330話 暖かな時風《Time of Finite》
息の切れぬほど幾らか歩いた先に不自然に開けた箇所が存在した。
そこには誰がどのような目的で作ったのかわからない家屋がぽつんと1件ほど。
古めかしい丸木組みで、いまにも朽ちそうな見た目をしている。しかし木々の風防と簡素な作りではあるがゆえに丈夫な佇まいは崩れていない。
その周囲には丁寧に木々との境となる柵が植え付けられている。ところどころ破損していたが修繕自体はそれほど難しい話ではなかった。
しかもその森の一軒家には不思議な現象に囲まれている。
「すごいな家の周囲だけ護られているかのように草が生えていない。まるで魔法を使ったかのようだ」
東は森との境界に立ち尽くしていた。
葉すれの風に頬撫でられながら首を巡らせて周囲を探る。
豊かな背景にもかかわらず一定の箇所から草木が進行を止めていた。
罪深き森の奥底に空いた遺物。そこはまるで家屋の敷地だけが聖域であるかのような雰囲気に包まれている。
少年は、意気揚々とした足どりで境界を踏み越えていく。
「家主曰く、以前この家に住んでいた人が適切に土を殺したんだとさ。だから森がこっち側に進行しなくなってるんだと」
両手に大ぶりの肉を抱えているというのにまったく疲れた様子は見せない。
珠の汗を浮かべるどころか吐息ひとつ乱れていない。つまりきっとこれこそが彼にとって半年間の日常なのだ。
「土を殺す? この世界に除草剤の概念があるとは到底思えないが……」
ちらり、と。東はレィガリアに視線で伺い立てた。
すると彼は少し遅れて首を横に振る。
「雑草などの対策は魔法で凍らせ砕いたり純粋に燃やしたりなど。あとは大鎌で刈りとる場合も多いです」
「どの世界でも戦う相手は変わらないとは難儀なものですな」
「土壌がしっかりしていればしているほど生えてくるものは生えてきますゆえ。農家のかたがたが腰を痛めながら奔走してくださっています」
こちらで立ち話をしている間にも時の巡りは早い。
「立ち話もなんだしとっとと家ののなかに入ろう。魔物だっていつまでもこんな大量の肉を見逃してくれるとは限らないからな」
少年は慣れた足どりでずんずん進んでいってしまう。
そしてそんな異物感たっぷりの古民家よろしくな家屋の扉が、バァンと勢いよく放たれる。
「おかえりぃっ!!」
小さな鞠のような影が唐突に飛びだしてきた。
頭に短な角と腰からはぬるりと1本の鱗尾を生やす。
瞳は非緋色。燃えるように朱色の髪。そして珠のように幼い龍の少女だった。
おそらく窓を前に待機していたのだろう。彼女は帰還する一党を見つけるなり転がるようにして家から飛びだしてくる。
そのまま全身でぶつかるように少年の厚い胸板に飛びこむ。
「お腹空いたようっ! 怪我とかはしてないよねっ!」
枝肉を両肩に抱えた少年は、あっという間に組み付かれてしまう。
しかし足に根でも張っているかの如く全身で幼子を受け止める。
「肉を待ってたのかオレを心配してくれてたのかいったいどっちなんだい?」
「んー……」
「そこ悩む!? 即答してくれないかな!?」
少年はしゃがみこんでから少女に枝肉の1本を渡した。
それから両手一杯に肉を抱える少女の小ぶりな頭をわしわしと手で乱す。
「いい子にして待ってたかぁ?」
「うんっ! きょうはさんすうっていうのをがんばったんだっ!」
まるで荒事とはほど遠い。
人里離れた森の家屋に住まう心知れた兄妹であるかのよう。
「じゃあおさらいだ! ににんが?」
「ろくっ!」
元気いっぱいの誤回答だった。
少年は「……」一拍ほど黙りこんでからすぐさま親指を立てる。
「かけ算の答えを増やすとは天才だな! しかも即答かつ自信満々な辺り教え甲斐がありそうだ!」
どうやら教育方針は褒めて伸ばすと決めているらしい。
こんな深淵の森のなかでも2人の間だけは、時間がゆっくりと流れている。まるで絵画のなかの如き安穏としたひと幕だった。
東は、想定外の光景に目を疑っている。仲睦まじい様子を垣間見て、雑に伸びた顎髭をしゃくる。
「その子は龍長焔龍の子だったか? 臆病と聞いていたがずいぶんと懐かれているんだな?」
歩み寄ってから龍の子の前に身をかがむ。
大人が接近しても逃げ嫌がる素振りすらなかった。どころか丸く朱色の瞳が東を見上げて興味津々と輝いている。
「だれぇ~? にんげんさん?」
龍の子は、なすがままだった。
腰から伸びた野太い尾っぽがゆったりしている。
燃えるようなルビー色の瞳は澄んでおり曇りひとつありはしない。
「生まれたてだからなにもかにもが綺麗に見えるし好機の対象なんだよ。最近は一段と食欲が増してアクティブになってる気がする」
少年の手で髪を乱されると気持ちよさそうに目を細める。
人畜無害を絵に描いたようななんとも形容しがたい愛らしい娘だった。
「子供というのはそうやって粛々と生きる術や生きかたを大いに学んでいるんだ。しかもこの年頃にはすでに女としての意思が芽生えている。だからしっかりレディーとして扱ってやるんだぞ」
東も興味本位で少女の赤い頭に手を伸ばしてみる。
さらさらな髪は指通りが良く透けるかのよう。上質な繊維で作ったシルクの手触りが手に伝わってくる。
両手一杯の枝肉を抱えた龍の子も、まったくの無抵抗で受け入れている。
「存外怯えないのだな? 母親から逃げ回っているという情報は間違いだったのか?」
「いちおう慣れてきたっというのもあるけど本質はもっと別だ。たぶん人間如きには負けないって感覚でわかってるんだよ」
それを聞いて子を撫でる東の手が、ふと止まった。
器は愛らしくとも流れる血は大陸世界最強種族。
幼き彼女の意思次第で生殺与奪が決まっているということ。
レィガリアは、固まる東を横目に線の細い強面を辟易と歪ませる。
「おそらく私が全力で挑んでも勝てるかわかりません。龍という種族はそのように大陸最強なのですよ」
「そ、そうですか……いやはや見かけによらぬとはまさにですな……」
年端征かずとも君臨するからこそ最強と讃えられるのが、龍なのだ。
この少女もまたその偉大な血筋を引くということか。
それでもなお焔龍という膨大な力をもつ母を前に逃げだしてしまった。つまりまだ精神面が成熟仕切れていないのだ。
すると少年が不意に龍から逃げ腰の東を覗きこむ。
「まさか……東って娘とかいるのか? やけに幼い女子の扱いに詳しいじゃないか?」
どきっ、と。唐突な疑問に心臓が跳ねた。
東は、イヤな汗が背に浮かぶのをよそに指をパチンと小粋に弾く。
「はっはァ! 俺にとって女性はすべからくレディーであり寵愛の対象だ! 子は世の宝であるがゆえ俺はすべてを見通している!」
「ほぉん? なに必死になってるのか知らないけど、その年でロリコンはガチで洒落にならないから気をつけろよ」
「はぁーっはっはァ! 俺の絶対守備範囲は18才以上だからその心配には及ばん! いくらレディーであっても子供に手をだしたことは断じてないと神に誓ってもいいぞ!」
不穏な瞳を掻い潜るよう高笑い受け流すのだった。
とりあえず東の目的は達成されている。わざわざ誘いの森へと出向いたのには理由があった。
少年が剣聖へと挑むまで7日を切っている。もし重責から彼が逃げるのであれば意を汲んでやらねばならない。
「まったく久しぶりの顔合わせだっていうのに相変わらずなんだな。夜な夜な聖都で遊び歩いてるって聞いてるぞ」
「大人になってそうそう性質が変わるものか! 俺はたとえ踏む大地が異なったとして俺を貫くのみだ!」
「女ったらしが威張っていえることかぁ……?」
目的は、是非を問う最終確認のため。
多少は心配しながらの訪問だった。しかし会ってみて杞憂だと知る。
――覇気が増している、か。
問うまでもなかった。
少年は、はじめからずっとそうだったように移ろいすらしない。それどころか肉体的にも精神的にも活力に満ちあふれている。
空想の勝利を疑わぬ子供のようであり、底の住処を知る達観した大人のような横顔だった。
冥府の巫女が誓約を定め直したことで敗北イコール死という定義は失われている。だが、勝利すれば生という可能性も限りなく低い。
辛くも勝利し帰還に成功してノアが無事な保証はないのだ。すでに180日という過酷な日数を重ねている。それだけ生存確率が減っていることを彼は知っているだろうか。
「せっかくだし東とレィガリアさんも朝食を食べていくといいよ。魔物食を避ける種族も多いらしいけど、1度獅子鰐を食べたらハマるはずさ」
そういって少年は龍の子を引き連れ家のなかへと入っていってしまう。
ふた回りほど育った背は広く、逞しい。命と使命を背負うには十分な成果といえる。
きっと信じているのだ。人の欲深さを、人の執念を、その生に縋る執着を。彼は決して揺るがぬほど、人間を信じている。
だからああして誰もがよろめいてしまう境遇でも真っ直ぐに歩いて行けるのだ。
「……フッ」
まさか潰えたはずの夢につづきがあったとは。
その幻想に思わず口角が上がって鼻を吹く。
「剣聖様のお料理は大陸随一と好評です。ここは是非とも我々もご相伴に預かるとしましょう」
「ええ。もちろんですとも」
東は、心なしか興奮気味なレィガリアの後につづく。
もしこの実りが成ったのであれば、きっと。この残酷で過酷な世界にある小さな光の粒。
そう、実在する大陸世界の神に祈らざるを得なかった。
…… … ○ … ……
 




