363話 空、透き通るほど透明な空に翻る、伝説の詩《Sky,Clear Sky》
知らない街の空気を肺いっぱいに吸いみながらゆったりとした歩幅で歩く。
急ぐ理由もなく、目的地も決めず。この船上甲板に建てられた街の音や匂いを覚えていく。
すれ違う人々、ネオンのゼリー、背の高い灰色の箱。あらゆる表情を感じながら、1歩、また1歩。味わうように足を進める。
足元に転がる石畳の感触さえも新鮮で、どこか遠い世界に迷い込んだような。ほど良く不思議な心地よさが満ちていた。
「あの、杏さん、ちょっといいですかね?」
「あによ?」
杏は、むっとしたように、ぷっくりと潤んだ唇を尖らせた。
不機嫌なんだか、それともそれが彼女の普通なのか。少なくとも現状を嫌がっている素振りはない。
それはともかくとしてとり巻く環境にミナトは不安と不満を感じている。
「なんか街の様子変じゃないですかぁ。なぜか通り過ぎる人たちみんなオレから一定の距離をとっていくように見えるんですがぁ……」
「そうね、かなり稀有な例ね」
雑踏が渦巻く大通りの縞模様の上を通り過ぎていく。
クラクションの音や雑多な人々の足音が絶え間なく響くなか。頭上の電子広告からはスピーカーが軽快なジングルを撒き散らす。
それでも不思議なことに、人々はまるで無意識のうちに互いの存在を感知しているかのよう。とある箇所からほんの数メートルぶんの間隔を空けて歩いている。
擦れ違いざまの視線も、言葉もさえ、交わされることない。ただ街のリズムに合わせて、機械のように避けていくのだ。
「オレもしかしてノアの民から怯えられてる……?」
この状況は、戦いが終わった勇者の受難を想起させる。
魔王を倒した勇者は、愛すべき故郷の国へ帰る。ここまでならハッピーエンド、バラ色の人生。
しかし魔王を倒すほどに強靱な勇者に安寧が訪れることはい。なぜなら自国含めすべての国にとって勇者は過ぎたる力をもつ者。もちすぎる者。
ミナトは通り過ぎる景色に仮想勇者の背を重う。
「はは。やっぱアザー生まれの良くわからないヤツが、あんなデカい化け物ぶっ飛ばしたとか普通に怖いよな」
もやもや、と。わだかまるモノを抱え黒い頭を掻く。
喧騒のなかにあって、孤立していた。誰にも触れず、誰にも触れられず、街が彼を置いて流れていた。
「革命のときも7代目艦長をボコボコにしてドン引きされたし、これじゃあさすがにもうとり返しつかないかぁ……」
「違うわ」
若干怒気を含む声に阻まれる。
杏は、ミナトの目を見てもう1度「違う」、今度は強めに繰り返す。
「あんた、やったのよ。正直、ここまでやるとは誰も思ってなかった。みんなが助かったのは事実、だから」
早口で捲し立てるみたいだが、途切れ途切れだった。
まるで壊れかけたロボットのよう。杏自身も言葉を選んで抽出しているような感じ。
「ノアの民はみんな感謝してる。誰もアンタを怯えない。あんなにがんばった人間が悲しむようなコトは絶対にあり得ないし、私が許さない」
最後は、照れも含みもなかった。
堂々と己をひけらかすみたいに胸を張り、僅かに顎をあげる。その表情には一片の迷いもなく、自信に満ちていた。
「わかったのならしゃんとなさい。猫背でもないのに背中丸めて歩くのは惨めに足が生えているみたいよ」
初めて見る少女の制服姿は、まるで別人のようだった。
いつものパラダイムシフトスーツのときより品があって、どこか優しい。なのにきりりとした印象をまとっていて、凜としている。
見ている者に自然と「この子がいうのなら大丈夫だ」と思わせるような、不思議な説得力があった。毅然とした姿も、胸元のタイも、袖の白いラインも、どこか眩しく見えてくる。
「杏はいつもオレに優しいよなぁ。もし許されるのなら頭を撫で撫でしてあげたいよ」
「? そう思うのなら撫でればいいじゃない? 強めじゃなければイヤじゃないわよ?」
ミナトの眼には、国京杏という少女の姿が、いま初めて鮮明に見えた気がした。
頭を仕向けられて誘われるままに、彼女の小ぶりな頭へ手を伸ばす。
すると杏も触れられる瞬間だけぴくっ、と肩を跳ねさせたが。すぐさま気持ちよさそうに目を細めた。
「オレなんかより全然強いんだなぁ」
「ソレ、全然いまのアンタにいわれたくないんだけど。それと、あとで絶対に第3世代能力の使いかたを教えなさいよね」
なでり、なでり。力を入れず梳くように優しく、愛でる。
杏の髪が焦げ茶色というのも相まって、ふっくら焼きたてのパンみたいな柔らかい感触だった。
「そういえばオレの家ってあの泊まってた個室でいいのかな」
「あそこは出張用か仮住まい用のテンポラリールームよ、ノアの各所に設営されてるわ。本格的に寝泊まりする場所を探すのなら管理棟にいってご覧なさい。アカデミーの寮や集合住宅、それに居住区画の1戸建てとか選択肢は色々あるから」
「アザーの石の小屋からはじまり、誘いの森のボロ小屋を経て、ついに文化的な生活かぁ。人生ってどう進むのかわかったもんじゃないなぁ」
「人を撫でながら遠くに視線を投げないでよね。アンタの場合は特殊すぎて半生を知ってる私でさえ少し引いちゃうじゃないの」
シックスティーンアイズとの死闘から24時間が経ったか、経たないか。
ようやく手にした平和には、どこか心がほどけるような。視界いっぱいの穏やかな日常が広がっている。
緊張や忙しさから解放された、心地よいひととき。使命も責務もない、本当になにもない、求めていた安穏とする日々だった。
「おーい! きょおっちゃーん! みーなとくーん!」
ふと呼ばれて振り返れば、ちょっと遠くの方で誰かが手を振っている。
やや離れた遠くのほう。街並みに馴染むまるで雑誌から抜けだしてきたみたいな長身の2人組がいた。
目が合った瞬間、2人はぱっと笑って軽やかに駆け寄ってくる。
「よう、おはよーさん昨夜はゆっくり眠れたか? 俺はテンションバチ上がりで無理だったぜ!」
2人組の正体は、快男児ことジュン・ギンガー、と。
「あーミナトくんってば杏ちゃんに起こしてもらったんでしょ! いいないいな私のところにも杏ちゃん起こしにきてくれないかなっ!」
ウィロメナ・カルヴェロだった。
2人ともが様式のある制服姿で、朝だというのに爽快な笑みを貼りつけていた。
奇遇にもマテリアルのチームメンバーである。こちらとしても無下にする理由はない。
「杏に起こしてもらったのは事実だけど。いま考えるとあれってアラームが鳴る前にきてるから――」
「余計なこといわなくていい!」
杏の肘鉄が「ぐぇっ」ミナトの脇腹に刺さった。
半年前の軟弱だった身体ならば致命傷だったかもしれない。
「おうおう仲良きことは良きことかな。相変わらず杏の世話になってんだな」
「オレどっちかっていうとけっこう自立してるぞ。朝とかも1人で起きてチャチャさんに嫌がらせしてたし……」
挨拶代わりに肩を組んでくる馴れ馴れしさもジュンらしい。
それを見つめながらウィロメナはくつくつ喉を鳴らす。
「杏ちゃんは意外とお節介焼き屋さんだから。たぶんノアに慣れてないミナトくんのこと見過ごせないんだよねっ」
「意外と、は余計でしょ。ここ半年くらい周りに気を揉まれすぎて辟易してたんだから」
半年ぶりに再会したとは思えないほど、チームは自然だった。
特別なことはなにもない。けれど、その何気ない時間がマテリアルというチームの小さな居場所となっているのかもしれない。
ミナトは、じゃれあうチームメンバーたちをよそに、目を細める。
「びっくりするくらいなにも変わらないんだな。街も、船も、みんなも」
たった半年、されど半年。
しかし高水準の宙間移民船は、半年前とそれほど変わっていなかった。
悩みも焦りも一瞬だけ手放し、いまこの瞬間に置く。目を閉じて深く息を吸うたび清浄な空気が肺に満ちて、穏やかさが心を包んでいく。
「1番変わったヤツがなにいってんのよ。しかも防衛に使われた別の居住区画とか廃墟同然なんだからね」
杏が目尻をキツく引き絞った。
その横でウィロメナも「ほんとそうだよ」と、声のヴォリュームを1段階ほど上げる。
「ミナトくんが全然変わっちゃってて私びっくりだもん。どれだけがんばったらそんなに体型変われるのかなぁ」
「前はぺらっぺらの身体でいまにも折れそうな痩せた枝みたいだったじゃない。いったなにがどうなったらそんなバッキバキになれるのよ」
異世界に渡ったのはここにいる男性陣のみ。
女性陣は、あのルスラウス大陸世界の存在なんて夢にも思うまい。
無論、渡ったはずのミナトでさえ、あれは夢だったのか、と。目覚めたあともなお胸の奥に残る温もりに戸惑う。
しかし確かにあそこには世界が存在した。御神の創造した様々な種族の暮らす素敵な世界が。
「こっちの世界に残ったみんなにお土産話が山ほどあるんだ。だから信や愛も呼んでチーム全員が集まったらぜんぶ話すよ」
「そうだな、でも少しだけ長くなるかもな。せっかくならノアブレンドのコーヒーで舌を湿らせながらにしようぜ」
話したいことがいっぱいあった。
聞きたいこともたくさんある。
仲間うちで共有し、笑ったり怒ったり驚いたりするのも悪くはない。
「それにしれもどっから話したもんかね。そうそう信じられる話じゃねぇもんなぁ……」
ここからはじまる。
これは予感ではない。
なにかが確かに大きな音を立てて動きだした。
人々の胸の奥で、静かに、しかしはっきりと鳴り響く。
風がページをめくるように、日常が少しずつ形を変えていく。
もう戻らない、と。いまの人類には踏みだす勇気がある。だから光あふれる航路を目指して前だけを見つめている。
小さな希望が、呼吸するたび、胸のなかで大きくなっていく。
でも大丈夫、始まりはいつだって少し怖くて、美しい。
そしていま、ここにいる。
ちゃんと、生きてる。
チーム全員が、誰1人として欠けることなく。
「まずはそうだな。それじゃあ――……生まれてはじめて透き通るほど透明な空を見た話からはじめよう」
Sky,Clear Sky.
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