362話 新しい生活へ《For Tomorrow》
瞼を薄く透かし、カーテンの隙間から見慣れない角度で光が差しこむ。
ほんの少し違う匂いのする空気、枕の感触も、窓の外の音も、どこか他人行儀な感じがする。
身体がなじみきらない。新しい部屋、新しい朝。少しの不安と、少しの期待が、まだ上手く混ざりきらずに、のらり、くらり。
精神的に疲弊しているはずなのに、身体のほうはやけに元気な気がする。だからやることもないけど少し早起き――なんてするつもりは微塵もない。
「あ”~……」
そもそも三文の徳とはいったいなんだろう、、と。
少量の成果より睡眠という3大欲求を優先したほうが実りも多いだろ、と。
決めた、2度寝しよう。ミナトは朦朧とした意識で白い清潔なシーツを被り直した。
微睡みに身を任せ再び甘い闇へと意識を投じる。その直前だった。
「……お……よ……」
声がした。
それからこちらに足音が近づいてくる気配もあった。
辛うじて保てている脳が自動で処理を開始する。気配は1つ、声の主だろうか、高い音だからおそらくは女性である。
「ま……さっさと……さい」
誰かに起こされるのは、いつ以来か。
ミナトは微かに残る意識のなか、どこか懐かしい心地よさを覚えた。
昨日はなにをしていたんだっけ。そうだ、助かる人間とそうではない人間を区別した。
ジュンの父親は酷く泣いていた。いい年をしたおっさんのしゃがれた泣き声は不快だった。なにより忘れかけていた罪悪感のようなものが奥でチリチリと疼いた。
そういえばディゲルがなんかいってたな。Bキャンプとの連絡がとれなかったとか。あのへんは元々アズグロウの生息地に近い。ノアへのスコアを気にして無理に拡充したんだから。たぶんもう生存者はいない。
でも死体くらいは回収してやらないと。それくらいしかもうしてやれること、なんて。誰か生きていたらいいな、いや希望をもつのはやめておこう。だっていつも……――……。
胡乱な脳裏に、焦げ付く記憶が、ぐるぐる、と巡っていく。
――よし、今日はプランPでいこう。昨日のプランBは少し刺激が強すぎたからな。
作戦は決まった。
あとやることは簡単だった。なにしろ相手は警戒もなく油断しきっている。
下地が整えば実行あるのみ。1歩、また1歩と。不幸な足音が射程に入ってくる。
「油断しましたねェ! おはようございますインザチャチャさんプリティショーツ――」
ミナトは、シーツを弾き飛ばす勢いで跳ね起きた。
ついでに重力に従うそのやわらかな布きれを思い切り捲りあげる。
一瞬、まるで部屋中の酸素が天井に張りつくように突風が暴れ回った。落ちていた裾は逆しまになってチューリップの如く上へと吸い付いてすべてを晒す。
「……んあれぇ?」
それとは別にミナトは肝心な違和感を覚えた。
強すぎる。これではそよ風というより暴風ではないか。
「……。ひとついいたいことがあるんだけど」
首筋にナイフを突き立てるが如き冷ややかな声だった。
耳からの情報もさることながら細まった視線もゴミを見下すかのよう。
刹那にミナトの寝ぼけた脳へ血流が回って現実に引き戻される。
なんか違う。たぶんだいぶ、激しく。それも、かなり。
アザーではじまる朝だったはず。なのにここはいったいどこだというのか。
部屋のなかを見渡してもの状況の即時把握は難しい。見慣れぬ天井、知らない匂い、知らない空気。どこだここ? 頭が回らないまま、心臓だけが早鐘を打つ。
「確かに油断はしていたし、起き抜けに攻撃されることを予測していなかったわ。スカートをめくられたことも含めてそれらは私の油断という落ち度であると、 辛 う じ て 認めてあげる」
しかも見上げる先に杏が佇んでいるではないか。
暴風によって御髪はさんざんな乱れ方をしていた。
「えっと、チャチャさんは何処へ?」
「少なくともここにはいないわよ。それと私の名前はチャチャじゃないことくらい気づいているわよね」
ミナトにもようやく実感が湧きはじめる。
ここが過去ではなく現代であると気づくころには、もう遅い。
そこにいたのは愛らしい同居者ではなかった。日常のセクハラする対象がすげ代わっている。
つまり、寝ぼけた上で、ミスったというヤツ。
「せっかくのすがすがしい朝なのだから挨拶は大事だと思わない? ほら、目が覚めたのなら私になにかいうことがあるわよね?」
「杏さん、本当にありがとうございます」
「おはよう、そしてごめんなさいでしょうがぁ!」
轟雷が鼓膜を貫き脳を揺らした。
パラダイムシフトスーツならともかく本日の杏は、よりにもよって違う姿だった。
アカデミーの制服だろうか。上に紺色のブレザーを羽織っている。さらにインナーは白のワイシャツ。優雅に孤を描く胸元にはネクタイが占められている。
そして膝にかからないほどの丈の短いスカートからは、すらりと白いおみ足が伸びて、ソックスを履いていた。
「このさいだからスカートをめくられたことなんてどうでもいいわ!」
「どうでもいいの!? そこって乙女的に1番大事なところじゃないのかぁ!?」
「でもフレックスを暴走させのだけは許さないわ! 能力を感覚でなんとなく使ってる証拠! そうでなくてもアンタのはバカになってるんだから発動には気を使いなさい!」
ビシッ、と。ミナトの眉間に指が突きつけられる。
「もしその第1世代能力を付与した手が本当に大切な人に当たってご覧なさいケガどころじゃすまないかもしれないのよ!」
杏は、怒り心頭の模様だった。
ツヤツヤの髪、つぶらな瞳、年のわりに小さな体。けれどいま、彼女の瞳には怒りの炎が燃えさかっている。
頬をぷくりと膨らませて、腕を組みながら「ぷんっ」と唇を尖らせる。その姿は、まるで怒った子ウサギが全力で抗議しているかのようだった。
「バカってひどいなぁ……。気をつけるからそんなに怒らないでくれよぉ……」
とはいえこちらに10の否があるのは明らか。
ミナトはしゅんと項垂れる。流動生体繊維を浮かす丸い肩をすくめて背を丸くした。
「人類を救った力なんだからヘンなことに使わない。能力をきちんと使いこなせるようにすることがいまのミナトがやるべきこと」
わかった? 声は落ち着いていた。
しかしトーンと目つきは、本気で叱る母のように芯を得ている。
「寝ぼけていたとはいえ大変申し訳ありませんでした。杏さんのありがたい説法を心に留めよりいっそうの精進を心がけることを誓います」
よろしい。ところで――
説教の終わりかと思わせて、杏は、つづける。
「私あまりこういうの得意じゃないのよね? 男子の喜ぶ反応って良くわからないんだけど、か細い悲鳴でもあげたほうがいいのかしら?」
「え? いまなんて?」
思わず素で聞き返してしまった。
怒られるかと思いきや。まさかの真面目な返答に頭が追いつかない。
しかし杏は思慮するように腕を組み、唇を尖らせている。
「生きるために必死だったし、そういう色恋沙汰が本当に良くわからないのよ。他の子たちはガス抜きが上手だからか色々と知ってるみたいだけど」
叱責の嵐どころか真面目だった。
ミナトは、不可思議な違和感を彼女に感じつつ、恐る恐る口を開く
「もしかしてだけど……パンツ、スカートをめくられたことに抵抗とかない?」
「もちろん他人とか街中ならなんとなくイヤよ?」
「……なんとなく?」
「それに相手がアンタだし別に気にするほどのことでもないでしょ」
互いに見つめ合いながらちょっと悩む。
なんともいえない微妙な2人の間に空気が漂っていた。
なんというか、些細な意識のズレが生じているような。噛み合わせが合わないというか。
考えてみれば杏は、天上人。地上人であるミナトとは言葉通りに生まれが異なっている。
「はは。杏のなかでオレってどんな立ち位置なの、かな?」
「そうね、そのへんハッキリとさせておいたほうがいいかもしれないわね」
いままでこうしてノンビリ語り合う機会がなかった。
革命に異生物との戦闘。環境が許さなかったのだ。
だからミナトは緊張しつつ杏の言葉を静かに待つ。
「えっと、ミナトはチームメイトで、私の所属するマテリルというチームリーダーで、命の恩人で……」
上目がちに見上げて、指を立てては、ひとつ、ふたつ。
空に浮かぶ見えないなにかを、彼女だけが数えていく。
「あとは、結婚してもいいと思っている相手……くらいかしら?」
かしら?
かしら?
かしら?
杏の声が幾重にも重なってミナトの脳内を反響する。
そして数秒の停止を経てようやく時が動きだす。
「結婚!?」
「っさいわねぇ……なんなのよ朝っぱらから大きい声なんてだして」
杏は迷惑そうに耳を塞ぐ。
だがそれで取り返しがつく状態ではすでにない。
「い、いま、けこけこ、けっこん、っていいましたァ!?」
「そんなニワトリみたいないいかたしてないわよ……あとなんで敬語?」
ミナトの意識は冷静ではなかった。
年ごろの愛らしい少女が唐突のプロポーズ。
これほど衝撃的展開を迎えて黙っていられるものか。
「だってそれ、恋愛とか恋人とかになって甘酸っぱい青春のはじまりぃ~、とかぁ!? 初めてのデートでいったいどっちから手を繋ぐのぉ~、とかぁ!? キスしたら鼻が当たらないのかしらぁ~ん、的なモノぜんぶ省略してるじゃん!?」
「なんなのよその古っ臭いB級少女漫画でありがちな展開の羅列は。アンタの頭のなかいったいどんな……――あっ、そっかそういうこと」
得心がいったように、うんうん。
杏は手皿を打つと、ミナトにずいと詰め寄る。
「よく考えたら良くも悪くも広い世界に生きていたという弊害が起きてるわ。アザーで暮らしてノアの知識がないんじゃしょうがないといえばしょうがないことよ」
「弊害? なにをいってるんだ?」
ミナトは焦りつつもいったん冷静になった。
もしかして言葉の齟齬、こちらの一方的な勘違いという線も考えられる。
というか杏があまりにも日常だったから。結婚を申しこむような空気感ではまったくなかった。
「アンタは2回も人類を救っただけじゃなくて、シックスティーンアイズを討伐し、現状最強のフレクサーという証明をしてみせた。それはもうノアの民全員が瞼を閉じても憧れ焦がれるほど、強く記憶へ刻まれてしまうほどに」
聞くところによればあの死闘は生放送されていたとか。
つまりあの死闘はノアの民にとって周知の事実ということになる。
しかしこちらもバカではない。杏がなにを伝えたいのかくらいわかっていた。
「つまりいまのオレはノアの民に超絶モテモテってことだな!」
「そのレベルですめばいいわね」
斬り伏すつもりが、返し刀だった。
無駄にいい声でいったものの杏からは、さもありなん。
彼女はまったく動じた様子もない。そのうえでミナトを試すような目で見つめていた。
「で、でも男としては喜ぶべきだよな。うん、オレにもとうとう春が――」
「もし今日外を出歩いてご覧なさい、街中で求婚されかねないわ。ハッキリと意思表示しなくちゃ明日には家族が増えるわよ」
「そのレベルなの!? 女性が肉食過ぎないかノアの民!?」
ミナトはぎょっと目を剥いて、杏を見つめ返した。
「あといっておくけどノアという隔絶された世界では、婚約という契りは契約ていどの扱い。後生を残すことのみ優先する場合も少なくない。私の言ってる意味分かるわよね?」
ミナトの知っているのは、淡い恋愛ていど。
こちらの常識は古式豊かなホロコミックと、男性恐怖症の少女と暮らしたくらいなもの。
しかし杏の語るノアの常識は、タガが外れていた。逸脱していると言い換えてもいいほどに。
「あらためて、マテリアル1。ようこそ平和な宙間移民船ノアへ。私たちノアの民は全身全霊をもってミナト・ティールという最強の新世代を歓迎するわ」
はじめてみせる蠱惑さだった。
杏は仰々しく礼をすると、蜜色の微笑を傾ける。
「し、新世界……」
新しい生活のはじまりだった。
夢にまで見た地に足のついた生活。ノアという天上への階段をついに踏みしめる。
が、雲行きはかなり怪しいものとなっていた。
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