324話 百万回の秒針《Metronome Sing》
老父は、槌を大仰に振るって血ぶりした。
ここの者たちは魂で形作られている。冥府の巫女と血の盟約を交わしているため死ぬことはない。
血の盟約を交わした浮浪者たち。ここにいるのは実力あれども英雄として歴史に名を残せなかったはぐれ者たち。
きたるべき時、やがてやってくる世界の破滅。いま神の世界は創造主という席次を争い、戦に備えている。
いまのところまだ本格的な争いではない。しかしいつかは必ず現行神の軍と革命を望む神が正面から衝突し、聖戦を呼ぶ。
そして運命の統べるルスラウス大陸世界は、聖戦を敗北し、終末を迎える。
変えようのない未来こそが運命の見た運命なのだ。ゆえに運命の天使ルスラウスによって種族へと周知された未来は、確定した、滅び。
――確定した未来を変えるための特異点。
創造主の名は、フィクスガント・ジ・アーム・ルスラウス。
片翼を失いし運命の片割れ。種に魂の破片を分け与え、子の織りなす大陸世界を見守り給う。
――それこそが僕たち冥府の巫女が集結させた棺の救世主。
もし世界が神を失えば、行き着く先は闇だった。
新生創造主によって古き悪しきは淘汰される道を辿ることになる。
聖戦後も生ける残存種族は反乱や憎しみの種となり得る。ゆえに肉も皮も、身に宿る魂でさえ恥辱と侮蔑に穢されることになる。
――確定した未来。確定された崩壊。空に満ちる月が合い成すとき世界は断末魔が響く。
辛辣な未来に思い馳せ、まつげの影が伸びた。
口から思わず湿った吐息が漏れてしまう。
「よお、なぁに辛気くさい顔しとるんじゃ」
生前に子を孕むこともなかった。
そんなヨルナにとって世界にそれほど価値はない。
しかし友や仲間が朽ち征く未来に悪態のひとつでもつきたくなってしまう。
「……くそったれ」
掴んだ砂が手からさらさらと落ちていく。
まるで手にしたものすべてがこぼれ落ちていくかのような感覚だった。
それが終焉を辿る世界の薄明な現実に似ていて。少しだけ笑えた。
「だぁ~れがクソッタレじゃとぉ?」
「……?」
ヨルナは、ふと視線を感じて横に眼を滑らせる。
すると驚くほど近くに隆々たる肉体と樹皮の如き顔面があった。
こうなるともう考えごとどころではない。ヨルナは老父の影にすっぽりと覆われてしまっている。
「い”ッ!? し、師匠いつの間に!?」
胸の奥で心臓がぴょんと跳ねて止まりそうな気分だった。
あまりに見慣れた顔だったが、それはそれで恐ろしい。
老父、もといヨルナの師。双腕のゼト・E・スミス・ロガーは重く唸る。
「師に向かって唐突に悪態塗りつけるとは良い度胸しちょるなァ!!」
「い、いや違うんですぅ!? なんというかもっとこうおセンチな気分だっただけで決して師匠のことをいったわけではっ!?」
「問答無用じゃバカたれがァ!!」
鉄拳制裁は、胴色のゲンコツだった。
頭頂部にもらったヨルナの視界に見事な星が4つ以上瞬く。
1本辺り50kgはあろう軋む鈍色の腕ならば余計に効くというもの。絶対に加減してくれているはずだが、魂とはいえ痛いものは痛い。
ヨルナは頭を押さえながら涙目で抗議する。
「いたぁぁぁーい!? 頭叩かれてこれ以上バカになったらどうしてくれるんですかぁ!?」
「鉄打つ才能があるからと座学サボってたツケじゃろ! しかも挙げ句その鉄打ちながら死んだと聞いてどれほどワシの心がしょげたと思うちょる! 不貞の弟子じゃキサンはァ!」
ゼトによる愛の2撃目だった。
だが、御免被る。ヨルナはさらりと身を翻し回避する。
華奢な身体から繰りだされる目にも止まらぬ回避術は、まるで蝶の舞い。さながら振るう拳に布がまとわりつくかのよう。
ヨルナは華麗な着地を決めて闘技の場をぐるりと眺める。
「みんな聖戦にむけて牙を研いでますね。こうして遠くから眺めているだけでも鍛錬の熱にのぼせそうです」
棺の間の救世主どもが珍しくやる気だった。
あちらこちらで無頼たちが得意とする武器を構え鍔を迫り合う。
1人1人の質は違えども武も技も精神でさえ超実力級。天界に至るほどの1流ではないが、1流の腰に這い上がれるほど。
さらにここ棺の間では、武で己を誇示することこそが本懐である。弱きことは悪しきこと。冥府の巫女が彼らに望むのは強さのみ。
「そうはいってもどうせ連中暇しちょるだけじゃろ。あるいはソリが合わねぇからやりおうとるだけよ」
「だけど師匠だってさっき盗賊王ガルムンドとやり合ってたじゃないですか?」
「ありゃ一方的に喧嘩を売られただけでワシは買ってやったにすぎん。若いうちに朽ちた魂はいつまでも血気盛んで嫌になるわい」
ゼトは軋む腕を大きく回して肩をほぐす。
そのままどっか、と。豪快に地べたへ岩盤の如き尻を落として髭を吹く。
巨大が沈むと勢いよく砂粒が舞って踊る。ついでとばかりに槌が地べたへ突き通された。
どうやら本日の稽古をするつもりはないらしい。霞眼の視線がヨルナと同じ遠間へと投げられて細められる。
「ほんで、どうじゃ?」
「どう、といいますと?」
ヨルナは襟を引き上げた。
舞った砂塵を吸わぬよう口元をすっぽりと覆い隠す。
「いまとなってはどうもこうもないじゃろがい。ここに群れちょる連中のほぼ全員があの小僧のことしか考えておらん」
ふぅむ、と。ヨルナは師の問いに、スカーフの下で喉を奏でた。
なんといっていいものか。師の期待に答える得策をもっていないことだけは確か。
しばし有耶無耶な無言がつづいて、ゼトはとっぷり吐息を漏らす。
「決闘を諦めさすことは出来たんか?」
率直すぎて、辛かった。
ヨルナにはそれが耐えきれず。師から視線を逸らしてしまう。
「その役目……どうやら僕には荷が勝ちすぎているみたいです」
どうやって止めろというのか。
羽ばたきだした龍を身ひとつで止める行為に等しい。
「彼は僕なんかを信じ棺の間へ導かれてしまった。なのにその上で僕を許して友と呼んでくれました」
ヨルナは悲しみにくれて長いまつげを伏せた。
スカーフを引き上げ面半分を隠し、奥からくぐもった声を漏らす。
「だから僕は友と呼んでくれた人種族の進む障害になりたくないです」
「つっても決闘にもつれこめば確実に負けることくらいわかっておるじゃろ。世の理が絶対と告げておるのであればまかり通ることもあるまい」
「それは……」二の句が継げなかった。
辛辣なほどに正論だったから。師の語る言葉にヨルナの心は同調していた。
勝てば帰還、負ければ滞留。しかし少年ミナト・ティールの決闘相手は元剣聖リリティア・F・ドゥ・グランドウォーカーである。
「今宵の決闘はどれほど努力しようとも足掻こうとも絶対に勝てんものとなっちょる」
「っ、それは……はじめからすべてわかっています。ですが――」
「たとえ人種族の子が1000年を与えられてもなおリリィには届かん。それを半年足らずで覆せるわけがあるまいて。余計な希望を抱けば抱いただけ後が辛くなるぞ」
師の言葉は重く、そしてどこまでも正しい。
ヨルナでさえ1000年与えられて元剣聖に勝てる見こみは、ほぼゼロだ。
悲しいことに強さには上限が設定されている。どれほど鍛えても大樹の如き大きさに届くことはない。
才も、血も、能なのだ。定められた種族に生まれ出ずれなかったことで、森羅万象が決している。
「虫は獅子に叶うはずがねぇ、種は葉を巻きこんで吹きすさぶ大風に叶うはずがねぇ。かんかんに爛れた溶岩に硝子を沈めれば1秒ともたぬ」
ゼトは腕を軋ませながら巨木の如き腿を打つ。
結果として師は優しい。人の子が傷つかぬよう適材適所に立ち回れといっている。
師の期待に応じられる手立てがない。だからたまらずヨルナは膝を抱えて座りこんでしまう。
「でも……」
「じゃからあれくらいの歳の男の子ならば乳のひとつでも見せりゃコロッといくはずじゃ」
「……え?」
ヨルナは耳を疑って目を丸くした。
顔を上げた先では、ゼトがニヤニヤと頬にシワを集めている。
「オマンだってそこそこの器量とええモンもっとるんじゃ。鉄打つばかりで華のない生涯だったのならば1度くらい色気を有用につこうてみぃ」
下卑ていた。
ゼトは、ヨルナの女性めいた丘陵を指さす。
老父のわりに白く整った歯を見せ、かっかと笑う。
しばし間を置いて理解する。それからヨルナは顔から火がでそうなほど真っ赤になった。
「こんのスケベジジイ!! 珍しくまともな話をしてくるとは思ってたけど、けっきょくからかいたいだけじゃないか!!」
生娘の如く慌てて胸を隠し、罵声を飛ばす。
鉄打つ音は万と奏でたが、色気沙汰にはほとんど耐性がない。
男性と手を繋いだとき手汗はだろう丈夫だろうか。キスするときに鼻と鼻がぶつからないのか。初心を終えず世を去った乙女に色恋を知るよしはない。
ヨルナがパニックになっていると、それをゼトはさも愉快と豪快に笑う。
「なんじゃいなんじゃい近ごろ率先して人の子とつるんどるから擦った揉んだやってんのかと思うたぞ」
「ば、バカなことをいわないでください!! 僕とミナトくんはただの友だちでそういうやらしい関係じゃないですから!!」
そういう関係。そんな曖昧な表現でもつい頬が熱くなってしまった。
鍛冶師としては1級だがそれ以外はてんで手につかない。だからこうして軽くからかわれるだけでも羞恥に燃えてしまう。
とはいえゼトもまたただセクハラをしたいというより師として悔やむ心もあるのだ。子さえなさず鋼鉄ばかりに打ちこんだ不貞の弟子を叱る心もあるはず。
「ところで人の子はどこにおる? 最近は毎晩ここにきておると耳にしちょるぞ?」
ゼトは白髭を絞りながら重い腰を上げた。
それを見てヨルナも頬を叩いて羞恥を振り払う。
「あそこにいますよ、ずっと」
「……ぬぅ?」
ゼトは差し向けられたヨルナの指先を視線で辿った。
円形に切りとられた決闘場の端に、彼はいる。
「なんじゃい……ありゃあ?」
どうやら彼の放つ不穏な空気に気づいたらしい。
霞眼の端をすぼめながら手を構え日よけを作ってまじまじと眺めた。
遙かに、ただ1人のみ。隔絶されたかの如く闘技の音から離れた場にぽつんと座りこんでいる。
朝と昼の2部鍛錬に加えて、さらに夜は寝る間も惜しむ。とてもではないが常人の域を逸脱した過労だった。
だが、少年の瞳は生を止めておらず。どころか血走った眼ははっきりとし、周囲を無作為に睨みつける。
「……さ、殺気だっちょる。ガキのくせになんちゅう眼しとるんじゃ……」
強者であるゼトでさえ奥歯を噛み締めるほど。
それほどまでに彼の姿は、ブザマで、みすぼらしく、異質だった。
あれを見たことでようやく止めようがないことを知ることになる。
「朝剣聖様と鍛錬して午後はちび師匠と鍛錬して夕方以降はずっとああしているんですよ。ここ数日僕は彼の寝ている姿を見ていません」
「諦めさすどころか前より前のめりになってやがらぁ。薄汚れてなお高潔にあろうとするさまはまるで追い詰められた狼のようじゃわい」
いまの彼を止めることは殺める以外にない。
しかも周囲にまとう様相はまさに鬼気として羅刹の如し。
ぎょろぎょろ、と。眼ばかりを動かしながらじっ、と戦いの空気に浸っていた。
「あの始末じゃ根を詰めすぎて決闘までもたねぇ。そろそろ間に入ってガス抜きしてやらにゃ潰れっちまうぞ」
師のいうことも一理あった。
友としてならば身を案じ、止めるべき。
しかしヨルナはのっそりと動きだす師を手で制して留まらせる。
「なんのつもりじゃ……あのまま人の子が潰れてもいいってことかい」
「いえ、きっと彼はいま分厚い繭をやぶって蛹から蝶になろうと足掻いている途中なんです」
諦めようとすれば、いつだって出来る。
辛くても苦しくても諦めて荷を下ろしてしまえばいいだけのこと。
しかし彼という人間は決して挫けようとはしない。ただひたむきに猪突猛進とばかりにひた走る。
「だから僕は彼が潰れて倒れてしまってもいいように遠間から見守ることに決めました」
ヨルナは目を猫のように細めた。
決して視界から外さぬよう友の姿を映しつづける。
やりたいようにやらせてやろう。それでダメなら慰めてやれば良い。
それがヨルナにとって友と呼んでくれた友へ贈る手向けだった。
「不器用じゃなぁ……オマンら」
「僕は器用ですよ、なにしろ師匠の弟子なんですから」
ヨルナが朗らかな笑みを傾ける。
するとゼトはそれを見て太い喉鳴らす。とっぷりと重いため息を吐くのだった。
人と龍の勝敗はすでに決しているに等しい。これは世の道理といって過分ではない。
相手は大陸最強種族の龍であり、技術を磨いた剣聖である。才ある者がさらに時を経て培い得た力こそが、盤石だった。
ゆえに1月後に差し迫った勝負の行方は日の目を見るより明らか。棺の間の救世主たちの誰ひとりとしてミナト・ティールの敗北を未来に見ている。
――勝つのは無理、だけど……。
ならばなぜ――ヨルナ含め――多くの者が目を逸らすことができないのか。
救世主たちはいまもみすぼらしい少年をどこか視界の端で捉えていた。
少年がいったいどこまで食らいつくのか、どんな足掻きで剣聖に立ち向かうのか。異世界種の人と呼ばれる種族が、現大陸最強種族にどう刃向かうのか。
つまり見たいという欲求に抗えないのだ。期待値でいえば勇者と決闘をしたとき以上に白熱しているといっても良い。
「……む? ずいぶんと珍しい客がきなすった」
ふいにゼトの太くしわがれた銅鑼声が鼓膜を揺らす。
ヨルナは巡らせていた思考を止め、一拍遅れてそちらを向く。
「あの状態ではもう数日で限界ですね」
救世主たちの鍛錬する手が止まっていた。
そして驚愕の視線が1点にむけられる。
「あんなのもう見ていられないですよ。ノイローゼになっちゃってるじゃないですかぁ」
「確かにフィナ子さんの情報通りよからぬ方向に向かっているようですね」
現れた珍客は2名おり、金色と銀色の三つ編みが2本ほど。
そしてどちらの女性の腰にも剣鞘が添えられている。
「監視を頼まれていたんですがあんなのテレノア様とザナリア様に報告できませんよぅ……」
女性は聖女直属の聖騎士姿だった。
首を揺らすと尾のように結んだ髪がゆらゆらと揺れる。
棺の間に現れたのは、リリティア・F・ドゥ・ティールと、聖女直属の聖騎士フィナセス・カラミ・ティールだった。
リリティアはしばし手を口に添えて思案のポーズをする。そして遠間に座りこむ人の子を見て目を細めた。
「フィナセス・カラミ・ティールさん。貴方を大陸現最強の剣士と見こんだ上でご依頼したいことがあります」
「……へ? どうしたんです突然かしこまっちゃって?」
唐突に名を呼ばれてフィナセスは銀目を皿のようにした。
流れから察するに彼女は双王からの勅命で人の子の監視をしていたのだろう。
そして監視しているうちに追い詰められていく少年を見ていられなくなった。
それどころか新双王のふたりと彼は親しき友人でもある。王に仕えるフィナセスの口からあの現状を説明できるはずもない。
「ミナトさんが決闘を諦めてくれることが最善でした。だから私もこの世界を好きになっていただけるよう努力もしました。しかしどうやら力が足りなかったようです」
次の瞬間ヨルナは耳を疑った。
剣聖リリティアが正気なのかさえ信じられなくなってしまう。
それはあまりに過酷だった。だからフィナセスでさえ敬服する剣の熟達者を見る目が変わる。
「まさかそれ……本気でおっしゃっておられるのですか?」
真剣な顔立ちに多少の戸惑いが入り交じっていた。
しかも剣聖リリティアからの返答は、「はい」率直で、残酷だった。
「それにきっと貴方の使える主君たちもこの結末をお望みのはずですよ。大切なお友だちが苦しむ姿より笑っている未来のほうがいいですからね」
フィナセスは、それ以上確認をとろうとはしなかった。
凜とした横顔で口を閉ざし、ただ黙するのみ。
「…………」
剣に手を添え、否定すらせず佇むだけだった。
もし彼女が条件を呑んだとすれば、はじめからこうなる運命だったのだろう。
世界は彼を手放すつもりが微塵もない。少年がその身に呪いを宿した時点で、運命は一方向に流れつづけている。
そう、この終末世界の終着点が決められているのと同じように……。
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