったーー瞬間
蔡茌 紾
「うわっ?!」
頭を運転席側へと傾け、上向きの顔のままバッチリと両目を見開いた芥と目が合った
すっかり寝ているものだと思っていた紾は、驚きのあまり声を上げて飛び退いてしまう。ゴンっと窓ガラスに後頭部を打った鈍い音が響く
蔡茌 紾
「痛たっ」
芥 昱津
「……」
頭をさすりながら紾は、目を開けたまま全く動かない芥を不審に思った
蔡茌 紾
「芥?…まさか、目を開けたまま寝てるのか?」
試しに顔の前で手をかざしても反応しない芥の思考は、完全に止まっていた
いつから目が開けっぱなしだったのか気になる一方で、もし運転中に気がついていたら驚いて急停止をしていたかもしれないと思うと、紾は気がついたのが今で良かったと改めて思った
蔡茌 紾
「芥、着いたぞ。起きてくれ」
そっと声を掛けながら、肩を軽く揺らすと……見開いたままの芥の両目がギョロっと動く
蔡茌 紾
「っ?!?!」
あまりの不気味さに、今度は声すら出せず紾はその場で固まった
芥 昱津
「あれ?め…ぐる、君??僕……寝て、たの?」
紾の心境など知らず、目覚めた芥は体を起こすと目を擦った
蔡茌 紾
「あ、あぁ」
なんとか平静を装い返事を返す紾に、まだ寝ぼけているのだろうか、芥はさっきまで開けっぱなしだった両目をパチパチとさせながら、呆然としていた
芥 昱津
「僕、どれくらい、寝て、たの?」
蔡茌 紾
「だいたい、2時間くらいじゃないか」
芥 昱津
「…そっか、そう、なんだ…へへへ」
蔡茌 紾
「??」
何故か嬉しそうに笑う芥だったが、紾は全く要領を得ず困惑するばかりだった
いつまでもそうしてる訳にもいかないので、取り敢えずパトカーを降りようと、紾が言おうとした矢先に「そうだ!死体が…僕を、待ってる!」と思い出したかのように叫ぶのと、芥が動き出したのはほぼ同時だった
彼は器用にシートベルトを通り抜けると、足元に置いていた鞄を掴みながら、パトカーのドアを開けて足早に旅館へと向かう
いつもとは打って変わり、あまりの素早さにやや気圧されながらも、紾も慌てて後を追うべく、パトカーを降りた
旅館のロビーは、数時間前とは違って騒がしかった。何人かの客が従業員に文句を言っており、全員が警察騒ぎの理由を問いただしていたが、従業員は何の説明もせずに客を宥める事に専念していた
中には、宿泊代を無料にしろと言いよる声も上がっていて、ここまでならよくあるクレーム対応に見えるものの、旅館内に何人かの警察官が居るを見ると、ただ事ではない異様さが伝わっていた
その間を、芥は通り抜けながら見張りの警察官が立っている場所を見つけると、真っ直ぐに向かう
地下への入り口がある倉庫の前には、キープアウトの黄色いテープが道を塞ぐように貼り付けてあった。一瞬、見張りの警察官に止められかけた芥だったが、慌てて紾が警察手帳を見せた事で、素直に通る事ができた
薄暗い地下への階段を降りると、そこは別世界のように静まり返っていた。二人が着く前には鑑識は仕事を終わらせて引き上げており、今この空間には紾と芥以外は居なかった
懐中電灯を持たない紾は、行き先を照らそうとスマホの灯りをを付けるも、構わず芥は先頭を歩く
蔡茌 紾
「ちょ、ちょっと待ってくれ、もう少しゆっくり歩いてくれないか」
迷路のような場所だと気づいた紾が、迷ったら大変だと呼び止めるが、聞く耳を持たない芥は直線を突き進む
芥 昱津
「……こっちに、死体が……いる気がする」
勘で場所を当てた芥は、例の実験部屋を見つけた。頑丈な扉は既に開けたままになっており、部屋の中の電気は点いたままだった
小尾飛田が解剖医の判断を仰ぐ為、四人の遺体は袋に入ったまま手付かずで、部屋の中央にあるストレッチャーの上へと乗っていた
芥は、予め持ってきていた手袋を両手にはめると、ジッパーを開けて中に入っている遺体を観察する
芥 昱津
「…。エンバーミング…だね」
数秒で遺体の状態を理解し、隣に居る紾へ向けて呟く
蔡茌 紾
「エンバーミング?」
世瀬同様、専門的な医療用語に覚えのない紾はオウム返しに聞き返す
芥 昱津
「遺体衛生保全、とも言う…んだけど、要約すると、遺体を…長期保存する為、の技術だよ」
遺体の長期保存。いまいちピンときていない紾を察して、芥が遺体を触りながら付け加える
芥 昱津
「一般的、には…お葬式待ちの時とか、国を超えて…遺体を、運ぶ時だったり、遺体の損傷が…激しい時なんかに、使われる事が…あるんだ。遺族からしても、なるべく、綺麗な状態で…見送りたい…だろうから」
蔡茌 紾
「なるほど、道理で綺麗な訳だ」
独特の遺体を見た紾は、世瀬が"特殊な状態"だと言っていた事に合点がいく
芥 昱津
「綺麗…なんかじゃ、ない…」
蔡茌 紾
「え?」
ポツリと呟かれた言葉は、紾の耳をかすめた。言葉の意味を探る為に遺体を凝視すると、身体中に切り傷と縫い合わせた痕があるのに気がつく
遺体があまりにも綺麗なせいだろうか、余計に傷痕が目立ち痛々しさが増しているように見えた
芥 昱津
「遺体に損傷が…ない場合、こんな傷は…絶対につかない」
一人目の遺体を見終わるとジッパーを閉じて、次の遺体を調べながら芥は続きを話す
芥 昱津
「本来なら、血液と防腐液を…入れ替えるだけで、良いんだよ。静脈と、動脈だけの、小切開で、済むはず」
小切開とは、身体に大きな傷を残さない為、小さな切り込みで処置する事で、その大きさは約1.5cm〜2.0cm程度だ
言葉に聞き覚えはなくとも、響き的に何となく察した紾は、目の前にある遺体に付けられた沢山の傷痕に違和感を抱くと同時に、芥が綺麗じゃないと言った意味が分かった
蔡茌 紾
「もしかすると、このご遺体は生前手術をした事があるのかもしれない」
一番ありそうな可能性を考えた紾だったが、芥は静かに首を左右へ振り否定した
芥 昱津
「手術痕なら、場所を見れば…どんな手術をしたのか、予想がつくよ。でも、これは…違う、こんな不規則な手術痕なんて、存在しない。それに…この傷は死後、付けられたもの、だよ」
解剖医としての経験と知識から、芥はそう断言した
それから、短い時間で四人分の遺体を一通り調べると、芥は全ての袋の口を閉じた後、遺体へ向けて静かに両手を合わせた
彼のしようとする事に気がついた紾も、習うように四人の遺体へ向けて黙祷を捧げる
黙祷を終えた(あくた)は、遺体から離れると徐に部屋の中を探りだす
蔡茌 紾
(意外だったな)
笑う解剖医。その異名の通り芥昱津は、死体を前にすると笑い声を上げてしまう
薄暗い解剖室の中で、死体を目の前に高笑いを続ける。その不気味な光景は紾自身も目撃した事があり、思い出すだけで恐怖に背筋が凍りつく
倫理観が欠けている行為だが、遺体へ向けて両手を合わせる姿を目の当たりにすると、つい異名からはかけ離れていると思ってしまう
蔡茌 紾
(そう言えば、今日は笑ってないな。いや、これが普通…なんだよな?)
高笑いをしない芥に違和感を感じつつも、本来は笑わない事が当たり前なのだと、紾は思考を戻す
いつの間にか芥の姿が見当たらず、慌てて紾は部屋の中を見まわした。すると、奥にもう一つ部屋がある事に気がつき足を進めた
扉のない部屋の中は、壁一面に空の棚があった。その周りには大量の本や資料が散乱していた。全て棚から落ちたのだろうかと思うのも束の間、壁一面の本棚にしては少ないなと紾は思った
そんな時、パラパラと紙ををめくる音がした。そこには散乱している本や資料を手当たり次第に、読み漁っている芥が居た
マスクをしているので、表情は分かりづらかったものの雰囲気と集中している眼差しから、やっぱりいつもと比べると様子が違う気がして、紾は思わず声を掛けた
蔡茌 紾
「芥?何か気づいた事があるのか」
その呼び掛けに反応した芥は、体勢を変えず文字を目で追ったまま答える
芥 昱津
「エンバーミングはね、腐敗の原因になる…身体中の体液や内容物を、全てを吸引して、取り除くんだ。だから、通常の遺体とは、重量も違う」
喋りながらも、速読に掛ける時間は変わらないままで「でも」と言葉を続ける
芥 昱津
「ここの遺体の、四肢や胴体の…重量や感触は、不自然過ぎる」
小尾飛田と同じ見解に行き着いた芥は、この部屋の中に何か手掛かりが隠れているかもしれないと、特技でもある速読で本を読み漁っていた
遺体に何かあるのなら、その遺体を調べた方が早いのではと疑問が過った紾だったが、勝手に解剖を始めてしまうよりも、協力を求めた小尾飛田を探し状況を聞いてからの方がいいと思い直す
蔡茌 紾
「芥はそのまま調べていてくれ、俺は情報開示課の人を呼んでくる」
芥の気が変わらない内にと、紾は部屋を出ていこうとした。すると、頑丈な扉が閉まり掛けている事に気がついた
蔡茌 紾
「来た時は、こんなんじゃなかったよな」
不思議に思いながらも扉を開けるべく触れると、ギィと音が鳴り錆がバラバラと落ちてくる
蔡茌 紾
「劣化してるのか。危ないな…」
時間が経つと勝手に傾いてしまうのだろう。紾は、今にも壊れてしまいそうな扉を全開まで開けると、手頃な小石を見つけ動かないように噛み合わせた
蔡茌 紾
「とりあえずは、これで良いだろ」
ストッパーにしては、やや頼りない気もしたものの鍵が掛かってしまう訳ではないからと、その場を後にする
紾が地下から出ると来る時に居たはずの見張りの警察官は居らず、その代わりに通路側のドアが閉じられていた。何かあったのかと思いながらも、そのままロビーへと向かう
ガヤガヤ ガヤガヤ
ロビーは相変わらず騒がしいままだった。旅館内を闇雲に探すよりも、誰かに聞いた方が早いと、来る時に見た警察官が居ないか周りを見回し探す
蔡茌 紾
(さっきまで居た警官は何処だ?見張りの人も居なかったし、やっぱり何かあったのか?)
紾は、来た時はちらほらと見えていた警察官が、近くにいない事を疑問に思いつつ、当てが外れてしまいその場に立ち尽くす
蔡茌 紾
(とにかく、旅館の人に聞くしかないよな。手が空いてる人が居れば良いんだけど)
宿泊客の対応に追われている従業員の中、手が空いてる人を中々見つけられる訳もなく、自然と紾は邪魔にならないようロビーの端へと移動する
周りに集中していたからか、移動した先で人が居るなんて思わず、軽くぶつかってしまう
蔡茌 紾
「?!、すみません」
慌てて謝る紾を、その人物は心底驚いた顔をし、数秒の後我に返ると迷惑そうに顔を引き攣らせた
従業員
「良いですよ、別に」
そう言った男性は、旅館の名前の入ったはっぴを着ていて、誰から見ても従業員だと分かる格好をしていた事から紾は喜んだ
蔡茌 紾
「ちょうど良かった。従業員の方ですよね、警察官が何処へ行ったか知りませんか?」
従業員
「警察?どうしてそんな事聞くんです?」
紾を警察官とは知らない男は、急な質問に警戒する。その態度に慌てて、紾は警察手帳を見せた
蔡茌 紾
「いきなりすみません。先ほど着いたもので」
従業員
「あぁ、警察。通りで洞察力がある訳っすね」
蔡茌 紾
「え、えっと??」
勝手に何かを納得した男に、全く心当たりが無い紾は呆然と男を見た
従業員
「いや、だってこんな端に居る俺に気づいたみたいなんで」
遠回しに怒られているのだと、紾は身の潔白を証明すべく頭を下げた
蔡茌 紾
「まさか!たまたま、ぶつかっただけなんです。本当にすみません」
素直に何度も謝る紾を見て、自分の勘違いだったと、男は小声で悪態をついた
従業員
「……なんだ、たまたまかよ。脅かせんな」
蔡茌 紾
「えっと…」
男が何を言ったのかは聞き取れなかったが、雰囲気的に迷惑がられているのだと、紾は居た堪れない気持ちになる
気まずい空気の中、急に男は笑顔になりその態度は一変した
従業員
「俺の方こそ、すみません。この騒ぎのせいで少し苛々してたもんで。他の警察の方なら、確か…二階に居る筈ですよ」
蔡茌 紾
「ありがとう、ございます」
男の変化に気圧されながらも、教えてくれた事に関して紾はお礼を言う
従業員
「ここよりも騒がしかったんで、なんかあったみたいっすね。早く行った方がいいんじゃないですか」
急かされるように男に言われ、紾は半ば強引に二階へと向かわされた
階段を登りながらも、不自然な従業員の男だったなと思い、何となくもう一度男の居た方を見た
蔡茌 紾
「あれ、居ない?」
ロビーの何処にも男の姿は見当たらなかった。何かが引っかかり、男を探そうと目を凝らしていると、頭の上から声が降りかかってきた
世瀬 芯也
「そんな所で突っ立って、何してんだ?」
反射的に顔を上げた紾は、呆れた顔の世瀬と目が合う
蔡茌 紾
「世瀬?!突っ立ってただけじゃなくて、ちょっと気になる事があったんだ」
つい、いつもの調子で返事を返す紾を世瀬は鼻で笑いながら、親指を立て後ろへと何度か振る
世瀬 芯也
「いいから、早く上がって来い」
蔡茌 紾
「何かあったのか?」
世瀬の様子と周りに警察官が居ない事で、何かあったのかと紾は、先程の男の事を気にしつつも階段を登っていく
その様子を視角から覗いていた男は、階段を登っていく紾を見送ると安堵の息を吐いた
従業員
(完全に気配消してたから、本気でビビっただろ。ったく、ラッキーで手薄になった隙を窺って忍び込んだってのに警察に気づかれるなんて、冗談じゃねぇ〜つーの)
従業員に扮した男ーーシンドバッドは、心の中で悪態をつくと目的の研究資料がある場所、地下室へと向かう
従業員
(アラジンに言われた通り、早いとこ研究資料回収して退散するか)
警察官だけでなく人の目がある中での行動はやりずらく、なるべく誰にも目撃されないよう息を殺して、慎重に歩みを進める
すると玄関の方から、白衣を着た人間が何か文句を言いながら旅館の中へ入ってくるのが見えた
従業員
(げ、まだ誰か来るのかよ)
彼らは小尾飛田に呼ばれて遺体の調査をしに、法医学教室から来た法医学者達だった
急に呼ばれた事に不満があるのか、文句を言う法医学者と予め外で彼らを待っていた警察官の筒抜けな会話のお陰で、シンドバッドは彼らが来た理由もこれからする事も把握する事が出来た
新たに人が増えた事で余計に身動きが取りづらくなってしまい、シンドバッドは心の中で舌打ちをする
従業員
(っち、どうする?気絶させるにしても人数が多過ぎるだろ)
少し考えた後、急遽作戦を切り替えたシンドバッドは、法医学者達に声を掛けた。従業員として案内するように言われたと嘘をつき、彼らと共に地下へと降りていく
従業員
(見るからに阿保そうな連中だし、適当な事言って一緒に行った方が逆に目立たないだろ。どうせ目当ての物さえ手に入れれば、後は地下の目印を頼りに脱走すればいい)
一見、地下道は迷宮迷路の様に見えるが、道標となる目印が付けられている事を予めアリババから聞いているシンドバッドからすれば、隙を見て姿を暗ますことは容易だった
混雑した状況下でシンドバッドが居なくなったとしても、誰一人気にかけないし従業員として扮していたとバレた所で、正体を掴む事など出来ないだろう