賭け
蔡茌 紾
「芥がナイフを持って襲いかかったって、何かの間違いじゃ」
「確かだ実際にこの目で見たんだ。死体の為に、生きてる人の命を軽んじる。芥って言うのはそんな奴なんだ」
実際にその光景を目の当たりにした法医学者の話を聞いても、未だに信じられない紾は唖然とするしかなかった
村嶋
「その後、異常者はすぐに解雇になった。当然ですよね、せめてもの情けで通報しなかっただけ有難いと思って欲しいですよ」
そう言った村嶋だったが、もし芥を通報していれば警察の捜査が入り、三榀のしでかした事や自分達が執拗に追い詰めた事が、咎められる事を恐れたのだろう
羽野
「先輩も責任を取って辞職したせいで、優秀な法医学者が国内から一人消えてしまった、ただでさえ少人数しかいないのに、全部全部あの異常者のせいだ」
特に芥の事を憎く思っている二人の記憶は都合よく、芥だけが悪者になっているようだった
従業員
(自業自得だろ)
黙って話を聞いている事しか出来ないシンドバッドは、村嶋含む法医学者達の身勝手な言い分に悪態をつく
従業員
(なにが悲しくて、この阿保共の愚痴を聞いてんだ)
この話に関しては部外者であるシンドバッドは、ただでさえ興味がないのに、現状を打破できそうな話でもなかった為、大人しく聞いていた事を激しく後悔する
とはいえ、警察の目もあるこの場で目立った行動や言動は控えるしかない。アラジンに任された任務を思うように遂行できず、どうでもいいこの状況を傍観するしかなかった
小尾飛田 空子
「………」
シンドバッド同様、彼らの昔話を下らないと思っている人物がもう一人。その殺気にいち早く気がついた世瀬は、今にも村嶋に掴み掛かりそうな小尾飛田を片手で制する
世瀬 芯也
「言いたい事は、あとに取っとけ」
あとに取っとけと言いつつ、そんな時間を設けようとは微塵も思ってはいない。宥める為の方便だ
世瀬 芯也
「とりあえず、今はこの状況をどうするかだ。分かったな」
上司の返事に答える余裕すらないのだろう、蔑むような視線を村嶋と羽野へと向ける小尾飛田に、二人は分かりやすく怯えると目を逸らす
世瀬 芯也
(道理で俺たちへの態度がぞんざいな訳だ。大方、先輩ってのが辞めたせいで警察を逆恨みしてるんだろうが、まさか黎ヰが絡んでたとはな。あいつは周りを敵だらけにしないと気が済まないのか?まったく、いい迷惑だ)
法医学者達の態度が、最初から妙にキツかった理由が分かり、ため息を吐かずにはいられなかった
村嶋
「今回の事だって、犯人は間違いなくあの異常者に決まってる」
自信満々に断言する村嶋に世瀬は、自分の推理に近しい考えに内心同意した
世瀬 芯也
(可能性としては捨てきれないな。死体に執着する狂気性にこの状況だ、主犯格じゃないにしろこの一件と何らかの関わりがあるかもしれない)
そうでなければ、芥が閉じこもった理由に説明がつかないだろう。世瀬や村嶋を含めた数人はそう思わざるを得なかった
そんな中、紾は静かに首を左右へと振った
蔡茌 紾
「それは絶対にありえない」
凛とした声音で否定する紾に、村嶋は自分の耳を疑ってしまう
村嶋
「なんだって?」
蔡茌 紾
「過去の出来事だって、何か別の理由がある気がするんだ、俺は芥が人に向かって刃物を向けるとは、どうしても思えないんだ」
真っ直ぐなその言葉に嘘や偽りがないと分かる
蔡茌 紾
「確かに解剖中は笑い声をあげるけど、命を蔑ろにしてる訳じゃない。むしろ、真剣に向き合ってると思う」
村嶋
「っ、」
返す言葉が見つからず村嶋は、無意識に言葉を詰まらせた
それもそのはずで、彼はこの状況下で過去の話を聞いても尚、芥を本気で庇う人間が居るなんて思ってもみなかったからだ
そして、彼ら法医学者達は知っている。芥が遺体を丁重に扱っている事や、死因を解明する為に必要な忍耐力や集中力が備わっている事を
そして、その技術は同期で入った筈の村嶋と羽野だけでなく、長年勤務している者を簡単に追い抜いていった事も……
解剖の技術からみても芥は間違いなく天才だ。凡人がどれだけ努力しても、芥はそれを最も簡単に超えてみせる、間近でそれを見せられればいつしか自分の努力が馬鹿らしくなっていくだろう
だからこそ村嶋達は、三榀の気持ちが理解できたが、自分達が蔑む芥の気持ちは理解できる筈もなかった
きっと彼らは芥が遺体を前にして笑わなかったとしても、埋まる事のない技術の差に嫉妬し疎んだに違いないだろう
村嶋
「なんで、そこまで言い切れる?あいつは異常者だろ、信頼なんてするだけ無駄じゃないのか」
蔡茌 紾
「俺は芥が人を傷つける言葉を一度も聞いた事はない。芥は人の為に何かをする事が出来る人間だよ、充分信頼できる」
芥を信頼するその言葉は、村嶋達からすれば自分の醜い姿を晒されているようで、これ以上は何も言う事は出来なかった
コン……コン……
その時、扉の前に居た紾の耳に微かに、扉を叩く音が聞こえた
芥が返事を返したのだと、喜び声を掛けようとした紾を、遮るかのようにドンっと大きな手が扉に置かれた
何事かと慌てて視線を上げると、そこに居たのは憎しみを込めた目を紾へと向けた小尾飛田だった
小尾飛田 空子
「たかだか何ヶ月かの付き合いで、随分と知ったような事言うんすね」
決して声を荒げている訳ではなく静かな声音だったが、そこには確実に紾へ向けての敵意が込められていた
小尾飛田 空子
「何も知らない奴が、信頼なんて簡単に口にしてんなよ」
蔡茌 紾
(この人は、芥を恨んでる…のか?)
ここへ来る前にも小尾飛田は、芥が立て篭もったと聞いたとたん、その感情をむき出しにしていた
その事からも、芥に対して何らかの感情を抱えているのだろうと、紾と世瀬は思ったのだった
ーー ーー ーー
少し前
勢いで法医学者達を追い出した芥は、扉を背に両膝を抱えながら途方に暮れていた
芥 昱津
「ど、どうし、よう。全然聞こえてない…」
普段から、大声どころか人よりも小さめな声量の為、どれだけ説明しようと呼びかけても、分厚い扉は芥の声を遮ってしまう
こちらからの声は届かないのに、村嶋達が騒いでいる声は聞こえており、外が大騒ぎになっている事は充分理解できていた
勢いに任せて彼らを追い出し扉まで閉めてしまった手前、犯人だと騒がれても仕方がないだろう
芥 昱津
「ここを出ても、きっと、誰も話を聞いてくれない…」
村嶋達を知っている芥は、彼らが自分の言い分を素直に聞くとは到底思えなかった
それに、情報開示課の担当事件ならこれを機に異常調査部を潰そうとしてくるかもと、芥の頭に最悪の事態が過った
芥 昱津
「不祥事になって、黎ヰくんが…クビになって、異常調査部が、無くなるかもしれない」
ただでさえ血色の悪い顔が、余計に青白くなっていき軽くパニック状態に陥ってしまう
芥 昱津
「そうなったら、曳汐ちゃんの居場所が無くなっちゃう」
異常調査部がなくなるという事は、曳汐が唯一の居場所を失ってしまうと、真っ先に浮かんだ芥は自分のせいだと、涙が出そうになる
そんな時だった、扉の向こうから紾の声が聞こえてくる
蔡茌 紾
『確かに解剖中は笑い声をあげるけど、命を蔑ろにしてる訳じゃない。むしろ、真剣に向き合ってると思う』
芥 昱津
「へ?」
瞬時に自分の事だと悟った芥は、咄嗟に耳を扉へと近づける
村嶋
『なんで、そこまで言い切れる?あいつは異常者だろ、信頼なんてするだけ無駄じゃないのか』
蔡茌 紾
『俺は芥が人を傷つける言葉を一度も聞いた事はない。芥は人の為に何かをする事が出来る人間だよ、充分信頼できる』
はっきりと聞こえてくる信頼という言葉に、さっきまで混乱していた気持ちが少しずつ落ち着きを取り戻していく
芥 昱津
「そっか……信じて、くれてるんだ…」
村嶋達が話していた昔話のせいだろうか、紾の言葉を聞いた芥は、ふと大学法医学教室での事件の後の事を思い出した
ーー ーー ーー
芥がナイフを三榀へと向けた後、黎ヰはそのまま芥を外へと連れ出した
しばらく無言で歩きながら、両手を後ろにした黎ヰ《くろい》は芥へと話しかけた
黎ヰ
「芥、だっけか?実はすっげー賢いだろ。この場合の賢いってのは、自分の身を守る術を知ってるって事だぜ?」
芥 昱津
「やっぱり、気づいてたんだ……手錠を掛けられないから、そうだとは思ってたんだけど…」
黎ヰ
「そんなオモチャで手錠かける程、暇じゃねーよ」
芥の手には、流れでしまい忘れていたナイフが握られていた。鋭く光った切先を自身の手の平へと向け、そのまま突き刺すと、切先はプニッと変な方向に曲がった
芥 昱津
「やっぱり、分かっちゃうよね」
オモチャの虫みたいに、一瞬見ただけでは判断しにくいがよく見てみるとすぐに偽物だと分かる
黎ヰ
「あの人数分の目を騙してそのナイフを本物にしたのは、間違いなく芥の演技力だろ」
芥 昱津
「褒めてくれて、ありがとう」
黎ヰ
「推測するに、どこかで異常調査部の話を聞いて、上司の俺の異常性を知り転籍したいと考えた。その為には今いる部署から"切り離される"必要がある。そこで、さっきの豹変ぶりを見せたって所か?」
芥 昱津
「うん、そうだよ。そうでもないと、あんな事しないよ…ほとんど賭けのような、ものだったけどね」
通報されず、警察である黎ヰにも捕まらなかったのは、芥からすると奇跡に等しかった
だが、彼らからすれば非があるのは自分達なのだから、通報なんてできる筈もない。と言うのが本音だった
それを見越していた黎ヰは、この件については本人達の判断に任せようと決めていた。三榀は生きている限り、自分の犯した過ちと向き合っていくしかない
例え自首をしたとしても、それは変わらない。なら、本人が罪の背負い方を決めればいいと、黎ヰはそう考えていた
芥 昱津
「僕にとって、今回の事は一つのきっかけだった。あそこは息苦しくて、生きづらいから。だから辞めようって考えてた」
微笑みながら、なんて事ないように振る舞う芥だったが、周囲の悪意はずっと彼の心を蝕んでいたのだろう。少なくとも、夢であった法医学者の道を辞職へと追い込むぐらいには
芥 昱津
「今日、このタイミングで君に会えたのは、運命なのかも」
黎ヰ
「運命ねぇ〜。俺は俺を嗅ぎ回ってるのが誰か気になって会いに来ただけだぜ。その誰かがあんたならそれは運命じゃなく、引き寄せた出会いみたいなもんじゃねーの?」
芥 昱津
「へへ、そうかも」
頷いた事で芥は、黎ヰを嗅ぎ回っていたのは自分だと肯定する
芥 昱津
「この間の件で、僕の意見を参考にしてくれて、事件を解決した人が誰なのか、気になったんだ。そしたら、黎ヰって人だって、教えて貰った」
黎ヰ
「あぁ、被疑者が死亡してたあの事件だな」
芥 昱津
「嗅ぎ回ってるのが、誰か気になって、ここに来たなら、僕って知ってた?」
その言葉に、今度は黎ヰがニヤリと笑い肯定する
黎ヰ
「まぁな。時期的に当たりを付けただけで、確信したのはついさっきだけどな」
芥 昱津
「そっか、なら僕の方が、先に君を見つけたんだね。で、どうかな?僕は、君の役には立たない…かな?」
芥は、すでに自分の本来の目的を察している黎ヰへ向けて、異常調査部へと転籍できるかと確認する
黎ヰ
「その前に一つ。自分を守る術を知っているのに蔑まされると分かっていながら、どうして"死体を好き"だと周囲に認知されるような行動をしてた?」
本来なら、芥は自身の感情を抑え込み周囲に溶け込む事が出来る人間だと、見抜いた黎ヰに芥は驚き半分感心半分の声を上げた
芥 昱津
「すごい、そんな事まで分っちゃうんだね。でも、買い被りすぎ、だよ。僕、昔は…家の人の顔色をずっと気にしてたんだ、どうしたら怒鳴られないかなとか、どうしたら意地悪されないかなとか、きっとその経験が…君の言う自分を守る術に繋がって、るんだと思う」
芥が法医学者達に詰め寄られても、通常と変わらない態度で居られたのは、そう言う背景があったからなのだと黎ヰは悟った
黎ヰ
「さっきみたいな稚拙な出来事が、常習的に起こってたんだな」
芥 昱津
「そうだね。さっきのは、まだマシな方だけど、似たような事は…家の中でも外でも、ずっとあったよ」
黎ヰ
「ずっとねぇ〜。俺も大概だが、あんたも相当複雑な環境下で育ったみたいだな」
芥 昱津
「毎日、小言ばっかり…聞かされてた。だからかな、道端に倒れてる人を、見た時、静かで…綺麗だって、思ったんだ」
通学途中で、偶然にも道の脇に倒れていた人を発見した芥は、静かで言葉を発しない人間に対し感動を覚えた
芥 昱津
「因みに、その人は無事だったよ。きっと…その時からかな、喋らない人を見ると、安心すると同時に…嬉しいって、感情が湧き上がってくるように、なったのは。そこから僕が、死体の美しさに気づくのは、早かったかな」
黎ヰ
「だから、死体好き。か」
口煩く怒鳴られる日常の中で、芥はずっと自分の感情を押し殺してきた。それが彼の中で自分を守る唯一の方法だったのだろう
そんな彼が、言葉を発しない死体に心の安寧を覚えるのは、ごく自然な事でその際に抑圧されていた感情が弾けるのも、人間なら当たり前の衝動なのだと黎ヰは思った
芥 昱津
「念願の医学大学に、行けた時は…舞い上がりすぎて、感情が抑えられなかった、んだ。だから、僕が死体を好きって言うのも、笑い声をあげちゃうのも、気づいたら…広まっちゃってた。でも、それで良かった…」
黎ヰ
「好きって感情は隠せないってやつだな」
自分の言わんとする事を、言葉にした黎ヰに芥は嬉しそうに頷いた
芥 昱津
「あと」
黎ヰ
「ん?」
急に立ち止まった芥の方を振り向くと、柔らかい瞳が黎ヰを捉えた
芥 昱津
「別に悪い事してないって、思ったから…」
死体を見ると笑う解剖医。それだけ聞けば、不謹慎で狂気的な人物だと誰もが思うかもしれない
だが、黎ヰは直感的に芥が遺族達の前で笑ったりはしないのだと思った。彼が死体を前にして笑う理由はただ一つ、純粋に好きだと言う気持ちが弾けているだけで、そこに愚弄や侮蔑のような感情は存在しない
でなければ、いまだにオモチャのナイフを持つ手が震えている訳がないだろう
芥は、人を傷つくのを良しとしない心根の優しい人間だと言う事を、黎ヰはこの会話と態度から十分に理解していた
黎ヰ
「クククク、いいねぇ〜。好きなもんを好きって堂々と言ってるトコが気に入った!」
黎ヰは急に右手を大きく挙げると、芥にもするように促す
芥 昱津
「本当に、いいの?」
そうなればいいと思ってはいたものの、簡単に受け入れられた事に戸惑いつつそっと右手を挙げる
黎ヰ
「歓迎するぜ、異常調査部へ」
パチンッ
この時、芥は一瞬だけ重なった手の平から人の温もりを感じた。彼の中で死体を見た時以上の安寧が心に広がった瞬間だった
ーー ーー ーー
懐かしく温かい思い出に、途方に暮れていた芥は、その考えを改めた
芥 昱津
(僕、弱気になってた。ここでは、誰も話を聞いてくれないって、思ってたから…何を言っても、無駄だって思い込んでた)
突発的な行動だったとは言え、芥がきっかけのこの状況は、誰から見ても怪しく事件の捜査中に起きたとなれば、咎められて当然だ
なのに、事情も知らない紾はハッキリと信頼できると言い切った。その言葉が孤立している芥に優しく降りかかる
芥 昱津
(一緒だ。あの時の黎ヰくんと……)
芥は自身の心臓へと手を置くと、黎ヰとハイタッチをした時のように、温かい気持ちが広がっていくのを感じた
そして、その気持ちに応える為に扉へ向かってノックをする
コン……コン……
芥 昱津
(声にして返事できなくて、ごめんね。今はその方が、都合が良いんだ)
本当なら、声が届かなくても紾が提案してくれたようにノックで会話し、扉に噛んでいる本を抜いて開ける事も出来た
が、ある事に気がついた芥は、危険なこの部屋に人を入れる事を拒む
その事を説明しようにも誰にも話を聞き入れて貰えないと、この状況に絶望していたが紾のお陰でそうじゃないと分かると、自分にしか出来ない事をしよと立ち上がった
芥 昱津
(部屋の温度は、まだ大丈夫……なはず)
この実験部屋の空調は細かく管理されていた。数日前に旅館の水に細菌が付着した件と、不自然な四人の遺体とを併わせて考えれば、常識ではあり得ない答えが芥の中で浮かぶ
芥 昱津
(遺体の中で、細菌を育ててる…よね)
紾と共に来て、四人の遺体を調べた時には既にその考えに行き着いていた。だから芥は、何か記録が残っていないかと、周りにある資料や本を読み漁っていた
流石に遺体の中で細菌を育てた記録は、見つからなかったものの、手に取った本は細菌や人体構造についての内容が書かれたものばかりで、中には古い人体実験の資料まで紛れていた
予想が確証を得た時、何も知らない法医学者達が現れると、彼らは遺体を調べようと個々に分かれて四人の遺体が入っていた袋を開く
騒がしい声に一瞬だけ集中力が途切れ、ふと顔を上げた芥は、数時間もの間ずっと扉が開かれっぱなしだった事に気がつく。それと同時に誰かが発した「寒すぎる」と苛立った声が耳に入ってきた
旅館の水に細菌が付着していると特定していた芥には、この細菌の特徴と危険性が瞬時に理解でき、今がとても危険な状況だと悟る
そして、遺体の口や瞳孔を開き確認している法医学者達が目に入ると、考えるより先に身体が勝手に動いており、気が付けば芥は法医学者達を追い出し、立て篭もった状態になっていた
芥 昱津
(この細菌は水にしか付着しない。そして最大の特徴は、低温下でのみ付着する事。だから自然の中で、よく冷えた山水に馴染む|)
旅館に宿泊した医師達は、山水に付着した水を飲み体調を崩した。山の中に建てられた誘蝶木旅館の温度は、通常の旅館よりも低かったに違いない
窓を開ければすぐに冷え込むだろう。とは言え、季節と部屋の空調のお陰でそこまで身体は冷えなかった。だからこそ、体調不良で済んだのだろう
では、もし水を飲んだ医師達の身体が完全に冷えていたらどうだったか……体内に取り込まれた細菌は冷えた身体の中で弱まる事なく潜伏し続け、最悪の場合身体に何らかの後遺症を残す事になったかもしれない
自分の身体が資本の医師が後遺症を残した場合、恐らくその人は二度とメスを握れなくなるだろう。それは法医学者も例外ではなかった
芥 昱津
(黎ヰくんなら、すぐに気付いたはずなのに、僕は自分の事しか、見えてなかった)
自分がもっと早くに気が付いていれば、また別の展開になっていたと芥は後悔する
芥 昱津
「終わったら、ちゃんと、黎ヰくんと紾くんに怒って貰おう。だから今は、調べないと」
何かを決意した芥は、部屋の中にあるスタンドライトや機器台を使いやすい場所へと移動させ、予め持ってきていた医療器具を手慣れたように台の上へと並べていく
芥 昱津
(このご遺体達は、エンバーミングが施されてるにも関わらず、損傷が激しい)
本来なら、遺体の保存状態を長持ちさせる為にする施術を、犯人は細菌を育てる為に使い、付けなくても良い傷跡を、何十箇所も付けていた
その事からも、遺体となってしまった彼らに相当な恨みがあるのは明白だった。だが、芥が引っ掛かったのはそれだけではない
育てた細菌を水に付着させ、別の人間に飲ませた。ただの愉快犯はこんなに手の込んだ事はしないだろう
そこから導き出される答えは一つだった
芥 昱津
(これをした人は……人間が嫌いなんだ)
重要なのはここからで、人間に嫌悪感を抱きずっと殺す為の準備をして来た人物が、たまたまとは言え警察に見つかったこの現状をどう思うだろうか
芥 昱津
(この間の医師達が実験だとすると、無差別に細菌を蔓延させるかもしれない)
とは言え、いま知り得る情報ではこの細菌は特定の状況下でなければ効果をもたらさない。季節を考えてみても、実行するには確実性がない反面、状況さえ揃ってしまえばそれは確実になる
芥 昱津
(殺傷能力はない細菌だけど、これをした人からは、人間への殺意が感じられる……きっと、まだ僕が知らない事があるんだ)
それを知る為には、遺体を開いて細菌を直接調べるしかない。そう思った芥は手にメスを握った
視線を空調へと向けるも、未だに部屋の温度は低いままで、元の温度へ戻るにはまだ時間を要する
犯人が特定されずいつどこで無差別な殺人が起きるか分からない芥には、のんびりと待っている時間はなかった




