343話 祭りの痕《She》
空っぽだった。
耳の表面に膜が張ったように音さえ遠くにある。
勝利のみを求めていた。この半年間ずっと勝つためのみを見据えて生きてきた。
マナの途絶えた花園は消失している。砂上には楼閣のみがみすぼらしく残されている。
「誰か! 誰かミナトくんにヒールをかけてあげて!」
「っ、わかった!」
闘技の敷居は閉幕とともに崩れた。
雪崩れこむようにして救世主たちが舞台へと降りてくる。
ヨルナが彼の背を支え、エリーゼが治癒魔法を施す。
「意識はあるね! 脈は速いけど呼吸のほうは落ち着いてる!」
「攻撃を受けていないのに全身が悲鳴をあげてるみたい……手のひらの皮なんてほぼ残ってないようなもの」
あまりの惨状だった。
力なく横たわる儀礼剣の持ち手部分は、赤黒い。砂の混ざった血の染みがべったりと張りついている。
肉体がオーバーヒートしているからか、濁流の如き汗が止まらない。まとまった前髪の先からしどと滴が滴りつづけていた。
エリーゼは、治癒を施しながら眼帯のない側の目を細める。
「よく最後の瞬間まで剣を手放さなかったと褒めてあげたいところだけど、我武者羅。ちょっと引く」
「それだけ本気で流を倒そうとしていた証拠だよ! しかもあの剣聖リリティアをあそこまで追い詰めたんだ!」
ヨルナは熱意を瞳に宿し胸の前でぐっと拳を突き上げた。
友の功績を語る舌はさながら滑るようになめらか。
彼をとり囲む救世主たちは口々に賞賛で讃える。
よくやった、がんばった、評価に値する、自分より強い、さすが、えらい。雑多だが嵐のように轟いていた。
だが、それら賞賛の枕には、敗北の2文字が隠れている。勇敢さを讃える声のなか、たった1人のだけ、溺れていない。
その証拠にエリーゼは治癒魔法の逆行に「追い詰めた……」と、言葉を濁らせた。
「……オレは負けた、のか?」
自問自答、自責の念。
力もなく吐息を吹く。幾度と呪詛のように繰り返す。
闘技の場にへたりこむ。背は丸く、様相は雨風に晒されるかの如く侘しい。
やれることはやり尽くした。やり尽くしてなお頂点を目指した。半年という制限付きのなか全力で生きた。
しかししょせんは仮初め、蝋の翼。高所を飛びつづける龍に手を延ばしても溶けて朽ちて墜ちるのみ。
「っ、う”……ぐぅ”、あ”……」
やがて理解に至る。
己の矮小さを自覚したとたん嗚咽が喉を通り過ぎた。
だが泣く価値すらない。ここにいるのはみすぼらしい敗残者。
敗者そのもの。背を丸めながら頭を垂らし地べたに額をこすりつけ、しゃくりを上げる。
「ディげる……チャ、ちゃさん……しんっ……!」
思い出のなかは温かかった。
現実が冷酷であればあるほど鮮明で色鮮やかに見える。
「おれは……! おれは、も”う”……!」
帰れない。
助けられない。
ともに未来を歩めない。
悲しみを吸った砂に拳が振り下ろされた。
「……ミナトくん」
ヨルナは眉に憂いを描く。
そっ、と。手を延ばそうとして別の手が横から制する。
「こりゃなにもいえねぇよ。いまはなにをいってもコイツにはどこにも響かねぇ」
敗者への侮辱も侮蔑もない。
ルハーヴは真剣な眼差しで嘔吐き震える声を聞いていた。
それを見てヨルナもまた延ばしかけた手を下げ、握り締める。
「どういう結果に終わればみんなが幸せになれたのかな?」
「そんなものははじめからなかったのかも。はじめから決められた道に流されていただけ」
エリーゼがぬいぐるみを抱きしめると、救世主たちも口をつぐむ。
世界の中心を囲うように涙のほとりを眺めつづけていた。
勝敗が決したにもかかわらず祝杯のひとつもない。ただ、無。虚無というなにもないが棺の間を包む。
そして白い太もも交互にすりながらしなり、しなりと歩み寄る影がある。
「テメェの権利は最低限だが尊重してやる」
レティレシアは、血色の大鎌をびょう、と振った。
馬爪のヒールを止め、石突きで地を抉りながら立ち止まる。
「だが誓約は遵守が絶対だ。決闘で負けたからには神羅凪の頁とともに余の所有物となってもらうぜ」
淡々と述べる声に抑揚は皆無だった。
感情のない瞳が敗者を見下す。なのに笑みのひとつも咲きはしない。
真っ当だった。これは誓約という規律の上で成り立った正式な試合なのだ。
儀礼を用いて神にへと誓いを立てる厳かな決定。もし粗末に拒否すれば世界への冒涜となりかねない。
レティレシアは飽いたようにリアーゼのほうへと視線を逸らす。
「その他の人種族の保護は継続しつづけんだろうな?」
「ええ。エルフ国、ひいてはエーテル国がその儚き生涯を終えるまで責任をもって守護することを誓います」
目配せを受けて、テレノアとザナリアも大きく首を縦に振った。
もしここで誓約に端を吐こうものならすべてに否が生じる。
そうなれば東たち残留が決定した面々にだって被害が及びかねなかい。
つまりミナトにこの決断を覆す術は、たとえ世界が裏返ったとして、なにもなかった。
「想定は超えてきたが道理は揺るがねぇ。これが餓鬼の夢ではなく現実ってヤツだぜ」
受け入れるのみ、盤石たる一択。
「さあオメーらも見届けたのなら棺に帰れってんだ。余の温情で結末を見るまでは現界を許してやったんだからマナの無駄はもう許さねぇぞ」
狂宴の終焉を奏でるように大鎌が空を裂いた。
レティレシアは、宴もたけなわとばかりに、馬尾のような結い髪を踵を返す。
救世主たちもまた主の号令に従う。ぞろぞろと一族郎党、身を翻して決闘の場を後にする。
「ちょっと待ってください」
するとそこへ意外なところから歯止めがかかった。
場を去ろうとしていた一党らは、その声に後ろ髪を引かれ、一斉に振り返る。
「やはり誓約決闘ということですから平等なる採決が下されるべきですよね」
者どもの視線の先に立っているのは、世界の最強の剣士だった。
リリティアは、あれだけの戦いのあとだというのに息ひとつ乱していない。どころか戦闘開始前と背格好なにも変化が及んですらいない。
しずしずと生白い足を交互に繰りだす。リボンを巻きこんだ大きな三つ編みが尾のように揺らぐ。
「それなのに有耶無耶のまま終わるのは神への冒涜ではないのでしょうか?」
「テメェの役割はとっくに済んでんだよ。それとも余から慰労の言葉でもかけて欲しいってか」
レティレシアは舌打ちでもするかのように美貌を歪ませた。
いまさらなんだ。勝負はついた。時間の無駄だ。彼女の心情を読むのは容易い。
だが、リリティアの不敵な笑みが一瞬だけ世界を横切る。
「私のスカートのここ、ほんのちょっぴり解れちゃってるんですよね」
短尺のスカートをくい、ともちあげた。
彼女のいうように裾の生地が微かに解けている。
「あ? んなもんテメェの鱗で作った勝負着だろうが? とっとと自分で直せば良いだ――……」
ぴたり、と。言いかけたレティレシアの動作が静止した。
それから2秒ほどの秒針を刻みながら重々しく牙の零れる唇を再度開く。
「……剣聖テメェ、この期に及んでなにがいいてぇ?」
地を割るように低い声だった。
前髪の向こう側で血色の瞳が煌々と鋭さを増す。
そんな殺気めいた視線に晒されても最強は意に介する様子さえない。
「せっかく新調した勝負服だったんですけど、ミナトさんのせいで解れちゃったんですってば」
リリティアはちょっと怒った感じに片頬を膨らす。
ぷんっ、と。女性らしく丸い、それでいてくびれた両の腰に手を添えた。
「だからなにを喋りてぇのかもっと真っ直ぐに話せってんだ! これ以上くだらねぇ時間引き延ばして余の時間を浪費させるんじゃねェ!」
「だーかーらー。私の着ている服に剣を当てたんですよ、彼は」
音の響きが引くと同時に鎮静が訪れた。
場の全員が眉をしかめている。王も、救世主も、巫女でさえ時を静止させる。
やがて押し寄せてくるのは、激情の暴発だった。
「ッッッ!?! ハメヤガッタカアアアアアアアアアア!?!」
まさに驚愕と憤慨の2色同時だった。
阿鼻叫喚たる叫びが闘技の端々にまで響き渡った。
だが、いっぽうでは鼻歌でも奏でそうなほど、精錬としている。
「ハメるだなんて龍聞きの悪いこといわないでくださいよ。あんな見たこともない攻撃ばかりをこのていどで済ませたんですから慰労の言葉くらいかけてほしいです」
「テメッ、ざけんな!! んな御託がまかり通るわけがねェだろがァァ!!」
レティレシアは鬼の形相だった。
しかもがに股の大股でリリティアへと詰め寄っていく。
もしミナトの剣が彼女に当たっていたとなっては、世界と結果が裏返ってしまう。
それは無論、彼女にとってもっともあってはならない結末だった。ゆえにトチ狂ったようにリリティアへ唾を飛ばし、怒鳴りこむ。
「いつだアアアア!! どの攻撃でかすめたアアアアアア!!」
「初撃ですっ♪」
「やっぱはじめから仕組んでんじゃねぇかコラアアアアアアアアアア!!!」
リリティアは、憤るレティレシアをはらりと躱す。
すると声を殺しながら地べたにひれ伏す敗者の隣へ膝を据える。
「いちおうの保険はかけておきましたけど白状するつもりはなかったんですよ。それでも剣より覚悟のほうが私の心に響いたんです」
そっ、と。手を触れ猫をあやすように汗塗れ、寂れた背を慰めていく。
とても剣を握っているとは思えぬほど温かく、優しい手だった。
だが、そうは問屋が卸さない。主催にとって結果は必然であって覆って良いものではないはず。
その証拠にレティレシアは歯がみしつつも牙を剥く。顔中を中央に集めるみたいに険を寄せていた。
「服にかすめたていど認められるわけがねェ!! 1撃受けるってんならせめて肉体に触れてはじめて有効とすべきだろうがァ!!」
端を発するべくして端を発す。
1撃を受けたら勝敗という定められた道理だった。
それが衣服にかすめたていど、当然納得がいくはずもない。
だがここで小さな影が横切る。ミナトとレティレシアの間で両手を広げて壁のように阻む。
そしてさらに親龍が奮闘する子龍の横へと陣をとった。
「龍族のまとう衣服は鱗を自在に変化させたものだ。無論白龍のまとう衣装もまた己の鱗であって肉体の一部。そうなると理屈は通っているということになる」
龍王ディナヴィア・ルノヴァ・ハルクレートだった。
さらにはあれほど恐れたいた母とともにモチ羅さえもが居並ぶ。
「みなと!! 勝ったんだもん!! 勝ったんだもんっっ!!!!」
幾度も、幾度も、幾度も。
幼く短い舌でモチ羅は、涙を払う。
その姿は我が儘を言う子供のよう。母の隣で同じ言葉を叫び、繰り返しつづけた。
そんな姿を横目にディナヴィアは、火炎色の大翼をわあ、と広げる。
「倣いであるがゆえ我も同調す。彼の者の牙は勇猛で果敢。確かに我が同胞の肉を裂いた」
(区切りなし)




