調査中
誘蝶木旅館にて
数時間前までは、どこにでもある普通の旅館だったが、通報を受け先行して来た警察官や鑑識達が、忙しなく出入りしていて、普通とはかけ離れた環境となってしまっていた
旅館の女将である山原澄恵は、ロビーの椅子に腰掛けていた。その顔色は蒼白で力が抜けたようにぐったりと、今にも倒れそうな程だった
そうなってしまうのも無理はないだろう。旅館の水に異常があると水質検査を受けただけでも、経営は左右されるのに、そこに付け加えて地下から四人の遺体が出てきてしまった
極め付けは、調査していた警察官2名の失踪。となれば、明日の朝刊やニュースの見出しは容易に想像出来てしまう。ただでさえ、細菌がどうこうと悪質な記事のせいで、迷惑電話が掛かってきていると言うのに、最悪が重なった事で、彼女はかなり参ってしまっていた
山原 澄恵
「……」
そんな彼女の様子を遠目で見ていた男ーー情報開示課の小尾飛田 空子は、仏頂面の顔をより険しくさせると、ボルドー色の前髪を掻き上げながら、近くに居た警察官に声を掛けた
小尾飛田 空子
「まだ、話はできないのか」
警察官
「先ほどからあの様子で、何回か声を掛けに行ったのですが、まったく反応がなくて。とりあえず水でも持って行こうかと思いまして」
そう言った彼の手には、自動販売機で購入したであろうペットボトルの水があった
小尾飛田 空子
「俺が行こう。そろそろ世瀬さんも到着する頃合いだ、表で出迎えてくれ」
言いながら小尾飛田は、自然な動きで警察官が持っていたペットボトルを手に取った
警察官
「管理官がいらっしゃるのですか?!」
"世瀬"と言う名前に反応した警察官は、急に緊張した面持ちで背筋をピシリと伸ばした。伸ばすと言うよりは、硬直したに等しくそれ程までに、世瀬管理官の存在が大きいのだと分かる
元はと言えば紛らわしい言い方をした小尾飛田が悪いのだが、そんな事など気にも止めず緊張する彼を、呆れたように見るとため息混じりに口を開いた
小尾飛田 空子
「違う、その息子の芯也さんの方だ」
それを聞いた警察官は「あぁ、噂の」と、漏らす気の無かった言葉を呟いた。先程の緊張した表情から一変して、まるで得体の知れないものを見るかのように、苦々しい表情をした
その理由は、情報開示課が最近設立された部署と言う事もあるが、公安のような役割を担っているという部分も強く影響していた。淂崎も言っていたように、身内に疑われると言うのは、あまり気分が良いものではないのだろう
影で動く公安ならまだしも、警察内部の部署で堂々と設立されていては、嫌悪感すら抱いてしまう。しかも発案者が世瀬芯也となれば、彼は警察を信頼していないのだと、思われても仕方がない
これが、ジョーカーの現状なのだろう。その目的が別の所にあったとしても、他からの風当たりはあまり良いものではなく、そう簡単に信用も信頼も得られないだろう
小尾飛田 空子
「この現場は、情報開示課が指揮している。世瀬さんが来るのは自然な事だ」
明らかに歓迎していない態度だったが、小尾飛田は臆する事なく堂々と言い放った。その態度に気圧されたと同時に、目の前の人物もジョーカーの人間だと気づいた警察官は、慌てたようにビシッと敬礼した
警察官
「は、はい。失礼しました!ご命令通り、お迎えに伺います」
一瞬でも、ジョーカーの事を悪く思ってしまった負い目からか警察官は、そそくさとその場を離れて行く。そんな彼に構う事なく小尾飛田は、未だにロビーの椅子で項垂れている山原の元へと歩み寄った
小尾飛田 空子
「そろそろ、事情を聞かせて貰います」
山原 澄恵
「………後にしてくれませんか」
そう言った彼女の声音は、とても弱々しく精神的に参っているのだと分かる
弱りきっている彼女を目の前にした小尾飛田は、椅子を一つ持ってくるとそこへ腰掛けた
小尾飛田 空子
「失踪した警察官2名と最後に接触したのは貴方です」
小尾飛田は、彼女の言葉を聞くどころか心配する素振りすら見せず警察手帳を取り出すと、有無を言わせない態度で強引に話を進めた
小尾飛田 空子
「本日9時30分頃、貴方は市の男性役員である伊藤さんと交番から来た、警察官の淂崎と剛洞2名と旅館の前で話しましたね」
山原 澄恵
「……」
小尾飛田 空子
「話をした後、伊藤さんは旅館の水質検査を行う為、その場を離れました。残された貴方は淂崎と剛洞と行動を共にしていたのを、従業員が目撃しています」
山原 澄恵
「……」
全く反応を示さない山原を無視し、構わず小尾飛田は話を続けた
小尾飛田 空子
「そして、貴方が2人を地下へと案内した。伊藤さんによれば"時間が経っても出てこない"と貴方から言われ、彼は数人の従業員と共に様子を見に地下へ降りて行ったと。地下の道を真っ直ぐに進み、開いている扉を見つけて中へ入ると、四人の遺体を見つけ警察へと通報した。ここまでは、間違いありませんね」
山原 澄恵
「えぇ」
話をやめる気がない小尾飛田に対し、山原はため息混じりに返事を返す
本来なら、本人の口から全ての状況を聞きたいところだが、憔悴しきった彼女からは難しいと判断した小尾飛田は、自身が流れを説明する事でその手間を省くと、確信的な部分を問いただす
小尾飛田 空子
「貴方が淂崎と剛洞を地下へと案内した時刻は、9時45分頃。伊藤さんに異変を知らせた時刻が10時5分頃。その間の約20分間、貴方は何をしてたのか詳しく聞かせて貰います」
尋問しているかの様な物言いに、声音こそ弱々しかったが、山原は苛立ちを隠さずに答える
山原 澄恵
「私は何も知りませんし、その間誰とも会ってません」
小尾飛田 空子
「……」
彼女の言葉を聞いて、今度は小尾飛田が黙った。彼は口を閉じたまま、観察するようにジッと山原を見つめる
山原 澄恵
「な、なんなんです、いい加減にして」
無言の視線を不気味に思った山原の顔色は、さらに血の気が引き蒼白を通り越していた。その瞳には微かに恐怖が滲んでいる
山原 鉄治
「妻に何か用ですか」
突如、男性の声が響いた
ただならぬ雰囲気を察し、息を切らせてやって来たのは、50代半ばぐらいの人が良さそうな印象の男性だった
普段は滅多に顔を強張らせる事はないのだろう、慣れないながらも小尾飛田を警戒するように見ながら、彼は妻である澄恵を庇うような形で、その場に加わった
小尾飛田 空子
「落ち着かれたようでしたので、奥さんに事情を伺っていただけです」
しれっとした顔でそう説明した小尾飛田を澄恵は、静かに睨みつけた
山原 鉄治
「妻はまだ本調子じゃないんです。部屋で休ませますから、話なら私が伺います」
顔色が悪い妻を本当に心配しているのだろう。だが小尾飛田は、それを静止するように睨みを効かせた
その様子は蛇に睨まれた蛙の如く、山原夫妻は分かりやすくたじろいだ
小尾飛田 空子
「地下の部屋は、一体誰が作ったんですか」
山原 鉄治
「知らないですよ、私が聞きたいくらいです。迷惑してるのはこっちなんですから」
小尾飛田 空子
「奥さんは?」
山原 澄恵
「知りません。あんな薄気味悪い地下に部屋があったなんて……」
小尾飛田 空子
「部屋の中には、かなり古い資料や本がありました。ざっと見ましたが、全て医療に関するものです。発見されたご遺体も、医療の知識を必要とする状態でした」
これには、遺体の確認の為に同行して部屋の中へと入った夫が、まだ鮮明なままの記憶を蘇らせる
山原 鉄治
「その事については、お話しした通り知りません。お客様でもありませんし、見たことすらない人達です。本当にどうしてうちの地下に、一体誰が…」
小尾飛田 空子
「身近な人で思い当たる人物は?医療関係者でも構いませんし、医療に興味のある人物でも構いません」
心当たりを探しているのか、しばらくの沈黙の後、夫は重々しく口を開いた
山原 鉄治
「強いて言えば、息子が歯科医をしてますが……あんな事が出来るとはとても思えません」
言いながら、地下で見つけた四人の遺体を思い出した。通常なら、遺体を見れば気分が悪くなったり、酷い時はトラウマを抱えてしまう場合もあるが、夫はそうはならなかった
その理由は、遺体が綺麗に洗浄されていたからだ。腐食どころか腐敗臭すら感じられず、四人の遺体はまるで剥製のようだった
小尾飛田 空子
「その息子さんが、最後に此処へ来たのはいつです」
山原 鉄治
「確かーー」
夫が答えようとした時、急に澄恵が彼の服の袖を強く引っ張った
山原 澄恵
「ゔっぅ」
振り向くと自身の胸を抑えながら、低いうめき声をあげる妻の姿があり、今にも倒れそうな彼女の肩を慌てて支える
山原 鉄治
「大丈夫か!どうしたんだ、具合が悪化したのか」
心配をする夫の耳元に口を寄せ、澄恵は何かを囁いた
山原 鉄治
「そ、そうか。部屋で少し休もう」
微妙な間の後、夫は少し顔色を青くさせながら小尾飛田へと向き直った
山原 鉄治
「その、妻の調子が悪いので、部屋に戻ります」
山原夫妻のやり取りに違和感を抱いた小尾飛田は、手伝うと言わんばかりに立ち上がる
小尾飛田 空子
「体調が優れないところを、すみません。自分も手伝います」
先程まで、尋問のような質問を繰り返していた小尾飛田を、怒るでもなく夫は勢いよく首を左右へ振った
山原 鉄治
「い、いえいえ、警察の方の手を煩わせる訳にはいきませんから、早く事件の解決をお願いしますよ」
山原 澄恵
「少し休めば…治りますので…」
それだけ言うと、山原夫妻はそそくさとその場を離れていく
明らかに何かを隠している。そんな夫妻を見送った小尾飛田は、気づかれないように二人の後を追おうと、一歩を踏み出した時だった
旅館に到着した世瀬と、彼を連れて来た警察官がロビーへとやって来た
警察官
「お連れしました」
世瀬 芯也
「ここからは、二人で大丈夫だ。案内助かった」
適当にお礼を言って、警察官をその場から離れさせた世瀬は、なんとも言えない表情で小尾飛田を見やった
世瀬 芯也
「で、どうして遺体を運び出さず、わざわざ現場に解剖医を呼びつけた?」
世瀬の質問に対し、小尾飛田はマイペースに自身の疑問をぶつける
小尾飛田 空子
「一人っすか、てっきり蒼や巫山戯さんも来ると思ってたんすけど」
世瀬 芯也
「また蒼の我儘だ。巫山戯が一緒に居るから問題ないだろ。何かあれば直ぐに連絡を入れるよう伝えてある」
苦悶の表情を浮かべた世瀬は、ここに来るまでの一悶着を思い出し、深くため息をついた
小尾飛田 空子
「そっすか」
相槌を打つと何の前触れもなく、急に歩き出した小尾飛田に世瀬は、慌てて歩幅を合わせ着いていく
世瀬 芯也
「おい、待て。何処に行く気だ?」
小尾飛田 空子
「遺体にエンバーミングが施されていたのは伝えましたよね」
世瀬 芯也
「……あぁ」
またもや、マイペースに喋り出す小尾飛田に、責めるよりも大人しく話を聞いた方が早いと、仕方なく世瀬は頷いた
世瀬 芯也
「死体の腐食を防ぐ為の処置だったか。言っとくけどな、急に専門用語を出されて理解出来る人間は、そう居ないと覚えておけ」
電話越しに遺体衛生保全が施されているとだけ伝えられ、何のことかと聞く前に一方的に電話を切られた事は、世瀬の記憶に新しい
簡単に調べることが出来たとは言え、上司へ取る態度かと言われれば絶対に違うだろう。注意する世瀬に、全く動じない素振りで小尾飛田は話を続けた
小尾飛田 空子
「試しに持ち上げたんすけど妙に重いし、恐らく中に何かあると思います」
"遺体を試しに持ち上げたのか?"と聞きたい衝動に駆られたが、どうせまともな返答は返ってこないだろうと、話の腰を折るのをやめて続きを促す
世瀬 芯也
「……遺体の中にか?」
小尾飛田 空子
「まだ開いてないんで、しっかり確かめた訳じゃないっすけど、エンバーミングであの重量感は普通じゃありえないっすね。それに環境も」
世瀬 芯也
「環境だと?」
ついさっき旅館へと着いたばかりの世瀬は、まだ現場を見てなかった。なので、小尾飛田の言わんとする事が理解できず聞き返す
小尾飛田 空子
「部屋の扉がやけに厳重だったんす。よく見てみると部屋の中の空調も管理されてたんで、遺体の重量感と示し合わせると、中で何かを育ててるかもしれません」
世瀬 芯也
「成る程な、だから遺体を運び出さなかった。下手に動かすのは危険だと判断した訳か」
そこまで聞いた世瀬は、この事件の異常性に気づく。死体の中で何かを育てるなんて事は、まともな人間には考え付かないだろう
小尾飛田 空子
「何人かの解剖医に協力をお願いしたんで、もし危険がなければ運び出します」
世瀬 芯也
「その事で話がある」
どうして芥を呼びつけたのか?未だ解けていない謎に、改めて話を聞こうとした矢先だった……後を付けていた山原夫妻が、誰も使っていない旅館の一室へと、入って行くのが見えた事で、小尾飛田は慣れたように足音を立てず、その部屋へと近づいていった
世瀬も途中から小尾飛田が、二人を付けている事に気づいており、何か狙いがあるのだと足音を潜める
小尾飛田 空子
「地下の部屋は、この旅館の人間じゃないと作るのは難しいと思います」
世瀬 芯也
「理由は?」
小尾飛田 空子
「地下は闇雲に歩けば一生出られない迷路っす。なのに、今回遺体が発見された部屋は旅館の入り口から、直線にありました」
世瀬 芯也
「別の入り口がある可能性は?」
小尾飛田 空子
「確かめてはいないっすけど、あの広さならマンホールみたく繋がってるっすね。だからこそ、わざわざ旅館から直線に位置する場所に作って得するのはーー」
世瀬 芯也
「旅館の入り口を利用する人間だけか」
小尾飛田の言わんとする事が分かると、世瀬は険しい表情でその先を言った
世瀬 芯也
「だから、こそこそと付けてるのか?怪しいと思うなら直接、事情聴取として聞けばいいだろ」
小尾飛田は、山原夫妻との先程のやり取りをざっと説明する
小尾飛田 空子
「空白の時間を聞いた時、山原澄恵は"何も知らない""誰も見てない"って言いました。本当に何も知らない人間なら、この場合"その場から動かなかった"って言う筈なんすけど」
つまり、山原澄恵は何か知っていて、誰かを見ている可能性が高いのだと、話を聞いていた世瀬の表情はさらに険しさを増していく
世瀬 芯也
「任意同行するか」
小尾飛田 空子
「それよりも確実な方法でいきます。多少、医療については覚えがあるんで、それを口実に近づいて聞き出します」
体調の悪い澄恵を心配する振りをして、そのまま話を聞くつもりなのだろう……あまり、良いやり方とは言えないが、相手が何かを隠しているのなら聞き出す他ないのも事実だった
それに、下手に任意同行をして警戒されてしまうと、余計に口を閉ざす恐れも考慮すると世瀬は、渋々ながら無言を貫く事で了承をする
二人が部屋の前まで来ると、夫の怒鳴り声がドア越しから聞こえてきた
山原 鉄治
「なんて事だ、本当にあいつだったのか。見間違えじゃないのか!」
山原 澄恵
「声…おさ…て。一瞬だ…ら、あん…り…見…なかっ…けど…」
妻の声音は、体調不良も影響しているせいか途切れ途切だったが、夫の方は先ほどよりも抑えられてはいたものの、耳を傾ければはっきりと聞こえた
山原 鉄治
「だとしても、何の為に?動物を愛する子が人を殺めるなんて、考えられない」
山原 澄恵
「私…って、そう…も…わ。でも…あの…以外に…考え……ない」
そこまで聞くと、小尾飛田と世瀬はドアから離れ顔を見合わせた
世瀬 芯也
「これは、口実は必要なさそうだ」
聞き耳を立ててたとは言え、話しの内容的にも無視できない。山原夫妻が一体何を隠しているのか、それを確かめる為に二人は、ノックをすると部屋の中へと入って行った