緊急事態
旅館の二階へと来た紾は、想像していなかった光景に目を見開く。廊下には足の踏み場こそあるものの、あたり一面不規則に物が転がっていた
蔡茌 紾
「これは、一体」
よく見ると、奥へ続く角部屋のドアが開けっぱなしになっており、そこへ向かってアメニティや座布団やらが床に散らばっていた
おそらく、部屋の中から誰かが手当たり次第に投げたのだろう。そのまま紾は世瀬に連れられるまま、角部屋の中へと足を踏み入れる
室内は廊下以上の荒れっぷりで、壁や床には真新しい傷が目立ち花瓶やポット、茶筒に入った茶葉などが無造作に床へと転がっている
蔡茌 紾
「もしかして、被疑者が暴れたのか」
紾がそう思うのは当然だった。遺体が発見された現場近くで、争った痕跡があればきっと誰もがそう推理するだろう
予想していた質問に隣にいた世瀬は、こうなった原因を思い出し、げっそりとした顔でため息を吐く
世瀬 芯也
「それなら、まだ格好もついたんだがな」
胸ポケットにある煙草を取り出しながら、数刻前ここで起こった事を説明する
世瀬 芯也
「小尾飛田と一緒に、この旅館の経営者夫妻に事件の話を聞いてた。その途中で妻の方が倒れてな、小尾飛田が容体を調べてる間に、どこから聞きつけたのか子供が現れて"お母さんをいじめるな"って暴れ回りやがった」
蔡茌 紾
「暴れ回ったってまさか、ここの惨状が…」
目の前の光景の原因が子供一人の仕業だと言われ、分かりやすく紾は驚いた
世瀬 芯也
「娘だそうだ。まったく、年端もいかない子供の癇癪程、タチの悪いものはないぞ。すばしっこくて、捕まえるのも一苦労だ」
誰も聞き耳を立てていないのを確認すると、世瀬の言動は乱暴になった
きっと、娘が投げた何かに当たってしまったのだろう。煙草に火をつける手は赤く腫れていた。
世瀬 芯也
「旦那の方は娘を宥めようとして足を滑らして負傷した。騒ぎを聞きつけた警察官が取り押さえようにも、部屋に大人が五人以上入れば狭すぎて、逆に身動きが取れなくなるし、子供は怖くなって泣き喚いて余計に手が付けられないしで散々だ」
そこまで聞いた紾は、ようやく下の階に警察官が居ない理由が分かり納得した
蔡茌 紾
「だから、二階にも一般人が近づかない様に見張りがいたんだな」
世瀬 芯也
「当たり前だ。子供一人に警察官が振り回されてる姿なんて見られでもしたら、良い笑い者だろ」
蔡茌 紾
「別に笑われはしないだろ。まぁ、見張りのおかげで他の人に被害が出なくて良かったけど」
下手をすれば、たまたま廊下を通りかかっただけでも部屋から飛び出た物に当たってしまったかもしれない。それを避けられただけでも、不幸中の幸いだろう
世瀬 芯也
「こっちの気も知らずに、相変わらず呑気な事を……子供の年齢が年齢だったら、公務執行妨害と暴行罪で手錠をかけてたとこだ」
苛立ちを隠さず「だから子供は嫌なんだ」とぼやいた世瀬は、ポケットから取り出した携帯灰皿に灰を捨て煙草を咥える
何度か喫煙している所を見ている紾は、いまだに続いているのかと、いつもの流れで注意してしまう
蔡茌 紾
「そんなに吸うなよ。部屋で吸って旅館側にも迷惑だろ」
世瀬 芯也
「小姑みたいな事を言うな。そこに半壊した灰皿が転がってんだろ、この部屋は喫煙可能だ」
適当な理屈で小言をかわそうとする世瀬だったが、紾はこれを期にと今まで言いたかった事を口にした
蔡茌 紾
「そう言う問題じゃなくて、身体に悪いって話だ。いい加減辞めれないのか?」
そう言いながら、部屋の中が煙でいっぱいになる前に紾は、窓を開けて換気する
世瀬 芯也
「小姑の次はお袋か………チッ、いやな事思い出しちまった」
脳裏に母親の顔が過ると幼少期の頃の厳しい教育を思い出した世瀬は、一層顔を歪ませた。それを忘れるように煙草の煙を吹かす
全く聞く耳を持たない態度に、紾が再び注意しようと口を開きかけた時、その声は唐突に二人へと降りかかった
小尾飛田 空子
「煙草の煙にはニコチン、タール、一酸化炭素の有害物質だけでなく、発がん性物質も混ざってるんで喫煙者はおろか、周囲の人間も同等以上の影響を受けます」
煙草へのリスクを言いながら現れたのは、仏頂面の小尾飛田だった
小尾飛田 空子
「そこから引き出される病気は癌やたばこ病、循環器または呼吸器の疾患っす。勿論その他にもーー」
世瀬 芯也
「あーあー、分かった分かった辞めれば良いんだろ」
小尾飛田の矢継ぎ早の説明に耐えられなくなった世瀬は、観念したのかうんざりした顔で、咥えていた煙草を携帯灰皿へと押し付け火を消した
世瀬 芯也
「たまにしか吸ってないんだよ。揃いも揃って分かりきった御託ばっかり並べやがって」
彼なりの息抜きの時間を邪魔され、心底機嫌が悪くなった世瀬とは反対的に、小尾飛田は満足気に頷いた
小尾飛田 空子
「賢明な判断っすね。そっちの方は?」
紾と初めて顔を合わせた小尾飛田は、品定めをするかのように彼をジッと見つめる
蔡茌 紾
「異常調査部から来ました、蔡茌紾です。よろしくお願いします」
すぐに自分の事だと察した紾は、世瀬が何かを言う前に軽く自己紹介をした
小尾飛田 空子
「あぁ成る程、小尾飛田っす。この度は捜査にご協力頂き感謝します」
小尾飛田は頭を少しだけ下へと動かし、軽く会釈をする
肩幅が広く紾よりも身長が高いせいで、意図せず威圧的に見えてしまう。そこに、仏頂面で礼儀が良いのか悪いのか分からない態度が加わってしまうと、大抵の人は失礼な態度だと嫌悪感を抱くだろう
世瀬 芯也
(俺も教育どうの人に言えたもんじゃないな)
ぶっきらぼうな部下の態度を見た世瀬は、情報開示課の先行きを不安に思う一方で、丁寧にお辞儀を返す紾に"お前もそれで良いのか"と言いそうになると、慌てて咳払いで誤魔化し違う言葉を口にした
世瀬 芯也
「ゴホン……で?容体はどうだった?」
小尾飛田 空子
「症状から診るに、血管迷走神経反射だと思います」
エンバーミングを伝えた時と同様、一般人が聞き覚えのない不親切な症状を伝える小尾飛田に、思わず世瀬は額を抑えながら言った
世瀬 芯也
「さっきも言ったろ、急に専門用語だされてもピンと来ないんだよ、こっちは。頭痛がしてきた」
最後のは嫌味で言ったにもかかわらず、小尾飛田は眉を動かす事なくすかさず答える
小尾飛田 空子
「原因は煙草っすね」
その返答に、今度は本気で頭が痛んだ世瀬だったが、残念ながらその場に彼を憂う者は居なかった
世瀬 芯也
「……その話はもういい。で?血管迷走神経反射だっけか?何なんだそれは」
小尾飛田 空子
「症状は様々なんすけど、山原澄恵の場合精神的ストレスからくる一時的な血圧低下っす。横になって落ち着きはしましたが、念のために救急車を手配してます」
世瀬 芯也
「ったく、最初からそう言え」
小尾飛田 空子
「夫の方は、右足首の捻挫です。冷却湿布を貼って安静にさせてます。娘の方は泣き疲れて寝てます」
世瀬 芯也
「そうか」
短い返事を返した世瀬は、突如起こった面倒な事がひと段落し何度目かのため息を吐く
世瀬 芯也
「こうまでして聞き出せた情報が"地下室に旅館の息子が居たかもしれない"とはな。労働と報酬が見合わない、無駄な時間を過ごしちまった」
小尾飛田 空子
「歯科医なら解剖学も学ぶんで、遺体の状況から考えてみても、被疑者候補としては充分だと思います」
世瀬 芯也
「とは言っても、現段階で証拠がある訳じゃないしな。それに地下への道は他にもあるんだろ?単独犯かも分からない状況下じゃ的を絞るのは早すぎる」
思い込みは捜査を撹乱させるだけ。警察は常に全てを疑い広い視野で見なければならない。その事を第一として考えている世瀬は、小尾飛田の言う被疑者候補を真っ向から否定する
とは言え報告を受けた遺体の状況からも、今回の事件の犯行は誰にでも出来る事ではないのも理解していた。その事について言及したいと、小尾飛田の表情を読み取った世瀬は、余計な会話が始まる前に彼よりも先に口を開く
世瀬 芯也
「とは言え、息子は例の学会が開かれた日にも居たらしいからな。事情聴取はした方がいいだろ」
小尾飛田 空子
「っすね」
賛同したはいいが、社会人として正しいとは言えない返事に世瀬の眉間の皺は深くなっていくも、今はそんな事を気にしている場合ではないと自分に言い聞かせる
そして、会話に入るタイミングを伺っている紾の方へと視線を向けた
世瀬 芯也
「悪い悪い。どんな形であれ、事件の協力をお願いした身としちゃ、お前にも概要を説明しとくべきだったな。小尾飛田」
異常調査部に依頼した事についてまだ根に持っている世瀬は、わざと棘のある言い方をした。ここで自身ではなく、あえて小尾飛田に説明を促すのも、彼に上下関係をはっきりと意識してもらう為だ
遠回しでいて、でも確実に上司としての威厳は意識させる。そんな世瀬のやり方が父譲りという事は、この場の誰も気づかないだろう
小尾飛田 空子
「分かりました」
命令された事について特に何も思わないのか、表情を変えず小尾飛田は、紾へと向き直ると淡々と事件の概要を説明する
例の学会が開催された日、誘蝶木旅館にて学会に参加した医師達が宿泊した。その数日後、数名が体調不良を訴え、検査したところ微量の細菌が体内で検出された
検査した全員が陽性反応だった事から、念の為にと学会に参加した全員に細菌の検査が要求される
検査後の聞き取り調査と芥の成分検査から読み解くにその原因は、誘蝶木旅館に宿泊し"水"を飲んだ事による可能性が高いと思われた
その事からも、山の湧き水に何かの原因で細菌が混入したかもしれないと、市の男性役員が水質検査の為に派遣される。同時に奥島署からも剛堂と淂崎の二名が現場へと捜査に赴いた
小尾飛田 空子
「従業員達の目撃証言から、二人は旅館の女将である山原澄恵と行動を共にしてます。地下道のある物置部屋に入るところも目撃されてます」
だが、実際に地下へと入って行ったのは剛堂と淂崎の二名のみ。澄恵は、入り口付近で待機していた
いつまで経っても二人が戻って来ない事で、迷ったのかもしれないと不安になった澄恵は人を呼び、今度は夫である山原鉄治含めた数人が地下道へと入って行くーーそして発見されたのが、四人の遺体だった
小尾飛田 空子
「遺体の身元は判明してます。行方不明届けが出されていた動物愛護団体のメンバーです。団体とは言っても、中心人物はこの四名のみで、後は大した活動もしてない名ばかりのメンバーだったようです」
この愛護団体と、剛堂と淂崎は別件で面識があった
報告書によれば、愛護団体の所有する車両のトランクから、惨たらしい小動物の遺体を数十匹発見と書かれているものの、それを確認したのは剛堂達のみで、証拠は何一つ発見できなかった
小尾飛田 空子
「証拠隠滅だと、当初はかなり揉めたみたいっすね。その後この四名は行方不明に、で突然旅館の地下から遺体として発見された。と言う事になります」
愛護団体の行方不明と前後で揉めていた剛堂達を、情報開示課が取り調べた事についての説明を小尾飛田は涼し顔で省く
小尾飛田 空子
「因みに、愛護団体四名の宿泊記録は確認されてません」
世瀬 芯也
「?!……初耳だな」
小尾飛田 空子
「救急車を手配する時に、調べ終わった所轄から報告を受けたんで、今初めて言いました」
蔡茌 紾
「と言う事は、その四名のご遺体は宿泊客じゃなかったって事になるよな」
世瀬 芯也
「そうだな」
新しい情報を紾と共に聞いた事に対し、世瀬は自身の自尊心が揺らぐのを感じながらも、悟られないよう冷静さを保つ
この事件での紾の立場は、あくまでも捜査協力者であって、実際の主導権は自分でないといけないと、世瀬はそう思っていた
その立ち位置をはっきりさせておかなければ、異常調査部に手柄を取られる事になってしまう。紾の性格上、手柄なんてものは気にしないが、そこが問題なのではない。世瀬はそうなる事で、もたらされる結果が何より重要だと捉えていた
世瀬 芯也
(異常調査部を潰す目的のジョーカーが、異常調査部に助けられたなんて事になってみろ、とんだお笑い種だ)
この地位は、警察庁の上官達と黎ヰの存在を警察から排除する事を条件に、手に入れたようなものだ。もし、力不足だと判断されてしまえば直ぐに失ってしまう、今はまだその程度の地位でしかないのだと、世瀬は誰よりも自分の置かれている状況を理解していた
世瀬 芯也
(油断するな。その一瞬が命とりになる)
目的を果たすべく、ようやく手に入れたこの地位を守ろうとする世瀬の心情など知らず、小尾飛田は事件についての説明を続けていく
小尾飛田 空子
「四名の遺体には、エンバーミングが施されてる可能性が高いです。……エンバーミングについては?」
少し前の世瀬との会話を思い出したのか、付け加えるように紾へ向けてぶっきらぼうな質問をする
蔡茌 紾
「あぁ、それなら芥から聞いてます」
一瞬、ピクリと小尾飛田の肩が揺れた
世瀬 芯也
「やっぱり、独断で調べてたか。しっかり監視係として手綱を握っとけよ、被疑者候補としての疑いは晴れてないんだ」
この場に芥が居ない理由を何となく察していた世瀬は、嫌味と共に未だ芥を疑っていると伝えた
蔡茌 紾
「いや、世瀬達が居ると思って地下に行っただけで、ご遺体には何もしてないんだ」
変な勘違いをされる前にと、慌てて紾が状況を説明する
蔡茌 紾
「ご遺体をどうするかの相談を兼ねて俺が世瀬を探してーー」
ドタドタ ドタドタ
だが、その説明は階段を駆け上がる騒がしい足音により遮られてしまう
ドタドタ ドタドタ
世瀬 芯也
「次はなんだ?」
足音は確実に三人が居る部屋へと近づいている。また何か起こったのだと悟った世瀬は、眉間の皺を深くさせた
数秒後、世瀬の予想を裏付けるかのように、旅館の名前が書かれたはっぴを着た従業員が、血相を変えて飛び込んで来た
従業員
「あんたら何考えてんすか!」
開口一番に投げつけられた言葉は、怒りとも戸惑いとも取れた。だが、話の見えない言葉に三人は誰の何の事なのかと沈黙する
最初に反応したのは、怒鳴り込んで来たのが先程会った従業員だと気づいた紾だった
蔡茌 紾
「あなたはさっきの!どうしたんですか?落ち着いて話して下さい」
そう言う紾を、従業員はギロリと睨み簡潔に現状を説明した
従業員
「地下室で不気味な男が"死体に触るな"って暴れて、立て篭もったんだよ!あいつも警察なんだろ?」
追い出された法医学者達の話で、警察官が立て籠ったのだと知った従業員ーーもといシンドバッドは、服装から階級が上だと気づいていた世瀬の元へとやって来たのだった
イレギュラーな出来事に、顔面蒼白になったのはシンドバッドだけではない
蔡茌 紾
「まさか!」
世瀬 芯也
「十中八九、芥だろ。どうするつもりだ?現場荒らす所の騒ぎじゃないぞ、被疑者候補から外してないって言った矢先にコレだ。証拠隠滅だってあり得ない話じゃないだろ」
明らかに芥の疑いを濃くしていく世瀬に動揺しながらも、目を離した隙に何があったのか確かめる必要があると、紾が一歩を踏み出した、その時だった
ドンっ
強く壁を叩く音がその場を支配した
支配と言っても当の本人は、感情に任せただけでそのつもりは毛頭なく、三人の視線を浴びながら自分勝手に言葉を漏らす
小尾飛田 空子
「来ていたのか、芥昱津」
表情は俯いていて見えなかったが、その声音は先程よりも低く、その姿は獣が唸り敵に対して威嚇しているかのようだった
世瀬 芯也
「おい」
急な豹変を目の当たりにし、声を掛けるも小尾飛田には届いておらず、彼は大きな足取りで地下道へと向かう
そのボルドー色の前髪から、熱を帯びた視線がギラリと光った




