89話 戻らぬ友に贈る手向け花《Strong Girls》
「あっ?」
「あらっ?」
筋トレ中に目が合ってしまった。
アブドミナルマシンに吊り下がって180度回転した視界に招かれざる友を発見する。
アブドミナル別名クランチマシンは、膝を高い位置に固定し急な坂に背を預けながら腹筋の効率を上げるレーニングマシン。腹直筋を主に責め立てる際に良く使用される。
国京杏は、横から見たら√記号を斜めにしたような姿勢のままじっとり目を細めた。
「アンタ目が赤いわよ。顔でも洗ってくれば?」
悶々としていても仕方がないと思い施設にきてみれば、存外会いたくない相手と邂逅したものだ。
ぶらさがるように逆さまになっていると重力が真逆になる。丈のわりに成長由々しいバスト近辺の布地が強く主張する。
流動生体繊維であつらえたトレーニングウェアはしっとりと汗に蒸し、横皺を作って苦しそうに張り詰めていた。
そんな逆しまな杏の元へ、レッグエクステンションマシンのほうから挑発的な眼差しが返ってくる。
「貴方だって親とはぐれた子兎のような瞳をしておりますわよ?」
鳳龍院久須美は、刃の如き切れ味で、睨み返す。
どうやらトレーニングマシンだらけの施設の1室で互いに存在を感知していなかったらしい。
杏も久須美もそれなりに己の肉体を責めきっている。そのためしどと汗に濡れて髪もしっとりと湿り気を帯びている。
「…………」
「…………」
そして2人とも視線をふいと逸らし、黙りこむ。
別気まずいというわけではない……――話す話題がないだけよ。
「じゅう、はち! じゅう、きゅう! に、じゅう!」
杏はラストセットの締めに入った。
多少邪魔が入ったところでいつもと変わりはない。とにかくやり遂げるのみ。
それは彼女だって同じだろう。
「ふっ、ふっ、ふっ!」
むっちり膨れた大腿四頭筋に意識を集中しながら膝を伸ばす。
こうして競い合うように切磋琢磨するのが2人のにとっての日常だった。
しかし普段であればもう2~3ほど嫌みの応酬くらいしようもの。ただ今日は本当にそういう気分ではないというだけ。
「ノア……また動かなくなってしまったそうですわね」
意外なことに久須美のほうから語りかけてきた。
「というより200年近く動かなかったんだから動いたことが異常なのよ。それにその件に関しては科学チームと重工チームが結託して寝ずに調べまくってるわ」
杏は上体起こしを止めることなく応じる。
「愛さんもお辛いでしょうに……数日くらいお休みをとったりしませんの?」
「だからああやって休まず動いているんじゃない。でないと精神的に瀬戸際なの、きっと……現実を受け入れないためにぃぃ、ねっ!」
最後の力を振り絞ってようやくセットを終えた。
予定より2セット増しで責めたためマシンから降りても腹筋がかあ、と熱くなっている。
「はっ、はっ、はっ……ふぅ。ここしばらく任務もなかったせいかだいぶ身体が鈍ったわ」
肩で呼吸を刻みながらタオルを求めて手を伸ばす。
と、足かけ部分に掛けておいたはずのタオルを床に落ちていた。
それを拾って濡れた頬を拭う。顎先から垂れた雫が白く盛り上がった胸元にひたひたと垂れていく。
身体が底から火照って全身の毛穴からくまなく汗が噴きだすのがわかった。セパレートタイプのスポーツウェアの内側は雨に降られたかと思うくらい濡れて不快だ。
ひと息ついた杏は、久須美の様子を覗く。
「そういうアンタはこんな場所でなにやってんのよ?」
「おそらくアナタと同じですわ。1人でいたら悶々とするばかりですもの」
そんな久須美の足は止まっていた。
気合いも精気の欠片もありはしない。顔を伏せながらただマシンに座って往復動作をそつなくこなしているだけに過ぎない。
杏は、唇をツンと尖らせ眦を吊り上げる。
「なによその体たらくは。私はきっちりやり通す。やる気のないヤツと一緒にしないでよね」
「…………」
久須美はただ無言で動作を繰り返す。
聞いているのか聞いていないのかわかったものではなかった。
おそらくはここにいる意味が違うのだ。ただの気分転換――もしくは1人でいたくない。
彼女は2人を失った。しかも生まれてからずっとともに育った姉弟のような存在を同時に。
虎龍院夢矢と亀龍院珠。掛け替えのないチームメンバーを失った彼女は、1人ぼっち。
杏はしおらしい久須美にリズムを崩されながらもむっ、と口をへの字に曲げた。
「染みったれた顔してるのは自由だけど汗くらいは拭いなさい。あとマシンを濡らしたまま移動するのはここのルール違反だから」
久須美に向かって新品のタオルを投げつける。
空中で広がった白い布がふぁさり、と彼女の頭にまとわりとりつく。
久須美はその頭に被った布を手とって自分の汗を拭う。
「……。お気づかい痛み入りますわ」
「別にアンタを気づかってはいないわよ」
「いえ、マシンのほうのことを言っておりましてよ?」
「っ、アンタ本当に落ちこんでんのかぁ!?」
怒号が響くも、屋内の施設に些末なことを気にするような者はいない。
それぞれが各々を責め立てることで精一杯といった具合だ。ノアでトレーニングルームとフレックス鍛錬部屋に通う輩は基本的にストイックな連中が多い。
屋内の湿度温度が一定を超えたためトレーニングルーム内にウォーミングアップ用の風が吹きこむ。
濡れてまとまった髪が解けて扇状に広がる。朱色に滲んだ肌に浮かんだ汗が乾いていく感覚が心地よい。
「で、アンタこの5日間ずっとそんな調子だったわけ? 部屋に籠もってメソメソしてたんならどうりで見かけないわけよね?」
こくり、こくり、と。杏はアフタードリンクを喉に流しこむ。
破壊した筋組織を効率的に再生するために開発されたゼリー状のドリンクだ。
なお味は非常にケミカルかつ素っ気ない。美味と思って飲むものはよほどのキワモノだろう。
久須美は、しばし無言だった。
「色々とノアの船内をくまなく調べておりましたの。部屋に籠もっていたのははじめの1日だけ」
しかし凍った唇の氷が溶けるみたいにゆっくりと語りはじめる。
「正直なところ今のノアはどこか異質で気色が悪いのですわ」
杏は無言で彼女の声に耳を傾けた。
もちろん興味がある話題だということもある。
が、なかに溜めこんだ不燃物を吐きださせることも目的の一部でもあった。
「あれだけの騒ぎだったのに人々は話題を避けつづけております。しかも急遽生産施設が停止し必要最低限の娯楽まで供給を絶たれ、このままではいずれ民の手に届かなくなってしまいますわ」
久須美は、ノア建造の出資御三家ともあってか船内の物流に目ざとい。
鳳龍院は主に園芸――いわゆる草花野菜果物を人々に安定供給する――活動を重点的にとり仕切っている。
だからこそ物流管理の観点から異変に気づきつつあるのだ。
そして杏も彼女と同じ異変を察している。
「加えて事件以降出船許可は皆無、1度足りとも許可は下りてないわ。資材収拾も停止してるし未開惑星アザーへの降下でさえ禁じられてる」
がむしゃらに働こうにも仕事が回ってこないのだ。
だからこんな場所で1人寂しくトレーニングを強いられている。
「やはり杏さんアナタもノアの暗く淀んだ空気に気づいておりますのね」
「当然でしょ。なんだかんだとこの船は私が生まれ育った場所なんだから普通気づくわよ」
杏が気丈ぶって背を反らす。ツンと豊かなバストを尖らせる。
すると久須美は僅かに頬を和らげた。
「つまり上層部はなにかをワタクシたちから隠そうとしておりますわね」
「しかもやりかたがミスティさんらしくないくらいに荒すぎるわ。事件性も高くその上急を要する事態になっていると見るべきかしら」
どちらともなくトレーニングウェア状態のパラダイムシフトスーツをインナーモードに変更した。
そうして2人はまったく同じ動きで、上から縦紋章の制服まとう。
「おそらく四柱祭司の辺りまで余裕でグルね。それと管理棟職員もグレーかしら」
「ならば艦橋地区周辺から距離のある人脈を頼るのが得策でしょう」
ずらり、と。陳列したトレーニング機器の間を靴音高く歩みだす。
これでまずは1人だった。
1人では成し遂げられずとも、2人いれば心強い。
「上層部の連中は隠す相手を間違えたわね」
「ええ、ごもっともですわ。珍しくワタクシと意見が合いましたわね」
2人失った、合わせれば4人だ。
ミナト・ティール、ジュン・ギンガー、虎龍院夢矢、亀龍院珠。《マテリアル》と《セイントナイツ》から各々2名つづ失った。
それ以外にも同期の友たちが消失している。このまま黙ってあのノア起動という不可思議を見過ごせるものか。
「あらあら杏さんったらどちらへお向かいになられるおつもりですの?」
「アンタに関係がなくてずっと遠い有意義なところよ」
居住地区の街並みに飛びだしてもなお2人は隣り合って歩く。
奇しくも2人とも向かう方角は同じ。色の失せた瞳には瞬く間に熱意が満ちる。
「もしおひとりで涙をお流しになりたいのであれば自室へお向かいになられることをお勧め致しますわ」
「そっちこそ濡らした枕を乾燥機にでも入れてきなさい。アンタがそうやってめそめそやってる間に、私は会わなくちゃならない人がいるのよね」
「あらあらあらそれは奇遇ですわね。ワタクシもちょうど会わなくてはならない御方の元へ足を運ぼうとしているところですわ」
すっかりいつもの応酬模様が返ってきた。
互いを鼓舞し、なじり合い、結果的には高めあう。
先ほどまでの湿りきった通夜を錯覚させる空気は気色が悪い。だからこれがこの2人にとってもっとも心地よい関係だった。
「…………」
「…………」
しかし強がりでしかない。
互いに人気のない裏路地に差し掛かった辺りでピタリと足を止める。
「私……アイツに楽しいこととか嬉しいこととかもっともっと教えてあげたかったんだから! なのに……いなくなっちゃったからもうなにも教えてあげられないじゃない!」
消えてしまった彼は杏にとっての大切な恩人だった。
革命を抜いても2度もこの命を救ってくれた。あとなにも知らない無知――バカだった。
そしてなにより掛け替えのない友人だった。
拳が震える、噛み締めた奥歯が軋む。なにも知らないなにも出来ない自分が情けなくて涙があふれた。
「ジュンだって……ウィロメナは泣いてたわよ! 私たちに心配を掛けないように遠く離れた場所で声を殺してメソメソ泣いてたのよ!」
「夢矢も、珠も、ともに歩む友としてワタクシは認めておりましたわ! 前向きで未来に希望を抱いているどこにでもいるような……そんなとてもいい子たちだったのです!」
だから2人はここまでこらえた感情を連ねながら前に進む。
憂いを噛み締め、辛酸を舐め、拳が震えるほど後悔に打ち震え。だけど止まっているわけにはいかない。
少女たちはそれでも進むという道を選ぶ。たとえ道が涙で濡れていたとしても他の道は選ばない。
「この最悪の状況を最低限でいいから理解し、立て直すわよ!」
「人類の強みは傷を舐め合うことではなくて手と手をとり合えるということですわ!」
2人はひと思いに涙を振り払った。
実績や後ろ盾のない子供の2人は、図らずも同じ行動をとる。
それは誰かに頼るということに他ならない。この最悪の事態を最低限で良いから収拾をつけられる人物が必要だった。
だから泣いてる だ け の時間は、かなぐり捨てる。
「真実を究明するためなら最後の最後まで足掻いてやる! 足を止めてグズるのはやれること全部やった後よ!」
「それがあのかたが最後にワタクシたち人類へ残したただ1つの遺言ですわ!」
たった1つの願いがあった。
それはすべての人類が無条件に聴かされたものでもあった。
最後まで人として生きろ。それが暗闇に沈みかけた腕を引き上げる。願いという光明が進むべき道として2人の歩く先を照らしてくれている。
暗幕に隠された真実をただ見過ごすのではない。なにもわからないのであればわかるまで藻掻き足掻くだけ。
そしてたった1人だけ、この現状を打開しうる人物がいた。
「ひとまずはアイツを無理矢理にでも引きずりだすわよ! ミナトがいないんだから代わりにリーダーを押しつけてやるんだから!」
「では共闘ということですわね! 鬼を叩き起こしてでも暗躍する上層部の思想を打ち砕いてやりますわ!」
杏と久須美は体表に蒼をまとわせながら駆け足で1箇所を目指す。
真実を求める。2人にはなぜブルードラグーンは消失したのかを知る権利がある。
そのためには大人の力が必要不可欠だった。さらにその力を得るにはもう1段階踏まねばならない。
2人は到着と同時にエアロック式の扉へ蹴りを入れる。
「往生してツラ見せなさいっての!! いつまでも引き困ってんじゃないわよ!!」
「男らしく表にでてきやがれってんですわ!!」
ヤクザさながらの恫喝とともに開いた扉から部屋に押し入った。
部屋の中央にはやつれ果てた――というより枯れ果てた青年が部屋の中央で横たわっている。
「コレ……生きてますの? 砂漠で干からびたハシビロコウみたいになってますわよ?」
「た……たぶん。っていうかミナトがいなくなってどんだけショック受けてるのよコイツは!」
彼は辛うじて呼吸があるものの半死半生といった感じだった。
予想するにコレは、友との別れという事件以降なにもしていないのだ。
最低限の水分をとった跡は周囲に転がっている。よほどショックで食事も喉を通らぬ状態らしい。
「………………」
容姿端麗かつやつれた青年は――大袈裟ではなく――くたばっていた。
もしもう数時間放置していたら本当に枯れていたかもしれない。
2人の到着が遅かったら危うく犠牲者がもう1人増えるところだった。
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