狡猾
序章
金曜日という事もあり、午後7時を回った居酒屋は会社終わりの人々で賑わっていた
蔡茌紾は約束の時間に遅れてしまい、急いだ様子で居酒屋の中へ入ると騒がしい人々の合間を通り抜け、あらかじめ伝えられていた個室へと入った
蔡茌 紾
「遅れてすまない」
開口一番に謝る紾に対し、相変わらずだなと、世瀬芯也は苦笑いを返す
世瀬 芯也
「先に一杯もらってたから、気にするな。にしても今日は珍しく残業か?」
その質問に、今度は紾が座りながら苦笑いを返した
蔡茌 紾
「残業じゃなくて、先月の件で病院にな」
捜査一課長が私念から病院へ立て篭もった事件。その際、紾は拳銃を発砲してしまい、その後気を失った
警察官として正常に勤務できるかどうか、また拳銃使用について正しく判断できていたのかを診断する為に、心理士によるカウンセリングが必要だった
最初は黎ヰの紹介で、塔沽と言う医師に診てもらう予定だったが、会う事が叶わず途方に暮れていた所を、狭硯と言う心理士に声を掛けてもらい、今現在は彼に診てもらっている
だが狭硯は、なかなかカウンセリングを終わらせてくれず、最初は一、二回程度で済むと思っていた受診も、今日で四回目になる
蔡茌 紾
(あと何回通えばいいんだ)
狭硯は心理士として、紾が今の仕事の環境を受け入れられているか、判断し兼ねていた
蔡茌 紾
「別に仕事に不満とかはないんだよな……はぁ」
漏れでた言葉に、だいたいの察しがついた世瀬は口を開いた
世瀬 芯也
「不満がなくたって、心身共について行けてないんじゃないのか。異常って言われてる連中とずっと仕事してりゃ、まともな人間はお前みたいになんだろ」
蔡茌 紾
「異常って事もないだろ」
彼らと共に事件を解決してきたのは、まだ数ヶ月だが紾は周りが言うほど彼らが異常だとは思っていなかった。かと言って警察官と見た時に正常かと言われると、それも違う気がして曖昧に言葉を濁した
蔡茌 紾
「ただ少し破天荒と言うか、常識はずれと言うか……」
言いながら、異常調査部内で今日の出来事を思い出す
出勤すると、何故か三人とも解剖部屋の奥にある芥の部屋に集合して、何故かドラマの最終話を鑑賞していた
流石に職務的にアウトだと注意したが、紾の意見が通る筈もなく、結局一緒にテレビを見る事になってしまった
見るのは、ドラマやアニメの中途半端な話数からばかりで、三人は登場人物達の関係性や話の展開などを予測していた
黎ヰ曰く「推理力を鍛える訓練。異常調査部じゃ訓練も楽しくやんのが信条♪」らしい
だがこの言葉に曳汐は「気になってるドラマとかちゃんと見れないのがネックなんですよね」と不満を漏らし、芥は薄ら笑いを浮かべながら「見たいやつは…ちゃん、と…黎ヰ君にやめてねって…言ってるよ…」と言っていた
得意げだった黎ヰが、仲間からの苦情に顔をしかめていた
蔡茌 紾
「あの時の黎ヰは、気まずそうにしてたな」
今日の一連が、微笑ましく思えた紾だったが、目の前の友人が半目を開きながら、こちらに呆れ顔を向けている事に気がついた
蔡茌 紾
「な、なんだよ」
世瀬 芯也
「あのな、ちょっと洗脳されてんじゃないのか」
肩まである黒髪を軽く結んだ状態で、ネクタイを緩めながら世瀬は能天気な友人を戒める為、話を続けた
世瀬 芯也
「連中の空気に慣れるなよ、これは忠告だ。破天荒だとか常識はずれだとかってレベルじゃないんだよ、連中は人としての倫理観や価値観を捨ててる。お前とは決定的に違う」
はっきりと釘を刺されてしまい、紾は少し反論したくなった
蔡茌 紾
「そこまで言わなくてもーー」
世瀬 芯也
「お前も最初はそう思ってただろ」
言葉を遮られてしまい、思わず紾は押し黙ってしまった。世瀬の言ってる事が的を得ていたからだ
蔡茌 紾
「それはっ!最初は、異常調査部に移動命令が出てるって連絡が来たから、驚いただけで…」
鑑識課直轄の警察犬訓練士として、6年間過ごしていた紾の元へある日突然、刑事課の問題部署である異常調査部への移動命令が出された
その事をいち早く知った世瀬は極秘に紾に知らせた。流石に何かの間違いだろうと、警視庁・管理官である世瀬哲乙ーー世瀬 芯也の父親の元へ話を聞きに行った
そこで「誰かが既に手を回していた」と不穏な事を言われた挙句「決まったことだから諦めてくれ」とあっさり見放されてしまえば、一介の警察官ではどうする事もできなかった
世瀬 芯也
「当時は顔面蒼白にして嫌がってただろ。それが少し一緒に居ただけで、こんなに仲良くなってるとはな」
皮肉めいたように言い放つと、世瀬は半分残っているジョッキの中のビールを一気に飲み干し、話を続けた
世瀬 芯也
「ったく、心配する俺の身にもなれよな。廃校舎の同級生殺害の再調査に、捜査一課長の病院立て篭もり…どっちも大事件だ。その裏で黎ヰが必ず関わってる事は、全員が周知してる。実際他所からの風当たりも強いだろ」
蔡茌 紾
「ま、まぁな。最近は慣れてきたけど」
廃校舎の再調査では、結果的に数十人以上の警察官と中央警察病院の医師や看護師、さらには消防署まで巻き込む大事件となってしまい、事件の直後から随分と陰口や嫌がらせが続いている
捜査一課長の立て篭もりについても、黎ヰが主犯格である捜査一課長の隅田を、必要以上に追い込んだと言われているせいもあり、捜査一課からは完全に敵視されている状態で、風当たりが強いなんてもんじゃない
かと言って紾は、世瀬の言うように、全てが黎ヰのせいだとは思えなかった
蔡茌 紾
「最近思うんだけど、なんと言うか異常調査部って言うよりは、黎ヰに恨みが向いてる気がするんだよな」
世瀬 芯也
「?!」
何気ない紾の言葉に、世瀬は目を見開いた
世瀬 芯也
(抜けてるようで、確信をつきやがる)
蔡茌 紾
「そういえば、世瀬も前に黎ヰは根深い所まで恨まれてるって言ってたよな。何か知ってるのか?」
以前、言われた事を思い出しなんとなく聞いてみた紾だったが、世瀬は先に注文を促し時間を稼ぐ
世瀬 芯也
(さて、どう答えたもんか…)
おそらく世瀬は、黎ヰについて全てを語れる自信があった。だが、紾にそれを話す必要があるのか見定めていた
世瀬 芯也
(まさか、こいつが黎ヰ達に対してこんなに肩入れするとはな…とんだ誤算だ)
人当たりが良く誰からも好かれる紾に目をつけ、異常調査部へと送り込んだのは、他の誰でもない世瀬芯也本人だった
その目的は、異常調査部の内情や黎ヰの情報を知る事。だがスパイの様な事を紾に頼んでも、性格上断られるのは目に見えていた
だからあえてそれを言わず移動命令を出し、友人と言う立場を利用し心配して話を聞く程を装い、今まで情報を得ていた
世瀬 芯也
(上手くいけば、本当にスパイに出来ると思ったが、この分じゃ難しいな)
そもそも紾から引き出した情報は、今までの事件の裏付け程度で黎ヰの不祥事に関わる事柄については、一切の情報を得ることができなかった
世瀬 芯也
(単純に黎ヰが見せてないのか、こいつが言わないのか……どちらにしても、移動してから数ヶ月じゃこの辺りが限界だろ)
どんなに紾が彼らに心を開いたとしても、それは一方通行に過ぎない。もし、そうじゃないにしても心理士に診てもらってる状態では、いずれ精神が耐えきれなくなり警察官は辞めないにしろ、刑事課からは身を引く事になる
きっと本人も薄々分かってるのかもしれない。それを認められず、誤魔化してきてるのだろう
どちらにせよ、捜査一課長の事件のお陰で腰の重い老人達に、黎ヰが厄介者だと再認識させる事ができた
そして、新たな警察組織を設置する事にも成功した。ならもうこれ以上、紾を利用する理由もない
世瀬 芯也
(こっちの準備も整った。用済みだろ)
頭の中で結論を出すと、様子を伺う様にこちらを見ている友人に、感情とは裏腹な笑みを向けた
世瀬 芯也
「まっ、時期に分かる。そんな事よりもだ、久々に会った後輩とはどうだったんだ?」
急に話題を変えられた事に気づいたが、もしかすると世瀬も黎ヰに対して何か思う事があるのだろうと、紾はそのまま質問に答える事にした
蔡茌 紾
「杉野千とは、ちゃんと話し合えたよ」
世瀬 芯也
「なら良かった。どーせ、區鬥さんの事も話したんだろ」
區鬥。その名前を聞き、お礼を言いに杉野千と共に、会いに行った時の事が頭に過った
蔡茌 紾
「あぁ。その…実は、區鬥さんに会いに行ったんだ」
重々しく吐き出された言葉に、世瀬は「そうか」と短く答えると、新しく来たビールを一気に飲み干した
少しの沈黙の後、ゴトンとジョッキを置く音だけが響く
世瀬 芯也
「墓は綺麗だったろ。ずいぶんと慕われてたからな……3年経った今でも、毎日のように人が手を合わせに来てる」
少し顔を赤くした世瀬の瞳には、もう会うことは叶わない區鬥が映っている気がして、紾は何も言葉にできなかった
蔡茌 紾
(3年…そんなに経つのか)
紾が杉野千から聞いた話しでは、3年前に逃亡中の殺人犯と対峙し腹部を刺された。発見が遅れた事もあり死因は出血死だった
もっと早く、區鬥を見つけ出せていれば助かったかもしれない…その後悔は歳月が流れた今でも、世瀬の胸を締め付けていた
世瀬 芯也
「なぁ、もう一杯頼むか」
普段はあまり飲まない世瀬が、唐突にそんな事を言った。紾はとことん飲みたいのだろうと気を配り、自分が頼んだハイボールを一気に飲み干した
蔡茌 紾
「よし!何杯でも付き合うよ」
自身の倍以上、飲める紾に対して、世瀬は呆れたように首を横に振る
世瀬 芯也
「底なしと一緒にするな。俺はあと一杯が限界だ」
蔡茌 紾
「そ、そうか…」
明らかに肩を落とした友人に、彼は内心どこまでお人好しなんだと呆れた
世瀬 芯也
(なぁ、俺はお前を利用した事について罪悪感なんてもんは一切ないし、これからも利用価値があるなら友人の立場を利用するつもりだ。それに気づいた時、お前は人の気も知らないで、平気で俺を許すんだろうな)
蔡茌紾と言う人物は、そう言う奴だ。自分よりも他人の気持ちを優先し、助けようと行動する事ができる
世瀬 芯也
(俺はそんなお前を見てると、無性に苛立つんだよ)
どこまでも狡猾なこの男は、友人ごっこが終わりを迎える日を、心待ちにしていた