97話 神の試練、聖ならざる少女《Heavenly knows》
身を油断のない鉄の衣にまとった少女は、テレノアに対して一変した。
美しく優美な尊顔には目いっぱいの嫌悪感を滲ませる。敵意が隠しようもないほど滲みでていた。
「こんにちはザナリア・ルオ・ティールさん。今日はとてもお日柄が良いため外の空気が美味しいですね」
「…………」
「私もなんだか鎧に日が照ってちょっとだけ汗ばんでしまいます」
テレノアは柔和な対応でお茶を濁す。
はたはた、と。手で風を扇ぎながら首筋へ冷を送った。
それでもザナリアは、彼女のことを鋭く睨みつづけている。
「そうやってまたも戯言をおっしゃられるのですね。半端者がよくもまあ聖都を堂々と歩けたものです」
あまりに唐突な対峙だった。
たまらず夢矢とヒカリは頬と頬を寄せ合う。
「はんぱものって……どういうことだろう?」
「とりあえず良い意味で使われる言葉ではないことだけ確かですな」
ひそひそ声を潜めながら事態を見守った。
あれほど賑わっていた会場に険悪な空気がみるみる満ちていく。
周囲の種族たちも水を差されたように酒を煽る手を止めて、固唾を呑む。
「なにか言い返してみては如何でしょう。私の弁に間違いがあるとは思っておりませんがね」
「いえ。今の私にザナリアさんの心を動かせる言葉は持ち合わせておりません」
ごめんなさい。そう言ってテレノアは深々と頭を下げて謝罪した。
そうするとザナリアの怒りの色合いがより濃くなっていく。
「っ! 民の寵愛にあぐらをかいた偽善者が……!」
聖都にいたどの民の感情とも合致しない。
これではまるで人々から愛される聖女という肩書きがいっぺんにひっくり返ったかのよう。
聖都の中で向けられていたどの感情とも違っていた。少なくともザナリアの銀を示す瞳に民が敬愛する聖女は映されていない。
「そういえば漠然と聞き流していたけど、オレたち聖女のことをなにも知らされてないな」
ミナトが呟くと、横で夢矢が「……確かに」ぴょんと毛先を跳ねさせた。
実のところ一党らはテレノアのことなにも知らずにいる。
とりあえず騎士を召し抱える聖女という単語と、彼女が都のなかでもてはやされているという姿だけは認知していた。
つまりなんとなく位が高い――偉いという位置づけと覚えていたすぎない。
だがその結果、ザナリアという他と異なる思想の出現に驚きを隠せずにいた。
「こちらが供物の収集へ力を入れているというのになにゆえ貴方はヒュームと仲良く都観光をしているのですか。聖誕祭を迎えた聖女としての責任ある立ち回りとは思えません」
ザナリアは怪訝そうに夢矢、ヒカリ、ミナトを一瞥した。
そして最後にテレノアへと早口気味にまくし立てた。
どうやら微妙な齟齬が生まれているらしい。ミナトが代わって仲裁役を買ってでることにする。
「あ、いや、今からその供物とやらをぉ……――目つきが怖いッ!?」
眼光が横に滑って刃と化す。
真っ向から睨まれたミナトは慌てて踏みだしかけた足を元に戻した。
黙れ、という気迫のみでこの威力。美貌も相まって怒りという感情が恐ろしいまでに際立っていた。
ザナリアは目を細めてしばしミナトを観察してから眉根をうんと寄せる。
「マナを欠片ほども感じさせぬとは――ハッ! 聖都という豊かな土地に庇護されているというのにずいぶんと気楽なヒュームもいたものだ!」
煩わしげに肩鎧に掛かった髪を手ですくい横に流す。
これはさすがに聞き捨てならない。売り言葉とわかっていても買わねば男が廃るというもの。
「誰が気楽だァ!? こちとら生まれてから一生ベリーハードだったんだぞォ!?」
ミナトは制服の片袖まくり上げて噛みつき返す。
「美貌にカミソリを乗せたような女が相手でもいって良いことと悪いことがあるッ! オレの半生を語った悲しい話で泣かせてやろうかァ!」
「こんな場所で問題事を起こしちゃダメだよ落ち着いてよう!? あとそれまったく反撃になってないどころか自滅しかけてるからね!?」
夢矢が荒れ狂うミナト残しにしがみつく。止めに入った。
ザナリアの発言はアザー生まれアザー育ちにとって、かなり効く。
出生不明、年齢氏名ともに不詳。最近わかったことといえば己の血液型がAであるということくらい。
それになにより己の生を否定されるということは間接的に家族を否定さているのと同義。あの過酷な星に住まう人類は誰1人として甘えていられない。
「効いていれば高い位置から良い香りをなびかせながら一方的に見下しやがって! さてはシャンプーとか石けんとかが家に常備されてるタイプのお嬢様だなテメェ!」
「ソレが普通なの! キミの育った環境が特殊すぎるだけ! 普通のお家にはシャンプーもリンスも常備されているものなの!」
「なんか私関係ないのに涙でてきたんですけど……。やっぱり心のなかではアザー生活が辛かったのね……よよよ」
人間が牙を剥こうともあちらはなんのそのといった感じ。
しかしザナリアは、けんもほろろに無視を決めこむ。
「……汚らわしいゲスが……」
吠える野犬を見下すような目つきでただひとことを残し、ふいと顔を背く。
「おいこら今小声でゲスっていったか!? 誰かにゲスっていったほうがゲスだからな!?」
「…………」
ミナト如きにはハナから関心どころか興味すらないといった態度だった。
相手にすらしない。おそらくただ邪魔に視界へ映ったから軽く払っただけにすぎないのだ。
そして冷徹な眼差しは再びテレノアへと狙いを定める。
「フン……御髪が乱れておられるようですね?」
「あっ! こ、これはその……ちょっと手違いがありまして」
指摘されたテレノアは慌てて覚えのある箇所を手で遮った。
それはミナト――というか幽霊少女――が、救出のさい切断した毛髪部分だった。
ビッグヘッドオーガに髪を掴まれ引き回された跡。恥辱の証でもあるためかテレノアはあからさまに動揺する。
そこへ見逃さぬとばかりに銀燭の鋭い目が光った。
「よもや大陸で唯一聖魔法を使用可能な聖女様ともあろう御方が魔物如きに遅れをとったということですか?」
段階を上げて声にドスが効いていく。
ミナト含む観客たちもまたぞくり、と。あまりの秘めたる怒りに悪寒を覚えて縮み上がった。
実際彼女の指摘はなにも間違っていない。隊から1人勝手にはぐれあまつさえ完全な消息不明となる寸前で拾われた命。
「…………ごめんなさい」
これにはあの笑顔咲くテレノアでさえもしゅんと閉口した。
対面するザナリアから逃げるように目を伏せることしか出来ずにいる。
もしあの時ミナトが現れねば今ごろ彼女はこの聖都に帰ることさえ叶わなかった。
本当ならば聖女はもう清らかなままでいられなかった。
両足を折られたまま逃げられず。どれほど喉を引き裂くほど叫ぼうとも助けはこず。やがて喉は枯れ瞳は光を閉ざす。
そんな絶望の暗黒で魔物の子を永遠、心が壊れるまで仕込まれていたのだから。
「ふ、ざける……な……! ふざけてくれるなァッ!!」
そして聖女の曖昧な対応にとうとう怒髪天を衝く。
先ほどから切れかけていた糸がぷっつりと途絶えるようにして烈火と化す。
「空席の玉座を空けたままにしておいてよくもまあ抜け抜けとのたまう! その上、神との交信さえ出来ぬ相手をなぜ我らが聖女と讃えねばならないのか! しかも当事者である貴方様でさえこの件に不寛容を貫きヒュームを囲いながらうつつを抜かすとは――まさに言語道断の極み!」
腹で圧縮された声に鼓膜がビリビリと震える。
この空間そのものが彼女の怒りによって恐怖へ貶められた。それほどまでに凄まじい怒号と気迫。
しかも娘がこれほどまでに声を荒げてもハイシュフェルディン教は一切止めようとしない。
「あのね、たぶんだけど、ミナトくんだけは都のなかに囁かれる声が聞こえていなかったと思うんだ」
そう言って夢矢は辛そうに石畳へと視線を落とす。
制服の胸部分をきゅう、とシワができるくらい強く握りしめる。
「ヒカリちゃんには間違いなく聞こえていたよね。僕ら第1世代は聞きたくない声も聞こえちゃうから……」
「さすがにあれだけ路地裏のほうで囁かれてたら気づきますっての。聖女ちゃんってばわりと後ろめたい状態にあるみたいよねぇ」
ヒカリも頬辺りで髪を押さえながら彼に同意した。
きっとそれは第1世代の身体能力強化――聴覚鋭敏の力による恩恵。能力を発動していなくても意識があれば自動的に一定の音を拾ってしまう。
またチーム《マテリアル》にも同じ悩みを抱える人物がいる。彼女の場合は聴覚鋭敏を通り越して心の声すら拾ってしまうのだが。
当然、第1世代すら発現しないミナトだけは置いてけぼりとなってしまう。
「聞いた噂によると聖女は先代先々代と歴代存在しているらしいね。なのに今代の聖女ちゃんだけは聖女としてもっていなくちゃならない力が使えないらしいよ」
「しかもそのせいでかなり煙たがられてるみたい。そして本人がいつもにこにこしてるし、周りは彼女を怠惰とか不精者とか聖女もどきとか呼んでましたなぁ」
意識することで初めて気づくものがあった。
ミナトは2人の話を聞いて初めて周囲に群れる視線に意味を覚える。
――ああ、そうか。
ぐるりと身体ごと回しながら周囲を360度見渡す。
すると、群れる民たちのすべてではない。しかし感化出来ぬほど、かなりの数の種族が悪意を秘めてテレノアを睨んでいた。
――夢矢とヒカリはずっとこれをわかっててテレノアに合わせてたのか。
唐突な吐き気をもよおす。忸怩たる思いが喉奥へとこみ上げてくる。
誰がとか、なにがではない。なによりテレノア自身がこのことを熟知していたはずなのだ。
なのにあれだけ優しく笑っていられたのは、知らぬ者に悟られぬようにするため。ミナトに知られぬよう演じた優しい嘘。
「どこへ向かうというのか!? まだ話は途中だぞ!?」
「テレノア!? どこに!?」
思わず遠ざかっていく背に手を伸ばすも空を切る。
ミナトは眼前の光景に目を疑った。テレノアは怒れるザナリアに身を翻したのだ。
言い返すどころかそのままてくてく、と。澄ました足どりで教会のある方角へと離れていってしまう。
「私は語られる通りの力すら与えられずのうのうと生きる仮初め聖女です。貴方がた民に讃えていただかねば聖女であるという証明すらままなりません」
そして彼女は軽やかな身のこなしで聖火台までたどり着く。
僅かに動揺する祭司の前で薄い胸元をまさぐって、とあるものをとりだす。
「ゆえにこれは神が私に与えてくださった試練であると考えているのです。だからこそ真摯にこの境遇を受け入れつつ神の期待に応えることこそ、私の信仰なのですから」
テレノアは祭司にぺこりと一礼をし、ソレを差しだした。
ザナリアは毛を逆立てながら怒鳴り散らす。
「フン、なにが信仰だ!? そのていどの供物1つ捧げることが創造主ルスラウス様への奉公だというのか!? ならば無礼千万としかいいようがない!!」
テレノアに悪意ある者たちは幾度と首を縦に揺らして同調する。
彼らが聖女を見つめる瞳に敬意はない。悪意ある者たちは露骨なまでにザナリアの声に同意の意思を示すのみ。
それ以外にテレノアを聖女と讃える者たちも僅かに失望の吐息を漏らしている。
ハイシュフェルディン教はあれだけ大量の供物を用意してみせた。それはもう広場に腐臭が広がるくらい大量の供物を。
というのにテレノアが会場に持ちこんだのは透明で薄いレンズ、そのたった1つきり。
結果は目に見えていた。どう考えてもハイシュフェルディン教の圧倒的な勝利を誰もが予想した。
しかしテレノアから供物を受けとった祭司は、こぶし大の透明な板を見て様相を変える。
「こ、これはッ!!? ビッグヘッドオーガの角膜ッ!!?」
目を零れんばかりに見開き、ただ1つの供物を両手に掲げた。
周囲のどよめきはやがてざわめきへと変貌する。
口々に「う、嘘だろ!?」「突然変異種!?」「数100年に1度の災害だぞ!?」「しかも大陸屈指の魔物!?」疑念と混乱が会場を舞う。
だが、テレノアだけはそうではない。毅然とし、凜とし、己の歩む道を見定めつづけている。
彼女が歩むと、波が割れるようにして人だかりが避けていく。
悪意ある者も、彼女を聖女と讃える者も、みな同じく驚愕を浮かべて道を譲った。
「それと1つだけ訂正させて頂きます」
そしてたどり着いたテレノアはミナトの腕にぎゅうとしがみついた。
「ここにいるのは大陸に住まうヒュームさんではありません。私の大切なお友だちでありともに試練を全うする者たちです」
己のすべてと願いと全体重を籠めるように縋る。
それでいて信を貫くほど強く、強く身を寄せる。
「このかたがたは先日この世界にやってきたばかりの人種族です! 200年前に先代聖女様とともに世界を駆け巡り大陸世界そのものを救った救世の一族です!」
やがて。予想表がひっくり返ったのはいうまでもない。
聖火台にビッグヘッドオーガの角膜が捧げられた直後、聖都は怒濤の光に呑まれた。
それは燃え上がる以上に凄まじい空高くまで届く光の柱となる。聖女の威光を世に知らしめんばかりの賛美なる景色にみなが空を見上げる。
間もなくして大看板に君臨する最上位位置には、テレノア・ティールの名が高々と掲げられたのだった。
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