338話 悲劇《Cross Edge》
あれから幾ほどの技を見舞ったか。
「……ダメだ」
遠い、あまりにも遠い。
目標は地平線の向こう側より遙か彼方にいる。
「キミじゃ勝てないんだよ……世界の理に反することは不可能なのと同じ……」
希望なんてはじめからなかった。
きっと人は想定できる限界まで備えたはず。
なのに、それでも圧倒的に足りていない。
「オオオオオオオオオオオオオ!!!」
再度咆吼を携えて剣を構えた。
呼吸さえ整わぬうちに攻めを敢行する。
時間は有限。しかも気分屋が時計をもっているときたものだからたまらない。
きっとこのときのために磨いてきたのだ。目の前にいる巨大な壁を超えんと奮ってきた。
だからやれることはすべてやり尽くした。少年の身体はすでに師から教わった体捌きを熟知している。
「なん、で」
だが、振り下ろす剣は再び虚空を横切った。
現実は、かくも厳しい。すでにリリティアは彼の行動になれてしまっている。
すでに息が上がって肩を激しく上下させ喉を削るように呼吸を刻む。相手を睨む闘気さえ霞み、立っていることさえままならぬ。
一方的な攻め。動きつづけているのは彼のみで、リリティアは最小限の動きしかしていない。そのため片側の疲労の蓄積が顕著だった。
とうに人の子の動きは鈍く、最初ほどのキレを失っている。
「こうなることがわかってたのに……僕は友だち失格だっ! なんで、見えない光を必死に掴もうとする彼を止めてあげられなかったんだ……!」
砂まみれの友を映す黒い瞳が滲んでいく。
ヨルナのなかで後悔の念が臓腑を焼くかのようだった。
誰もここまで望んでいない。人が勝利することを誰もが願っていない。こんなのはただの晒し者でしかない。
震えるヨルナの華奢な肩へと、剛胆な鉄腕がそっと置かれる。
「オマンの認めた男が男見せちょるんじゃから目を背けるんじゃねぇや」
「でもっ! でもぉ……っ!」
師の言葉がきっかけとなって涙がほろほろ零れた。
ゼトは、とっぷりと吐息を吐いて白い髭をたなびかせる。
「アヤツはようやっちょる、想定を遙かに超越してのう」
血の通わぬ鉄の手が弟子の小さな頭を静かに撫でた。
剛気ではない繊細な指使い。太くガラついた喉もいまばかりは慈愛を奏でる。
「聖剣の聖騎士がここまで通した理由がわからんでもないわい」
「でもはじめから他種族が龍に叶わないなんてわかっていたことじゃないですか!? なのになんで、晒し者にさせるために、いったいどうして!?」
「オマンは鍛冶しかせんで弟子もとらんかったからわからんじゃろな。逆にワシはオマンを含めて多くの弟子を育てたからこそわかるってもんよ」
ほうれ。冷たい胴色が舞台を指差す。
全身に汗を滴らせ余すことなく砂にまみれる。とてもではないがまともな戦いではなかった。
それでも人の子は挫かれてもめげずに喰らいかかっていく。
諦めを知らない、馬鹿一徹。剣を握り前にのみ猛進する。
「力の差は誰の目から見ても歴然です! あのミナトくんの剣じゃ剣聖には絶対に届かない!」
「ほうかのう? ワシの眼にはちゃあんと届いておるように見えよるぞ?」
「……届いてる? なにを、っ!」
ふと、ヨルナの舞台を見下ろす眼が瞬いた。
異変に気づく。人の子のほうではない。相対する剣聖のほうにある。
「笑ってる? それもあんなに楽しそうに?」
剣聖の表情には1輪差しの如き花弁が広がっていた。
それは誰の目から見ても喜びの感情を示す。
目はキリリと冷淡なのに、剣を受けるたび両方の口角を上げ、笑む。
「そう、そうです! もっと本気で振り抜くんです!」
「っ、オオオオオオオオオオオオ!!!」
指導するような口調に弾むような思いが乗っていた。
まるで舞踏を踏むかのよう。くるり、くるりと白い脚を交差させスカートと金の三つ編みを翻す。
「私の剣技を漫然と真似るだけではダメですよ! 私の技を踏み台にアナタの力で人の武技へ昇華させるんです!」
この一瞬の積み重ねが人の天命を左右する。
なのに彼女のほうは活き活きとしているようにさえ見えた。
ゼトは胴色の腕関節をきゅらきゅら軋ませる。
「あれほど楽しそうなリリィを見たのは幾百以来か。思う存分に晴れ晴れとしておる」
蓄えた白髭を上から下にしごき、しごく。
岩盤の如く角張った尻を硬い石に据え、恰幅の良いがたいを沈めた。
「リリィはいま大陸でもっとも幸せモンじゃろうよ。己に追いつこうとする弟子の成長をその身に刻みつけてちょる真っ最中じゃかんな」
成長度合いでいえば目を疑うほどと評していい。
指導の質が良かったということもあるだろう。しかしたかが半年足らずであの領域に踏み入れる者は、そういない。
人の子の力はいまや同種同族はおろか他種にまで及ぶ。決して舐められるような貧弱さは皆無となっている。
「さらにいうなら人の子の教わった剣技はリリィがオリジナルで仕上げた龍の剣技じゃ」
「剣聖のオリジナルの剣技……つまり、世界最強の剣士の型……」
「そんな世界でも類を見ぬ同型で弟子が育ってくれたとなりゃ可愛くてしかたなかろ。雄々しき叫びは己の腹を痛めて産んだ赤子の産声を聞くのと変わらん」
こちらの師弟で語らっている間にも剣戟が止むことはなかった。
まさに息つく間もない猛攻。あらゆる攻撃が1本の線で結ばれたかの如き乱打がつづく。
対して剣聖側も一切の隙を見せることはない。弟子の攻撃をまるでハエを払うかのように捌いていく。
本気と本気を見紛うものか。疑いようのない勝ち気と勝ち気が鍔迫り合って鎬を削る。
「まるでみずからの命を削るような剣……! はじめからいままでのすべてが必死で全力……っ!」
ヨルナは無意識に膨らみの前で拳を作っていた。
豊かな胸の奥底へ微熱が浸透する。全力で猛る友の咆吼にくらり、という目眩を覚えてしまうほど。
武と武の祭典。否応なしに魅了される。頂上の舞台に観客たちは言葉を喉に詰まらせるしかない。
そんななか銀燭の瞳が憂いを秘めて舞台を見下ろしている。
「このままではっ! 半刻もしないうちに体力が尽きてしまいますっ!」
「ええ。これほど攻めているにもかかわらずそのすべてが不発に終わっています。つまり剣聖様の鉄壁の布陣に為す術がないのと同義です」
テレノアは落ち着きなく焦りを滲ませていた。
ザナリアのほうは固唾を呑みつつも、冷静に戦況を推し量る。
そして彼女たち王の側面には聖剣が備わっている。
「……ふぅん? 本当にそんなものなのかしら?」
横顔は、凜として崇高。
美と技というすべての武が羨む2つを兼ね備えた美貌だった。
そんなフィナセスの元へ、アクセナが大股に詰め寄る。
「やいやいやいっ! なに高を括って観戦決めてやがんだー! 気を使ったリリィを裏切っておいてよくのこのこ顔をだせたなー!」
舌っ足らずの甘い声だが輩の足どりだった。
メルヘンチックな軽いスカートを蹴りつけて座席の上に踵を落とす。
そうして観戦しているフィナセスを横からじとり、睨みつける。
「オメェも聖剣とか呼ばれてんのなら剣聖の凄さくらい知ってんだーっ! 天が地にひっくり返っても誰にもアイツは超えらんねーっ!」
「…………」
「こんな茶番を止めたかったのは人の子のためだってことくらいわかんだろがーっ! どっちもリリィもアイツもどっちも可哀想なことになってんだーなっ!」
絡まれてなおフィナセスは沈黙を貫き口を閉ざしたまま。
銀色の視線は、舞台から逸らされることはない。ただ透明で、曇ることなく。まさに一心といった具合だった。
そしてしばし間を開けてからようやく彼女は口を開く。
「彼にはここから先があるの」
「なんじゃと?」
ゼトが眉先をひくりと動かす。
しかしフィナセスは目を逸らすことすらしない。
それどころか前のめり気味になって闘技の行方を追っている。
「ここまではおそらく剣聖様へ挑戦していただけ。育てと剣の相伝をしてくださった白龍リリティアへの感謝を伝えているのよ」
「まさか……まだミナトくんは本気をだしていないってこと?」
「ううんそれは違うきっと彼はいまもずっと全力で戦っている。1秒たりとも手を抜いたことなんてない」
とんちんかんで要領を得ない。
これには問うたヨルナも小首を傾げるだけだった。
盤上では気勢が轟きつづけている。しかしすでに結果は明白となっていた。
その証拠にあれほど活気づいていた救世主たちも頬に興奮を残すのみ。場は平静をとり戻して繰り返されるのみ光景を眺めている。
「――ケッ。仕舞いだ仕舞いだ」
そしてついに大山がいまようやく動こうとしていた。
牛爪を模したヒールがこつり、こつり。刻限を告げる秒針の如く岩を打つ。
「想像以上には頑張ったみてぇだがいわゆるしょせんはそのていど……」
主の降臨だった。
冥府の巫女レティレシアは鎌首もたげた血色の刃を豪快に薙ぐ。
「期待はしねぇ、失望もしねぇ。つまりテメェは他となにも変わらないただのモブだったってわけ――」
終焉の言が紡がれる。
その直前だった。
「まけるなああああああああああああ!!!」
それはとてもとても大きな声だった。
母であるディナヴィアでさえ目に動揺を浮かべるほど。
しかも幼龍の顔は、べしゃべしゃだった。
そんな母にさえ怯えてしまう臆病で奥手なモチ羅が叫ぶ。
「ミナトずっとがんばってるのをずっとみてきたんだもん!!! だから……――ぜったいに、かてるんだもん!!!」
龍に勝てるわけがないことは大陸種族であれば誰でも知っていること。
だからこそそんなの龍である彼女が1番無理を知っているはず。
なのに無理でさえ通そうと声をうんと張り上げる。
「みなとはかってかえるんだもん!!! おうちにかえってやらなきゃならないことをきちんとおわらせるんだもん!!!」
盤上のすべてに届くほどの思いだった。
きっとそれは生まれて初めて発した、涙伝いのわがまま。
リリティアは未だ木霊する願いを裂くように剣を振るう。
「まだ、やりますか?」
感情皆無の振りほどくような問いかけ。
喉で喘ぎ肩を上下させる人の子に最後のダイスを託す。
だが、彼の眼は死んでいない。奥底に小さな蒼き光を宿して灯りつづけていた。
それどころか幼子の勇気に感化されてか、汗まみれの口角は引き上がって歯を見せる。
「……グリーンセカンド、スイッチ」
ここまでは悲劇だった。
だが、彼が意味を紡いだ瞬間に盤面は魔法の如く引っくり返る。
「ルスラウス大陸世界至上最高の喜劇をご覧頂くとしようか」
人の子は、勇壮に笑う。
はじめからなにも変わらない。
勝利を信じて止まぬまま。
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