328話 残響、残影、残光《Blue》
尋常ではない。それでいて音の壁が全身を打つかのよう。
轟音の発信源はすぐ先に流れる川沿いからだった。そしておそらくは上流のほうから響いてきている。
鳴動。轟き。どちらでもいい。とにかく地を割り底がせり上がるような叫び。慟哭。
騎士団長として経験深いレィガリアは無論のこと。東でさえ異常を察知して即座に銃を構えていた。
「なにごとかがあったのか、はたまたこれから起こり得るのか」
「とりあえずよからぬということだけは確かですので最大限の警戒を」
「はっはァ。なかなかどうしてこの世界もスリリングで茶目っ気にあふれている」
2人は言葉を交わしながらも視線を合わせることがなかった。
互いに姿勢を低くとる。なるべく茂みに身を隠しながら生唾を飲む。首と眼での状況の確認を怠らない。
すると間髪入れずまた同じ音が森をぐらぐら揺らがす。
「 V O O O O O O O O O O O O O O O O O O O ! ! ! ! 」
樹にしがみついていた鳥が一斉に羽ばたく。
葉は揺らぎ散る。河川の水流が波立つ。空の雲さえ割れかねない。
東は、固い銃のグリップを強く握ってトリガーに指をかけた。
さすがにちょっとビビっている。手汗は滲むし、寒気で凍えそう。緊張感に押しつぶされる寸前だった。
無意識に生存本能が刺激され東の身体の表面に蒼が帯びられていく。
「東殿このまま我らは隠れ潜みつつ下流域へと移動しましょう。幸運なことに魔物はこちらに興味を示していません」
レィガリアに先導されながらも辛うじて脳は正常だった。
現状に細やかだが小さな違和感を覚える。
「……む? ともすれば叫びの主はなにに対してあれほど威嚇している?」
「おそらく巨大な魔物同士が縄張り争いでしょう。なので決着がつきこちらに向かってくる前に早くこの場から離れます」
東とて撤退には全肯定だった。
そろり、そろり。いい大人が揃って蹲い茂みを辿る。
「そういえば先ほど狩ったゴブリンもなにかに怯え隠れていたように思えます。ともすれば声の主は近隣の頂点捕食者かもしれません」
案内を頼んで良かったと身に沁みた。
こんな状況でもレィガリアは眉一つ動かさず、淡々としている。
もしこれがたった1人、単身だったらいったいどう間違えただろうか。考えただけで背筋に怖気が疾走った。
そしてまた――
「 V O O O O O O O O O O O O O O O O O O O ! ! ! ! 」
先ほどよりも近い位置を震源として森が揺らぐ。
「先ほどより遙かに近い……! 戦場がこちらに移動してきている……!」
レィガリアでさえ難色を示す事態だった。
すでに隠れ潜むという行程は終わっている。騒乱を背に茂みを掻き分けながら川沿いを下る。
遠巻きに感じる威圧と地を割るが如き振動から察するに、敵は超大型。敵の狙いがこちらでないにしても巻きこまれれば到底無事ではすむまい。
「いざとなれば戦闘も止むなしです! 応戦する準備を整えてください!」
レィガリアは、背負う長身鉄塊に手をかけた。
幅も広く重量もあるため人に振るうには巨大すぎる。となれば、さしずめ大型用に用意していたのか。
護衛が戦闘に頭を切り替える。その傍らで東は小さな疑問をしこりのように残していた。
――戦っている? いったいなにと?
この疑問を見逃せるほど、甘く生きていない。
大型であろう敵の気配は、1体のみ。戦闘中であれもう1体の気配がまったくないというのもオカシイ。
するとそのとき、東の蒼を浮かべた瞳が河川にたゆたう紅色を見つける。
「あれは――血か!? 上流からおびただしい量の血が下流に向かって流れていく!?」
ゆうに10mは幅があろう川が血に淀んでいた。
鉄と生物の生臭さが鼻をつく。嗅覚を受けとった身体が拒否反応を示し嗚咽を覚える。
「東殿上流に敵影を確認しました!」
東は声を聞いて反射的に前髪を流し振り返った。
河川の上流では水が暴れ狂っている。
「 V O O O O O O O O O O O O O O O O O ! ! ! ! 」
岩壁の如き尾がのたうち、咆吼が世界を振り回す。
無遠慮な四肢が荒れると川が底から裏返る。
「で、デカい……! まるで大岩のようだ……!」
東さえ呼吸すら忘れるほど。
この世のモノとは思えぬ光景だった。
一見してトカゲか鰐か。規模感でいえば龍であるかのよう。
「あれは獅子鰐と呼ばれる魔物です! 一般的な水辺の魔物ですが誘いの森の瘴気で規格外の大きさだ!」
レィガリアは勢いよく大剣を引き抜き、正面に構えた。
しかしまっとうにやり合える相手ではない。それくらい彼だってわかっている。
だからこそいまとれる手は絶望し固まることではない。
「森のなかへ全力で逃げます! 幸運なことにいまならまだヤツは……」
「少し待ってほしいヤツはいったいなにと戦っている? このおびただしい量の血はいったい誰のものだ?」
「それは当然ヤツと戦っているもう1匹の――……」
レィガリアも気づいたのだろう。
獅子鰐の巨躯以外に、もう1匹が見当たらない。
森の周囲一帯どこを見ても相対する魔物がいないのだ。それどころか獅子鰐の顎から血があふれている。
「……っ。どうやら私は1つ大きな勘違いをしていたようだ」
レィガリアは口惜しげに歴戦の顔を歪めた。
ぎりり、と。音がしそうなほどに奥歯を噛み締め、大剣の柄に力を籠める。
「劣勢なのはあの獅子鰐のほう! すでに致命傷を負わされ逃げ回っているんです!」
彼の怒声の如きを聞いてく、東も事態を把握した。
良く見れば獅子鰐は満身創痍。腹部に穴が開いておりそこからついぞ漏れる体液で河川が染まっている。
何者かに負わされたであろう獅子鰐の出血は致命的だった。
「 V E E E E E E E E E E E E E E ! ! ! 」
大顎から悲鳴を上げるたび血しぶきが散っている。
よくよく聞けば叫びだって覇気のあるものではない。ただ生に縋る生物的な音色だった。
「逃げますよ! 今度こそ本気でこの場を離れます!」
レィガリアのまとう凜とした空気が揺らいでいた。
東の腕を掴むとそのまま引きずらんばかりに駆けだそうとする。
「なぜですか!? あのまま獅子鰐が倒れさえすれば安全になるのでは!?」
「アレと戦っているのは冒険者の類いです! しかもかなりの実力者であることが窺い知れます!」
ここにきてもっとも動揺していた。
獅子鰐の悲鳴が轟いたとき以上に目が本気を語っている。
「それほどの強敵ならばこちらに矢を引くやもしれませぬ! 孤立無援で訪れる最悪の事態は魔物さえ超える種族との接敵です!」
少なくともあの超巨大な獅子鰐を倒すだけの実力者がいるということ。
彼の懸念している事態はもっともだった。ここに2人いて、その2人ですら勝てぬ相手となれば洒落になるまい。
「……ふむ。よくよく考えてみれば自殺の名所で他人に会うほど恐ろしいことはないな」
「それにもし種族が徒党を組んだ野盗や盗賊の類いかもしれません! そうなれば魔物よりも遙かに厄介な手合いです!」
心を決めて2人ともが場を離れんと、走りだそうとした。
そのときだった。獅子鰐が最後の足掻きとばかりに振った尾が2人の頭上をかすめる。
「クッ!? もうこんなところにまで!?」
「やれやれ……! こうも生き意地が悪いとはさすがの生命力だ……!」
葉どころか幹が木っ端微塵に砕け散った。
そのせいで森のほうへ逃げようとしていた道が閉ざされてしまう。
「 V R R R R R R R R R R R R R ! ! ! 」
こちらも必死ならばあちらだって、そう。
獅子鰐は大顎から血飛沫を吐き散らしながら2人のほうに突っこんでくる。
逃げようにも退路はない。河川側は獅子鰐で塞がれ、森のほうも無秩序に荒れ果てていた。
「東殿もうこうなったら巨体の突進をすりぬけ躱すほかありません!」
レィガリアは勇敢に大剣の切っ先を敵に仕向けた。
覚悟と死が同居している。
「そういう芸当を迫られるとは些か侮っていたか。銃よりも大砲を用意してくるべきだったな」
東もまた同調するようにまとう蒼が色濃くなって渦を巻く。
「まったくこういうのはガラじゃないんだが。しかしこんな場所でおめおめとやられてしまっては若者たちに示しがつかん」
未だ第2世代にすら至れていない身に余る状態だった。
あまりに遅すぎる。30を越え夢も潰え情熱冷めた。若さがあまりに眩しい。
だからこそ大人がしっかり育て、繋いでやらねばならぬのだ。こんな道半ばで死ねるものか。
「 V A A A A A A A A A A A A A A ! ! ! ! 」
「きますっ!!」
レィガリアの合図に合わせて同時に身をかがむ。
そして山の如き巨躯を前に覚悟を固める。足に力を溜め放とうとする。
その向かおうとする瞬間だった。2人の視界に1閃の光がきらりと翻る。
「せっかく血抜きしてるんだから地上に逃げるなよ」
しゅるり、と。蒼き筋が獅子鰐の上顎に巻かれた。
突進中だった敵は、さながらロデオをするみたいにのけぞり、足を止める。
「 E E E E E E E E E E E E ! ! ! 」
海老反りになって血反吐と悲鳴が木霊した。
浮いた前足でもがけど、もがけど。閃光に似た蒼き筋はピンと張るばかり。藻掻く巨体を上顎で引き上げ、拘束してしまう。
「い、いったいこれは……どういう?」
東は漠然と魂を抜かれたように佇むしかなかった。
レィガリアも例外ではなく、血飛沫を浴びながら愕然と敵を睨む。
「拘束魔法の類いでしょうか……しかしこれほど頑強な拘束魔法を私は見たことがありません」
大鰐の腹には鮮血を怒濤の如く噴出させる立てに長い穴が開いていた。
傷口は銃にしては大きく、矢の形跡もなければ、切り傷でさえない。縦にぱっくりと開いた傷はどこか奇っ怪で悍ましささえある。
そして森の上流側方面から枝を踏み近づいてくる影が1つほど。
「確かに軽い剣よりもっとしっかりした剣じゃないと大型相手には時間がかかりすぎるか。苦しめてトドメを刺すと肉が緊張でマズくなるって怒られるんだよな」
周囲の木々に巡らせて細長い光の閃が敵を雁字搦めに捕らえていた。
獅子鰐もすでに失血死寸前というところで血の泡に溺れている。
レィガリアも東は安堵するよりあまりの光景を前に佇むことしかできない。
「せっかくだしこのバカでかい肉を運ぶの手伝ってくれよ、そこのおふたりさん」
魑魅魍魎の彷徨える壮絶な森のなか。
蒼い光が、そこにいた。
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