331話 聖剣《Turning Point》
扉を潜ると芳醇な木の香が鼻腔いっぱいに飛びこんでくる。
生活水準は平均くらいか。なにより屋内は・質素だが不思議と居心地がいい。
外には井戸があって、暖炉、洗面台、ベッド、Etc…と、不自由がない狭い船で寝泊まりしている船員より、よほど。地に足のついた心安らぐ上等なねぐらだった。
「たしか剣聖殿は麗人だったな。美女の作る料理とは最高のスパイスだ」
東は鼻歌交じりに歩幅広く、屋内へと踏みこむ。
すでに美女であることはチェック済み。流れるロングの三つ編みに、包みこむような微笑と、清楚かつ穢しがたい白色のドレスが麗しい。
覚えている限り体格は華奢でスレンダーだった。だがそんなことナンパ中年にとっては些事以外のなにものでもない。
なによりここ数日船員の1人がつきっきりで面倒を見てもらっている。となれば手の甲にキスのひとつでも落とさねば大人としてなるものか。
――たとえ龍とはいえ女性であることは事実。ここは男として大人として最大限の謝辞を見せねばなるまい。
風の噂で聞けば剣聖は娘を産んで以降未亡の身と聞く。
意気揚々と紳士で不埒な考えを思い巡らせていた。
「おう、帰ったかい」
「…………」
が、そんな桃色の妄想は屈強なシックスパックによって露と消え去る。
お帰りなさいませご主人様、とばかり。巨体のシルエットが、いの一番に待ち構えているではないか。
白髭を蓄えた老君は枝肉をひょいと片手で拾い上げる。
「えらい大捕物だったようじゃな。ちくとまっちょれすぐ捌いて飯にしちゃるからのう」
のっしのっし。少女の手から肉をとりあげ図体を翻した。
髷を揺らしながらあくせくと調理を開始する。屈強な四肢に洗面台さえ小さく見えてしまう。
「……。あれはこちらを攻撃してこない良いタイプの鬼の魔物か?」
「魔物じゃなくてれっきとした種族、双腕のゼトさんだよ。最近リリティアが帰ってこないから代わりにオレとモチ羅の世話を焼いてくれてる」
あまりの強烈さに心も体もすくみ上がっていた。
両腕が鉄の老人がいてたまるか。しかも形相は鬼の如く厳めしく、声だって鉄球を転がすかのよう。
さすがの東もしばし体の動かしかたを忘れる。麗しの君を想像していただけに衝撃も並ではない。
「まさか名工である双腕のゼト殿が調理なさるのですか!? これはなんという幸福なことか!?」
レィガリアだけは打ち震えていた。
しかも胸の前では手甲が拳を握りしめている。
「双腕……名の知れた殿方なのですか?」
「まさに伝説を生む世界最高の鍛冶師こそがゼト殿です! 彼の打つ武器や防具、装飾品でさえ1級品をも凌駕する! この世界で武器を握るのであれば彼の創造する業物は憧れそのものです!」
騎士団長は目を輝かせていた。
普段鷹の如き鋭敏な光を放つ銀縁の瞳が、まるで少年のよう。
東にとって冷静沈着な彼が声高なのも初めての顔だった。
「なんじゃい客がきちょったんか? 肉運びの礼にオマンらも飯食うてくか?」
「月下騎士団長レィガリア・アル・ティールと申します! 是非ともご賞味なさらせていただきたく存じております!」
身の正す速度も尋常ではない。
ゼトが振り返ると、レィガリアは電光石火の如く敬礼を決めた。
「で、なんでそんな御仁がお前の面倒なんかを見ている?」
麗人かと思いきや蓋を開ければ筋骨隆々とは。
東は眉を渋くさせながら少年のほうを見た。
すると彼は丸い肩をすくませる。
「オレの修行相手兼世話を焼いてくれているんだ。もうリリティアには10日以上会ってないかな」
「もう剣の修行はしていないのか? しかも放置とはずいぶんと薄情な師匠だな?」
予定では、半年みっちり修行という手はずとなっている。
なのに10日も弟子を放っているとは、あまりに無責任な所業だった。
「だいたいは教わり尽くしたし、教わることももうないからどうでもいい。それに人間如きに超絶技巧な龍の剣技をすべて真似るなんてそもそも無理さ」
だが少年は微塵も気にした様子は見せない。
横にある子龍の朱色をした頭をぐりぐりと撫でるのだった。
どうやら不在の剣聖に代わって別の師が彼の面倒を見ているらしい。
あるいは監視の目が代わったか。このまま無罪放免ということでもないだろう。彼のなかに眠るという呪いを渇望する冥府の巫女が黙っていまい。
「麗しの剣聖殿とご挨拶するつもりで訪れただけに期待外れだな。こんな場所では日をあらためる気にもならん」
東としても不服である部分が多かった。
こんな辺境の地に命懸けで赴いたのに女気が龍の子供だけとは。色気がない。
そんな手癖の悪さに少年は「お前なぁ……」眉を渋くする。
「あれでも立場上未亡人なんだから節操くらい身につけろよ……。もし会えたとしてうかつに地雷踏んだら剣の錆にされかねないぞ」
「はっはァ! それくらいでないとつまらんさ! 恋の面白いところは男と女心の駆け引きなのだからな!」
ぱちぃぃん、と。乾いた指音が屋内に響いた。
冗談はおいておくとして。いちおう保護者として決闘相手と対話は図りたかった。
もし口説く、もとい剣聖を説得する予知が1mmでもあるとするならば。それはきっと天上より垂らされた雲の糸に等しい。大いに価値あるもの。
――まさか俺の狙いを読だうえで逃げたというのか?
まさか剣聖自身が家を空けているとは思うまい。
これはさすがに東をもってしても想定の外だった。
こうして訪れたのには、目的がある。もし対話可能だったなら少年の対戦相手である剣聖から僅かでも情を引きだせたはず。
少年の境遇をつまびらかにしても良し。保護者として地に額を落とし、靴を舐めるも良し。あらゆる手を尽くすためにやってきたというのに肩透かしを食らってしまう。
「まったく……半年も時間があったのだから唇のひとつくらい奪っておけばいいものを。これだから女を知らんガキは……」
「あれいちおうイージスのお母さんだからな!? そうなるとオレの姉の母親だから実質腹違いの母親だ!?」
色も知らぬ少年に多くを望むのは酷だったか。
恋までといかずとも愛情くらい芽生えていれば手くらい抜いてくれたかもしれないのだが。
「お話を遮るようで申し訳ありません。ですが1つだけおふたりのお耳に入れておかねばならぬ事柄がございます」
こつり、こつり。硬く鋭い足音だった。
レィガリアは東と少年を追い越し、優雅な銀髪を流して振り返る。
「此度の決闘で剣聖様は全身全霊をお尽くしになるおつもりです。それはもう他者が入りこむ余地がないほど盤石の確固たる意思をもって人種族を挫くでしょう」
その在りようは、十全たる騎士の立ち振る舞いだった。
彼の存在と声が和らいでいたはずの空気を冷水の如く引き締めるほど。
東は白羽織の襟と一緒に心を正し、レィガリアと向き合う。
「貴方ほどの御仁が冗談を語るとは思いがたい。その辛辣な論に至った経緯や根拠というものをお聞かせ願いたい」
まるで彼自身が敵になったかのような物言いだった。
さすがに聞き捨てならない。だが、レィガリアの瞳にふざけた様子も虚偽も含まれない。
「まず此度の決闘は私闘ではなく正式な決闘です。来賓や国の重鎮を集めて行う誓約決闘、これは神に誓いを伺うという礼式な作法ともいえるでしょう」
この半年の間にルールが一方的に書き換えられていた。
ダモクレス鉱という儀式に使用される素材を回収したと聞く。これによって決闘の勝敗条件は強固になったはず。
だが、こちらが端を発するほど悪いことばかりでもない。その冥府の巫女が心変わりしてくれたことにより命を奪い合わずにすむ。
「はじめ冥府の巫女が本気である以上に剣聖様はさほど気乗りしている様子ではありませんでした。ご存じの通り剣聖様は人種族が大陸で生きるため保護してくださっております」
いってみれば冥府の巫女と剣聖は対照的な位置にある。
冥府の巫女は友であるイージスの力を受けた少年を敵視していた。
対して剣聖は娘の思いを秘めた少年のなかで次ごうとしている。
だからこそ東も剣聖のなかにある戸惑いを利用しようとこの地に赴いた。
「ではなぜ寛大な剣聖殿が全力でくると? 神聖な決闘とはいえ実力を振るうかは当人の意思でしょう?」
「私もはじめは東殿と同様の思考で、軽んじていたのです。ですが……ここ数日であの御方のなかに渦巻く思いが噴出しつつある気配を感じてしまった」
レィガリアはフッ、と視線を滑らせる。
口ごもりながら表情もどこか躊躇を濁らせていた。
そして彼は意を決したかのように息を長く吐いてから顔を上げる。
「聖剣のフィナセス・カラミ・ティールが舞台裏で暗躍しています。それも剣聖様から命を賜って人が決闘に参戦できぬよう妨害を企てています」
(区切りなし)
 




