58話 不兆《Turning Point》
もはや限界はとうに越えていた。僅かな向かい風でさえ身にまとわりつく、踏み込む足が鉛の如く重い。
脳と筋繊維が酸素を求めているというのに肺がこれ以上膨らんでくれず。呼吸を刻めども一向に脳が働こうとしない。
「ハァ……ハァ……ハァ……!」
ヘルムの内側に反響する自身の呼吸でさえ耳障りだった。
そしてついぞ聞こえてきていたパワーアーマーから途切れ途切れな訴えがとうとう止まる。
『予備エネルギー……0……動作ヲ停止、シマ……ス』
「クッ――ガハッ!?」
とうとう体外骨格からの補助が失われた。
途端に全身を覆うアーマーがかなりの重しとなってバランスを崩してしまう。
そのまま鋼鉄は身体を地べたの上に放り出す。
ガシャァ、という無機質な音たてて転がったが最後もう動くことはない。アーマーはただのガラクタと化し、もう起き上がることさえ叶わなくなった。
『A”A”……A”A”A”』
肩に背負っていた黒殻の少女も地べたの上に転げてしまう。
そして倒れふす男を置いて灰の上を這うように手足をばたつかせた。
「ゴメンよ嬢ちゃん。クハハ、こっからは自力っきゃねぇなぁ」
無理やりに笑う音でさえも乾いていた。
虎龍院剛山はアーマーを脱ぎ捨て鋼鉄の背部から抜け出す。
いつぶりかの新鮮な風が表皮に浮く汗を通じてくる。暑く熱された身体が冷えていく。
「あとどれほどだ? 音が……近い!」
過酷極まる流浪の行脚だった。
身はすでに窶れ、口内はカラカラに乾いて唾液さえ分泌されなくなっている。
それでも前を目指しつづけるのは学者として、父として、発展を求めたからだ。
しかしそれももう終わりが近かった。
「ほら肩に乗りな。アレはもうすぐそこにまで迫ってやがるから急がねぇとよう」
もはや立つことさえ自由ではない。着の身着のままとはまさにこのこと。
剛山は無抵抗な彼女をようやく担ぐと、牛歩の如く行程をつづける。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……!」
老婆の扱う杖先のように痙攣する足はさながら棒であるかのよう。とっくに感覚なんて上等なものは失われていた。
しかし心臓だけは進めと鼓動を強めて訴えかけてきている。乳酸が溜まりきった身体に血潮を巡らせ意識を保ってくれている。
「A”A”A”A”A”A”……A”A”A”A”A”A”」
「ほうら暴れるんじゃない。クハハ、せっかくここまできたんだ最後まで付き合ってやるから……お嬢ちゃんもそのつもりでいてくれや」
そうやって襤褸雑巾のような身体でひたすら風上を目指しつづけた。
アレはもうすでに足下だ。あれだけ逃げたのに気配は真下にまできている。
剛山は頬まで髭を蓄えた口角を持ち上げた。
「どうした? 獲物を前に舌なめずりってやつかい? ここまで追ってきて気が変わったってこたぁねぇだろ?」
いる。今まさに足をつく地べたの下で大口を開きながらこちらを狙っている。
これは第六感なんて非科学的な動機ではない。実際レーダー越しに巨影が貼り付くように見ている。
とてつもなく巨大で、不可思議なモグラのようななにかがまさに真下で蠢いていた。
「A”A”A”……! A”A”A”A”A”A”!」
彼女は両手両足であろう節をばたばたさせる。
剛山はあやうく崩れそうになりながらもバランスを保つ。
「活性度がかなり高いか。ここ数日で1番といっても良い。つまりこの音がお嬢ちゃんを元気にしてくれてるってことだな」
ホォォン、ホォォォン。ずっとその音は聞こえていた。
「クハハ、それは俺もさ。この音がなけりゃあ俺はここまで生きられなかっただろう。つまりお嬢ちゃんと同じもんが俺を引っ張ってきてくれたってこった」
気丈に笑ってみせるも生気の抜けきった顔だった。
良くやったと褒めてくれる者はいない。ここまでやっても認められることはない。しかしそれでも前を目指す。
知るという欲求のみが生かしつづけていた。人に未来を残す一端を担えれば命さえ焼き尽くして仕舞いかねぬほど、彼は学者だった。
ホォォン、ホォォォン。数日前はあれだけ遠かった音がもうだいぶ近くにある。今や耳を澄ます動作すら必要ないほど聞こえつづけている。
「A”A”A”A”A”A”! A”A”A”A”A”A”! A”A”A”A”A”A”A”A”A”A”A”A”!」
音がするたびこの否定的な生命は木霊を返す。
枯れた声で虫が喚くみたいに鳴きつづけていた。
ホォォン、ホォォォン。ホォォン、ホォォォン。ホォォン、ホォォォン。
「っ!」
ふと剛山はよろめくようにして足を止めた。
「A”A”A”A”A”A”A”A”A”A”A”A”! A”A”A”A”A”A”A”A”A”A”A”A”!」
これではもはや絶叫だ。赤子が泣きじゃくる様と遜色ない。
この否定的生命は、音に対してなんらかの感情を高ぶらせていることだけは確かだった。
しかしもっと奥のほうに別の音が聞こえていた。
「…………?」
剛山は足を止めたまま耳を澄まして神経を研ぎ澄ます。
ホォォン、ホォォォン。それとは異なるもっと小さな音が混ざっている。
吹き荒ぶ風がこの星にあるはずのない別の音を連れてきていた。
「とう……ぁぁ……お……」
「はっ!? こ、この、声は!?」
聞き間違えるものか。たとえ幻聴であっても聞き間違えなかったという自信があった。
蒼をまといし瞳が確かに見ている。灰と砂礫の壁の向こう。もうもうと尾を立てながらこちらに向かってくる物体があった。
「とうさあああああああああああああああん!!!」
「ゆ、め――ッ、夢矢か!?」
父として見間違えるはずがないのだ。
いるはずのない息子が今こうしてこの死の大地にいる。
あろうことかゴールと見定めて目指す風上の側から2台のバギーがこちらに向かって滑走してきていた。
「ゆ、ゆめ……ゆめ……ゆめ……っ!」
視界を滲ませながら剛山は幾度と名を呼ぶ。
枯れたと思われていた水分がしどと世界に染み出す。
そして愛する息子に叫ぶ。
「こっちにくるなああああああああああああああああ!!!」
最後の力を振り絞って伝える。
その直後地鳴りが響いた。彼の足下がゴツゴツという隆起を開始したのだ。
足下が不自然なほどブロック状に盛り上がっていく。乾いた土に幾十という亀裂が入っていく。
「クゥッ!? ついにでてきやがったか!?」
あまりの唐突な地響きに立っていることさえ困難だった。
なおも地面の隆起がつづく。彼を中心として土をくまなく混ぜるみたいな回転が巻き起こる。
しだいに地の隆起は窪みへと変化していった。さらさらとした砂がすり鉢状の空洞を作り出す。
「…………A”A”……A”A”A”……」
「はっ!? 嬢ちゃん!?」
事態が急すぎて落したことさえ忘れていた。
剛山はより穴の中央へと流れ落ちていく少女を連れ戻さんと手を伸ばした。
しかしその手が歪な少女を掴むことはない。
『A”!? G”G”G”……』
少女の身体が貫かれた。
中央から伸びた幾数の黒い棘によって。幾度も、幾度も串刺しにされていく。
少女は口から黒い液体をぶくぶくと吐きながらしだいに手足の力を失っていった。
そして体が徐々に砂絵で描かれた渦の中央に呑み込まれていく。
「ッ!? バカヤロウオメェの狙いはソイツを連れって行った俺だっただろうがッ!?」
それと同時に剛山は烈火の如き怒りを滾らせた。
しかし少女はもう流砂の奥に消えてしまい声さえもう届かない。
「父さん早くこっちにきて! もう、もう大丈夫だから! こっちに戻ってそのまま一緒にノアへ帰ろう!」
「夢矢!? 逃げろっていっただろ!? こっちにくるなお前はこっちにきてはいけない!?」
伸びてくる愛する息子の手をとるには駆け上がらなくてはならかった。
しかしもうその気力も体力も使い果たしてしまった。
「父さん!! お願いだから手を、こっちに手を伸ばして!! 引き上げるから絶対に負けないから!! 父さんを連れて帰るって決めてるんだ!!」
それでも2人の距離は残酷なまでに開いていく。
あれほど求めた心の支えが目の前にいるというのに届かない。
手を伸ばせども流砂に吸い込まれていく。どれほどその身を這わせようとも圧倒的な力の差によって落ちていく。
「ぐ、ぐぐ、ハアアアアアアア!!」
「うあああああああああ!!」
父と子で互いに蒼をまといながら手を伸ばし合った。
しかし夢矢のいる場所の地面も間もなく滑落する。
このままではもう幾秒と経たぬうちに夢矢のいるところも崩れてしまう。
「うわわっ!?」
と、剛山の視界から愛する息子が消失した。
それどころか夢矢のいたはず場所には、見ず知らずの少年が佇んでいる。
「アンタが夢矢の父親で地質学者のおっさんか?」
「……ああ間違いない。クハハ、俺は虎龍院夢矢の父、虎龍院剛山だ」
剛山が応じた直後に蒼き閃が疾走した。
息子に伸ばしていたはずの手に別のなにかが付着する。
それは蒼く、少年の腕から伸びていた。
腕に帯びた流線型から一直線に伸びた蒼き光が、剛山の身体をゆっくりと引き上げていく。
「ミナトくん! なんかかなりヤバいことになってるから回収急いで!」
「さっさとこの場所から離れなさい! 夢矢のお父さんを回収したらバギーに乗り込んで!」
流砂の外から別の女性と思わしき甲高い気迫が響いてきていた。
どうやらこの少年を心配しているらしい。
「もっとやばいのがでてくる前にさっさと出てこい! 結局6時間も待たせやがって!」
そして剛山は、少年が伸ばした手を掴んだ。
「すまねぇなぁ! 恩に着るぞぉ!」
間一髪の救出劇だった。
あれだけ生に縋り足掻いていたにもかかわらずこれほど生きていることを実感したことはない。
なにより必死に足掻いたおかげで本当に生きていて良かったと思える瞬間が訪れる。
「父さん!」
「夢矢!? 本当にお前なのか!? だがいったいどうして!?」
夢矢は膝をついて動けぬ剛山の元へ転がるようにして駆け寄った。
そして2人はしっかと抱き合い互いの顔を確認し合う。
「まさかお前も7代目によって堕とされてきたのか!? この死の星に降り立ち捨て駒となるよう命じられてしまったのか!?」
もう会えぬはずだった我が子との再会だった。
しかし望まぬ再会でもある。地質調査にきたのは7代目総督による厳命なのだ。
そうなるとここにいる夢矢も同じ運命を辿った可能性がある。
「この星に根付かせることだけはさせん! 俺の命に代えてでもお前のことは絶対に方舟に返してみせるぞ!」
剛山は泣きじゃくる夢矢の両頬を両手で優しく包んだ。
そうやって幾度となくその愛くるしい顔を網膜に焼き付ける。
すると夢矢は嗚咽をあげながらふふ、と笑う。
「もう、心配しなくてもぜんぶが終わったんだよ! だ、から一緒に、平和になったノアに、帰ろう!」
「ぜんぶ……終わっただと?」
剛山は頭の中が真っ白になってしまう。
夢矢の言っていることも、彼が笑っていることも。全部が終わったと言うことのすべてが理解の外にあった。
そんな父の頬をそっ、と。子は父がしたように優しく両手で包みこむ。
「革命は、成功したんだ!」
「――なんだと!?」
ドクン、と。心の臓が跳ね上がった。
余りの衝撃に全身の筋肉が収縮し硬直してしまう。
「あー……感動の再会に水を差して悪いんだがつづきはあとやってくれ」
そして気だるげな声が響いた。
険しい表情をした少年は、姿勢低く構えながら1点を睨んでいた。
ここでようやく剛山も再会という浮かれから現実へと戻される。
「そ、そうだ!? あの子は、お嬢ちゃんはいったいどうなった!?」
鮮明に記憶を辿れば即死は確実のはず。
黒き槍によって体中を貫かれそのまま流砂の奥に引きずり込まれてしまった。
だが、剛山は流砂の上空に同じ姿を発見する。
「ッ――クハハ! そうか君と地下の存在の関係がようやく理解に至ったぞ!」
その存在を確認して確信した。
ここにきてようやくあの非道徳存在の実態が明らかになる。
「アレは貫かれたのではなく接続! つまるところ本体との再接続だったわけだ!」
探求者の瞳は少年の如き輝きを放っていた。
ずっと地下深くから追ってきていたものが地上へと姿を現わそうとしている。
大地を盛り上げでてきた超体積の物体から幾本もの触手が伸びは得ていく。そしてそのすべての先端が少女の身体に接続されていくのだ。
そうして黒きうねりは少女の身体を覆い尽くし、1つの紅玉へと圧縮を完了する。
「アンタいったいなんてもん連れて歩いてやがったんだ。この星にバケモンはもう足りてるぞ」
「そういうことだったか通りで振り切れぬはずだ! アレは俺らを追ってたんじゃなく彼女の一部だから追従していただけなのだな!」
「おいこら。おっさん話聞けよ」
空が朱色へと染まっていく。
そんな終わりの空を背景に、正真正銘の異形が顕現しようとしていた。
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