88話 狂気の揺り籠、喪失した未来《MAD DARK》
重厚な扉が2回に渡ってノックされ蝶番の高く軋む音が響き渡る。
開いた扉から数人の男女が入り組むよう艦長室内に足を踏み入れた。
1人は電子バインダーを小脇に抱えた薄ら笑みの青年。残る2人は流動生体繊維を編んだ幕を頭から被った者たち。
青年は定位置につくと慣れた所作で軽い会釈をし、腰を僅かに折る。
「現在状況のご報告とご相談に参りました」
柔和かつ虫も殺さないといった薄ら笑み。
彼は常ににこにこと頬を和らげ目尻を下げている。顔立ちも見目良くしゅっとした面持ち。体格は長身痩躯を現実に描くかのよう。
貼りつけた微笑は癖なのか、はたまた彼なりの処世術なのか。
周囲友人たちにマダムキラーと名づけられてしまったことは、とりあえず本人的に不本意だったらしい。
藪畑笹音秘書は、いつもの形式を済ませてから主の机にバインダーを差しだす。
「こちらが行方不明となったブルードラグーン搭乗者たちの名簿となっております。今もなおALECを通し探索をリアルタイムに画面へ反映させていますが、残念なことに反応はありません」
艦橋地区の空は今日も青く澄んだ偽りが覆い尽くしていた。
それを日常と刷りこむことが人の生きるために必須の行動だったのはいわれるまでもない。
長きに渡る宙間飛行。指折り数えて待つ繁栄の地。生命の揺り籠宙間移民船ノア。
「……報告は以上か。大して代わり映えのしないものだ」
管理棟最上階から一望可能な景色に嫌気が差して目を逸らす。
白長い指をぱちん、と鳴らすと透明なガラスがあっという間に閉ざされてしまう。
偽りが現実になって一室に光が差さなくなった。瞳の奥には未だ現と夢の境が影となって残されている。
「先日ノアのAIによって引き起こされたと思われる奇怪な暴走。あの現象以降ブルードラグーンは消息を絶った。行方不明となってすでに5日が経っています」
秘書の声に耳を傾けながらも腰まで波打つ長い髪を指に巻いてくるくると手遊ぶ。
どの報告もぱっとしない。言ってみればそれがすべてだった。
期待すればするだけ損をする。だからこうしてあるていどは聞き流す。
「船内食料と酸素、もろもろ人間が生存可能な時間は幾日だかわかるか?」
「ボーダーとなるのは明日の6日辺りでしょうね。それも船内人員全員が無事生き残っているのであればの話ですが」
「……喪失を確認するのはあと1日か。データで鼓動の止まる瞬間を待つというのはむごいものだ」
呟きながら豊かな膨らみに手を添えるも、不思議と焦りはなかった。
正直なところ少しだけ、藪畑の報告で確定されたことによって、本当に少しだけほっとしていた。
夢に縋るほど愚かではない。願いは届くと錯覚するほど生娘でもない。現実とは常に手の届く範囲にのみあるからこそ現実足り得てしまう。
「感傷に御浸りになるにしてもそろそろこちらへお顔を見せていただけませんか」
「ああそうだな。話をするなら目を合わせねばな。すまない」
藪畑に促さた起毛した赤い床を蹴って横柄な椅子を180度回転させた。
8代目人類総督ミスティ・ルート・ヴィッヒは、美貌にしなやかな微笑を貼りつける。
「私は今どのような顔をしているのだろう。しばらく鏡なんぞ見ていないからよほどではないことを祈るが」
「臥薪嘗胆の真っ最中といった面持ちですね。失意の果てながら気高くも美しくあろうとする御心の強さに尊敬の念を抱いてしまいます」
ミスティは軽薄男の下らぬ世辞を無視し机に置かれたバインダーを見た。
木目調のダークオークの上には藪畑が用意した情報が羅列されている。
その映像には、胡散臭い彼よりも、もっと軽薄な男が映されていた。
「東光輝、行方不明。5日を経ても信じがたいものだ」
ミスティは男の名を口の中で転がすように読み上げた。
あの男がこうも突飛なく消えるとは。未だ実感が湧いてこない理由はすべてこの男のせいだった。
人に甘く、女癖はより酷い。とにかく自由奔放で己の決めた物事は断固として曲げぬ性格。
まるで子供の脳のまま大人なったような人物。しかし彼が人類を導く先導者だったことに違いはない。
「行方不明を公開した当日ほどではないにしろ動揺が尾を引いています。やはり彼の消失は我々ノアの民にとってかなりの喪失だったのでしょう」
「そう……だな。おそらく現艦長よりよほど重要だったのだろうさ」
「唐突にメンヘラぶるの止めて貰ってもよろしいでしょうか。貴方だって我々ノアの民にとっては掛け替えのない御方ですよ」
上司が弱気になっているというのに表情のひとつすら崩そうとしない。
慰めの1つでも期待してみたが、この言われようである。
これは暗に今は立ち止まっている場合ではないぞ、と。彼女の尻を叩いているにすぎないのだ。
ミスティは、浅くため息を零してから優秀で狡猾な秘書を見上げる。
「ノアの民は、つつがないか?」
「はい。ですが、今のところは」
一言一句に嫌な含みがあった。
そんな嫌みでさえこの青年は眉ひとつ動かさずに言えてしまう。
「最重要機密は四柱祭司まで流布されてます。以降、民たちの耳に届かぬよう細心の注意を払っています」
「ということは現実が明るみにでるという可能性を背負っているのはここにいる面々と四柱祭司のみということだな」
「もし機密が表に露呈するときはそのなかに裏切り者、あるいは善意ある心が混ざっていたということになるでしょうね」
そう言って藪畑は後方で待機している2人のほうへ振り返った。
忠実な僕たちは羽織布の向こう側で瞳を光らせている。
「……機密は漏らさない。漏らす者もまた許されない……」
「……王の影は幻想でなくてはならない。幻想となった影は常に貴方たちの足下にいて見つづけている……」
囁くような声が影の向こうから響いてきた。
「おや、怖い怖い。それじゃあ僕たちのことも監視しているみたいな言い草ですね」
「…………」
「…………」
藪畑が肩をすくめて見るも、あちらは語る気はないらしい。
彼女たち《キングオブシャドウ》は、必要以上に話すことをしない。それはあらゆる情報を漏らさず遮断するという本能的な行動でもある。
そして今や彼女たちのチームは、2人だけとなっていた。
「リーリコさんの件は非常に残念でした。痛みいたたまれぬ事態に掛ける言葉もありません」
《キングオブシャドウ》リーダー、リーリコ・ウェルズは、ブルードラグーンとともに喪失した。
彼女も船消失の被害者だった。証拠に電子バインダーには彼女の顔写真と所属チームが映しだされている。
背の低い方の影が僅かに揺れた。
「いい。リーリコは己の使命を全うしただけ」
女性らしいシルエットを浮かす影が後につづく。
「影として役目を果たす。それは影の主が死すとき運命をともにすることと同じ」
彼女たちが語らぬ以上感情を知る術はない。
ただ在るはずの1人がこの場におらず。目に見えぬ悲壮感が存在しているだけだ。
くるり、と。薄ら笑いがミスティのほうへと翻ってくる。
「それはそれとしてあの件についてはどのようなお考えなのですか?」
深刻な空気を読んだといえば聞こえはいい。
だが、彼の本心はもっと別のところにあった。
「なぜあの時ブルードラグーンの搭乗者ではないミナト・ティール少年も巻きこまれたのでしょう」
「その件に関してはそちらに任せたはずだ。私が知る限り彼は……いや、そちら側の報告に委ねよう」
ミスティが言い淀むと、藪畑の常に薄い眼差しが僅かに開かれた。
途端に彼のまとう空気に冷気が混入し、屋内の様相が一変する。
そして冷ややかな視線の先には、ミスティが不動のままに座すのみ。
「彼の移動記録を辿ってみた限りではこの管理棟を最上から最下、そしてまた最上を往復するという謎の行動をとっています」
つまりここ艦長室から最下に赴き再び艦長室へと戻ったということに他ならない。
彼に与えられたALECナノコンピューターのGPS機能が覆しようのない事実を語っていた。
「貴方はなにかをご存じなのではないのですか? 彼が最後に我々へ伝えた言葉は決してこの件と不関係とは思え――」
ミスティから藪畑へ反論する気は毛頭なかった。
ミナト・ティールのとった行動が不可思議すぎた。
そして最後に彼と会話したのはミスティであるということも確定している。
ノアがフレックスを帯びるという現象との時刻も一致してしまっていた。
そしておそらくミナト・ティールという少年は、この件の核に触れている。
だからこそミスティは、甘んじて否定できぬ批判のすべてを受け入れるつもりだった。
「ますよねぇ~?」
だが、開眼しかかった藪畑の眼差しが再び閉ざされた。
彼の先ほどまでまとっていた不穏な空気は一瞬のうちに軽快な笑みにかき消される。
「だって会話記録も残ってますしぃ、ミスティさんを疑う余地もありません。おそらく彼は個人的な行動をとって活動しなにかを発見した上で貴方をもう1度探していたのでしょう」
「藪畑……お前返ってくる反応すべてを知ったうえでやっているな?」
ミスティが辟易とした視線を送ると、藪畑はシャワーでも浴びるみたいに両手を広げた。
「あっはっは。こういう事態に陥ると内側から瓦解させようとする連中が湧きかねません。ですので前もっての訓練みたいなものです」
くるくる、と。小躍りする青年にほとほと呆れかえる。
「まったく……困ったヤツだ。あまり大人の女性をからかうものではないぞ」
なんて。背もたれに体重を預けながら思わず頬が緩んでしまう。
軽薄さが今は暖かい。なにより藪畑青年だって場の空気を読んでおちゃらけてくれている。
「そういうことをするからマダムキラーなんて名前を後づけされるのだ。自業自得だろうに」
「あっはっは! それは聞き捨てなりませんし不本気極まりないですね! 僕が心を射止めたいのはマダムだけじゃなく、老若男女すべてなのですから!」
彼が高笑いを上げると、向けられる女性と少女3人の視線が一斉に「うわぁ……」と訝しく絞られた。
ともあれこれは彼なりのエールなのだ。不器用なりに現状を良い方向へ流そうとがんばっているだけ。
無理を承知してでも踏ん張ることで保っていられることもある。
「……残された者たちは受け入れていくことでしか前に進めない。直にブルードラグーン搭乗員たちの葬儀を上げましょう。葬儀を上げればみなの心に死を受け入れる大切な覚悟が生まれるはずです」
藪畑とてブルードラグーンの搭乗員とは顔見知りだった。
無論彼だけではない。ノアの民すべてが繋がり、並び、生きている。
苦楽をともに興じて同じ道を進む仲間が消失して今や船内が混乱の渦中にいた。
「あの子たちはきっと私たち以上に辛いだろう。若くして同期のメンバーを失ってしまったのだからな」
ミスティはカップに伸ばしかけた手を不意に止めた。
コーヒーの香らない一室に求めるものはない。なにせ東秘蔵のノアブレンドはあの日以降生産を止めてしまっている。
事態は刻一刻と悪い方角へ流されつづけていた。人類全体の首に巻かれた真綿は徐々に命へ迫ろうと締まりつづけていた。
「ノアよ……なぜ我々にこれほどの試練を与えつづける?」
もう1度指を鳴らす。再び光が返ってくる。
ミスティは縋るように空へ語りかけながら艦長としての責務を果たす。
――民には真実が早すぎる。状況は明かせない。もし知ってしまえば未熟な人々の心は凍りつく。
管理棟から見える偽りの空は真実を映さない。
沈黙した船はなにも語らない。そのうえなにも明かさず。
それでもわかることがあるとするならば、1つきりの収束点。
人類は抗えぬほどの大いなる力によって間もなく滅ぶ。
真実を知る者たちは暮れゆく未来に――
「闇」
そう、名づけた。
●●●●●




