72話 宙空庭園《Dancing in the Darkness》
品のあるコーヒーの芳しい香りを置いて執務室から外にでる。
暖房の効いた部屋と外の温度差によって僅かに汗ばんだ肌が冷気を敏感に受け止める。
旋律でも奏でそうな白く長い指が星々の海を指す。
「上に真っ直ぐとアンテナのようなものがつづいているだろう。あれがバルコニーから空へとつづく階段のようなものだ」
管制塔最上階バルコニーからの展望は足が震えるほど高い。
手すりから顔だけを覗かせると管制塔へ行き交う人々が粒のように小さく見えてしまう。
そして上には管理地区全体を覆う半休状のガラスが普段より近いところにあった。そしてこのバルコニーから真っ直ぐと貫くように1本の棒が天高く伸びていた。
――なんでオレがこんなことに……。いやでも総督様のお誘いとあっちゃ断れんか。
ミスティ曰くこれからお気に入りの場所へ向かう途中だったのだとか。
話はそちらで聞くといわれてしまってはミナトも渋々同行せざるを得ない。
「あの、いきなり被せられたこのヤケに重いヘルメットとメカメカしいロングブーツはいったいなにに使うんですか……?」
透明な膜越しに長身のミスティを見上げ、控え目に問う。
相手は人類総督である以前に本物の大人の女性だ。
敬意を払うのはもちろんのこと。未熟な身では見上げねば視線を合わせることさえ叶わない。
ミスティの身長は女性にしては高く、175cm辺りだろうか。2次成長期を極貧で過ごしたミナトにとってあらゆる意味で高嶺の花だった。
「ああそれは簡易的な宇宙服だよ。なにせこれから私たちは宇宙空間を経由する。第1世代すら使えぬ君には必須の装備だ」
ミスティは、すんと物言う花の顔で途轍もないことを口にした。
ミナトの目がヘルメットの奥でぎょっと皿になって剥かれる。
「そんな話まったく聞いてないんですけど!? オレ今から宇宙に行くんですか!?」
「この足場の上に立ってグラップルバーをしっかりと握るんだ。命綱で私と繋がっているがいちおう離さないようにしておくに越したことはない」
「いやいや命綱とか言ってる時点でもはや危ないでしょうよ!? 離さないようにしておくに越したことはないじゃなくて行かないにこしたことはないほうを優先させてくれません!?」
淡々と話だけが進んでいく恐怖がここにあった。
ミスティは、抗議するミナトをけんもほろろに作業を進めていってしまう。
腰に巻いたベルトに固定具をカチャリと装着する。固定具には互いの腰と腰を繋ぐカーボンワイヤーが張られている。
「パラスーツは元より宇宙作業用の服装だからな。酸素さえあればフレックスが使えなくても軽装で遊泳を楽しめる」
「そうじゃなくてですよ!? 宇宙ってこんな流しそうめんのめんみたいなノリで連れて行くところじゃなくないですか!?」
相手が人類総督だからといってさすがにこのまま黙っていられるものか。
どうやらこれから心構えなしで宇宙遊泳をしなければならないらしい。
「重力のある間に落ちると大怪我をするからな。暴れず騒がずじっとしているのが賢明だよ」
ミスティは美貌にフッと大人の笑みを貼りつけた。
そのままミナトの腰に手を回し引き寄せる。もう片方の手で昇降台のスイッチを入力する。
すると1人分しか幅のない狭い台の上が動きだす。みるみる地上が遠のいていく。昇っていく。
こうなっては駄々をこねたところで、羽をもがれた鳥でしかない。
「あーくそ!? この船の人間マジで話聞かないなァ!?」
ミナトは唐突な浮遊感に慌てた。
ミスティのくびれた腹辺りにままよとばかりに両手を回してしがみつく。
白い羽織越しに身を寄せただけでその奥に大きな勾配と抑揚があることがわかった。子供のように未熟ではない大人としてしっかりと成熟したボディライン。
そうこうしている間にも駆動する音は止まることなく進んでいく。
2人を乗せた平たい足場とグリップがレールに沿って細い棒を昇っていってしまう。
「さあ生体ガラスを抜ける。ここからは人の及ばぬ未開の領域だ」
「――ヒィィィッ!?」
ぼう、と。彼女の体表面が蒼を帯びていく。
そして2人は泡のように弾力のある半休状の膜を突き抜けた。
なんの構えもする余地すらなく、星々の漂う宇宙空間へと侵入を果たす。
ミナトは急急たる事態に追い込まれて脳が理解力を失う。
「――ッッッ!!」
思わずヘルメットのなかで息を止めたのだった。
ゆっくりと瞼を開くと、もう知らぬ世界。滑らかな黒いビロードのなかを身ひとつでたゆたう。
昇降機はなおも浮上していく。世は暗く無限。どこまでも水面が見えない。ただ暗黒の闇が永久をよぎらせるくらい広がりつづけている。
夜に見上げるものがまさにいま身体を覆い尽くしている。現実感が遠のいていく。それとは別にふわふわとした浮遊感が身体全体を包んでいるかのよう。
――静かだ。……というより音が、しない?
恐る恐る肺へ酸素を送ってると、異変に気づく。
先ほどまでの昇降機から聞こえてきていた耳障りな駆動音が消滅していた。グリップを握る手にのみ駆動する振動だけが伝わってきている。
ミナトが戸惑っていると、バイザー部分がとんとん、と指の先端で叩かれた。
『宇宙空間では大気がないため音の振動が相手の鼓膜に届かないんだ。だからALECで通信をすることが基本的なコミュニケーション方法になる。電波を使用した会話方法は初めて月面を歩いた人間さえ使っていたと聞くな』
艶然な笑みがこちらを見下ろしていた。
ミスティはまるでミナトが困惑するのを知っていたかのよう。
さらには彼女のレクチャーする声はすれども口は動いていない。
どうやら《ALECナノマシン》を使ってこちらの《ALECナノコンピューター》へと声を送っているらしい。
『それ以外にも今やったようにヘルメットのなかの空気を振動させて合図を送るという手段もある』
そう言ってもう2度ほどトン、トン。
指先でノックしながら口角をにんまりとさせ悪女めいた笑みを作っている。
「でもそんな原始的な方法はイタズラのためくらいにしか使わない……ということですか?」
『はははっ。君以外の人間を上に上げたことがあるのだがな。全員が似たような反応を返してくれるからつい楽しんでしまうんだ』
「……いい趣味してますよ……まったくもって……」
こうして語らいながらも互いの身体を拒む空白の幅は1mmもない。
これではまさに手取り足取り。背にあたる大人で柔和な感触が甘く脳を痺れさせてくる。
そうしている間にも白翼の宙間移民船ノアが真下になっていく。
「っ!? も、もう船があんな遠くにあるのか!?」
ここにきてようやく現実にぴしゃりと頬を弾かれた。
ミナトは、遠のく船を見下ろし、一気に全身を強ばらせた。
怯えすくんでしまう。吊り橋で下を見るなという説が立証された瞬間でもあった。
『緊張しなくていいみなはじめては怯えるものだ。人間である限り宇宙とは尊くも果てしないものなのだから』
「む、無茶言ってくれますね……! 興味あって参加するのと無理矢理放りだされるのとでは意味が違いますって……!」
『ふふ。それでもついてきてくれたということは私を信じてくれたということじゃないのかい?』
「ここでNOと答えたら本当に放りだされそうだからYESって答えておくことにします……!」
ミスティは通信越しにくつくつと軽やかに喉を奏でた。
より強い力で震えるミナトを抱える。華奢――過ぎる――少年1人を蒼をまとった全身でふわりと包みこむ。
『大丈夫。もし怖いならいいというまで目を閉じていればすぐに着くさ』
囁き、肌を通して伝わってくる温もり。どちらも暖かい。
怯えきっていたはずのミナトの身体から少しずつ気が逃げていく。
宇宙のなかは東西南北上下左右すべての平衡感覚が奪われる。恐ろしい。なのにそんな白と黒しかない宙ぶらりんな空間でもどこか安心が生まれていた。
「負けた気がするんで刮目しておきます。ビビっても負けを認めないのは親元からの教えなんで」
『ほう、ディゲルらしい教示だ。それにやはり君も男の子なのだな』
彼女はこうして絶え間なく語りかけてくれていた。
ミスティは、目の前でムキになる少年を、母のように温和な瞳で見守っている。
敵ではない慈愛に満ちた表情は淑女然とし、抱えた少年が不安にならぬよう気を配りつづけていた。
――なんかこの人の表情……すごく暖かい。みんなに好かれる理由がなんかわかった気がする。
すん、と。ミナトは鼻を鳴らす。
だが音が反響するばかりでなにも香らない。これほど肌が貼り付くくらい近くにいるというのに彼女の香りがしない。違和感。
ヘルメットは無機質な香りを放ちながら酸素を提供しつづけている。
――そういや革命のときもか。オレのことを死なせない為に寝返るよう手引きしてくれてたっけ。
瞼を閉じ、強ばった身体から力を抜いて彼女に身を委ねた。
頼っていい。信頼できる。案ずる必要はない。そう、アザーですれた心がミスティという女性を許容する。
初の宇宙は恐怖しかない。もし彼女がこうして支えてくれていなかったら心の支えまで失うのだろう。もしそうなら正気を保てていなかったかもしれない。
『間もなく到着だよ。寄せ合う身を離すのは名残惜しいのだがな。もっと素晴らしいものが待っていることを保証しよう』
ミナトは、歌うような音色に引き戻され、閉じていた眼を開く。
「あれは……宇宙にでかい泡が浮かんでる?」
ちょうど真上にあたるところに異物があった。
レールの終点。その宙空に透明で大きな球状の物体が浮いている。
真っ直ぐガイドがその泡めいた場所に伸びている。そこが目的地であると容易に理解できた。
そして2人はノアから飛びだしたときと同じように透明な膜をするりと抜けて内側へ侵入する。
「到着だ」
そう言ってミスティは爽快な笑みとともに、んっ、と伸びをした。
油断のある行動によって膨よかながら張りのある胸部がツンと尖り主張を強める。
「ここには酸素供給されて満ちている。だからヘルメットは抜いでも構わないぞ」
彼女はすでに蒼すら帯びていない。
しかも重力さえ発生していない支えのない空間ですっかりくつろいでいた。
通信ではない肉声がはっきりと大気を揺らして耳に届くようになっている。
「……ふぅ。ここがミスティさんの言っていたお気に入りの場所ってやつですか?」
ミナトは言われたとおりにヘルメットを外し小脇に抱える。
それから若干ほど不機嫌を声に滲ませた。
よくもこんな辺鄙かつ珍妙な場所に連れてきやがって、という心もち。
おかげで未だ鼓動は高い。好奇心より恐怖心のほうが全然勝っていた。
「ああそうとも。こここそが人類総督となった私だけが自由に行き来可能なスペシャルパワースポット――宙空庭園さ」
「ちゅう、くうていえん? バビロンの空中庭園じゃなくて?」
「……? この場所の名付け親は私だが近いモノがあるのかい?」
そう、ミスティは屈託のない微笑を浮かべた。
――なんだ……今の違和感は?
「ほらミナト少年! 君ももっと重力を忘れて楽しめ!」
「あ、ちょっと腰の紐で繋がってるんだからはしゃがないでくださいよ!?」
ここに至って彼女はひまわりのように明るかった。
それは見る者に普段の厳格さを忘れさせてしまうほど。
もとより骨格が和人のミナトと彼女とでは身長から瞳の色まで月とすっぽんほども異なっている。
目鼻立ちがくっきりとしていてかつ切れ長な目立ち。手足も胴より長く精巧なマネキンのよう。
背景となった星々の灯りでさえ彼女を彩る背景にすぎない。
「宙空庭園は船の甲板ぶぶんが一望できる特別な場所さ。総督の執務室からでしかこられない唯一の特等席ということになる」
「つまりミスティさんの許可がないと立ち入り禁止。でなおかつ人類総督の秘密基地ってところですか」
「こうして総督の厚い皮を脱ぎ捨ててガス抜きをしているんのさ。背負わされた重責に押し潰されぬようにだな」
語っている間もミスティは酸素で満たされた透明な踊り場で優雅に泳ぐ。
その姿はさながら星を携えた天女のよう。
白き羽織が羽衣のようにたゆたい長い裾が流れて踊る。裾が翻ると黒地のスーツがむっちりとした肉感を垣間見せた。
それほどまでにこの球状の宙空庭園は、ミスティ・ルートヴィッヒという女性を華やかに彩っている。
「ほうら。あれを見てごらん」
「……見るってどこを?」
平静を装いながらもミナトはどきりとしていた。
優雅に踊る美しい女性に色目を使っていた、なんて。口が裂けてもいえるわけがない。
しかも相手は人類総督である。ここにくるさい背で覚えた潰れる感触が未だ生々しく、記憶に根深かった。
「下さ。ここからの景色は私に導き手としての覚悟を教えてくれるんだ」
ミスティはくるりと縦に回って白裾を流すと、あちらを指さす。
遠方に投げた眼差しをふふ、と細めた。
ミナトは首を捻りながら彼女の暖かな眼差しを追う。
「っ!? す、すご!?」
視界に広がった光景に思わず息を呑んだ。
世界の中央にそれらを捉えると、眼を逸らすことさえ意識から抜け落ちる。
宝石だと錯覚するくらいだった。心を打つ宝のような景色がずぅっとどこまでもつづいていた。
覚えたのは戦慄だった。強引に心を鷲掴みにされる。
そしてその感触こそが革命のさいにミナトを突き動かした熱いモノでもあった。
「これはあの時に感じた人の発する色だ!? 似ている……――いやこれはもっとすごい!?」
居住地区から環境地区を繋ぐスペースラインで見た光と酷似している。
ここ宙空庭園からの景色は荘厳かつ壮大だ。ノアという白き鳥の如き幽玄なる船を端々まで遠望することが可能となっていた。
人の発する様々なカラフルがいっぺんに視界を覆い尽くしてくる。
それらは人の作りだす人が織りなす人の作りし大いなるモノ。人々の生活する粒1つ1つが生命として胎動してつづけている。
「ここから1層を見ていると私の守るべきモノが確固としたものになる。曲がらぬ揺るがぬ不動の志をこうして得ているんだ」
ミスティは豊かな胸に手を添えほう、という熱い吐息を零す。
あくせく動く民たちへ慈愛の眼差しを向けていた。人の発するとりどりの色1つ1つを見逃さぬよう。
ミナトでさえ心奪われる。
「………………」
あまりの美しい光景に指ひとつ動かせず。ただ宙空で固まるしかなかった。
多くの人々が生きている証だった。様々な生が謳歌する姿はなにものにも代えがたいとすら思わせてくる。
「さてそろそろ話をしようじゃないか」
ミスティがくるりと縦に回った。
それから腕を組み典雅な微笑をミナトへ傾ける。
「少し時間をあけて私のほうから向かおうと思っていたんだ。それだけにそちらから赴いてくれるとは光栄なことだな」
表情からはすでに子供っぽい明るみが抜けきっていた。
先ほどまでとは異なり人類総督の皮を被り直したのだ。
「それで折り入って私に話とはなんだろう。それとも人類総督に対して高度に政治的話をもちかけようとしているのかい」
「そこまで込み入った感じの話ってわけじゃないんですけどね。ただなんというか噂ていどのものなんですけど……」
本題に入った途端。ミナトはしどろもどろになってしまう。
こうしてわざわざ貴重な時間を割いてくれているのだ。裸の少女に覚えがあるとは話題にだして良いものだろうか。
なによりこんな人の耳が届かぬようなプライベートな場を用意してもらっている。
もしかしたらミスティなりに気を遣ってくれているのかもしれない。
「う~ん……そうだなぁ……」
「なに気後れることも恥ずかしがることもない。姉に語らうよう語らいたいことを聴かせておくれ」
「……姉かぁ。チャチャさんに相談とかしたことないからなぁ……」
ミナトはしばし苦々しく星々を睨みつける。
人生で2人ほど姉っぽいのは家族にいたが、そういう感じでもなかった。
もっと軽く話せるだけで良かったのだがミスティのせいで予定がズレてしまっている。場がロマンチック過ぎるというのも考えものだ。
――ちょうどいい機会だしあれをそろそろなんとかしておこうかな?
こうなっては腹を割った相談のひとつでもしてみるべきかと思い立つ。
なにせ相手は人類総督様。1つの疑念を明かすには最高の相手でもある。
「オレってノアの民に嫌われてたりします?」




