300話 彼方より愛を籠めて《Brave ones》
残響の如く胸の奥でどくり、どくり。強まった鼓動がまだおさまらない。
熱く滾る感情と冷える指先に死闘の余韻を残す。
身に余るほど広大な戦場に立っているのは1人きりだった。
「なんとかなったか」
ミナトは、己の手から視線を上げ、深く肺を絞る。
勝利を実感出来る余裕は、いまのところまだ早い。
今回の策は一種の賭けだった。それも一か八かの大博打。1つでも組み上げをミスすれば奈落へ墜ちる脆弱な賭けごと。
「うわぁ……左頬がすごい腫れてる。これは脳震盪から覚める前に治癒しておかないと」
いっぽうでルハーヴの容態は、比較的軽傷だった。
棺の間の治療班たちが手慣れた様子でせっせと治癒魔法による治療を行っていく。
「へぇ。まるでドワーフにフルスイングでぶん殴られたかのような傷ねぇ」
「あの閃光で目を潰されて盲目だったみたい。だから受け流せなかったと見るべき」
治療に当たっているのはエリーゼと、もう1人いた。
ウェーブを描く流麗な長髪。背ろ姿でもスタイルが良いのが一目でわかる。肉付き良い腰回りやしっとりと斜面を作るなで肩が女性らしさを強調している。
なにより彼女の背には翼が生えていた。丸い円上の腰からも鱗尾がたらり、垂れて砂を混ぜる。
「それにしてもまさか西方の勇者があれほど簡単に負けるなんてね。ずいぶんと意外な大番狂わせを見せられた気分よ」
「そう?」エリーゼの返答は短く簡素だった。
それから「ヒール」濡れた唇が眠たげに言葉を紡ぐ。
ほんのりとした光が繊細な白い手に宿ってルハーヴの傷を癒やしていく。
「私は5分5分と見ていた。だからこの結末にはとくに驚かない」
頬、目、それと耳。順繰りに光を沿わせる。
すると幽けき光はさながら命を吹きこむ慈愛のよう。
赤紫に腫れたルハーヴの頬がみるみるうちに元の肌色をとり戻していく。
「あら? 救世主のなかでもとくに他者との関係希薄な貴方にしては珍しい見解ね?」
「事実を予測していただけ。それ以上でも以下でもない。努力は絶対に期待を裏切ったりしない」
ふぅん? 紫煙の如き髪色をした長身の女性が振り返った。
漠然と聞き耳を立てていたミナトと目が合う。
が、その直後。猛烈な勢いで人同等の質量がミナトに襲いかかる。
「――ぐふぅッッ!!?」
尋常ではない早さで舞いこむ。
目が決闘に慣れているというのに反応が一瞬遅れるほど。それほどまでに猛烈なタックルだった。
ミナトは飛びこんできた少女を慌てて両手でキャッチする。そしてそのままぐるりと下手な舞踏よろしくの千鳥足で勢いを受け流す。
鼻先に触れる毛先から遅れて甘い香りが鼻腔を抜け、柔らかい感触を全身で理解する。
「おま、試合終わった直後なんだからもう少し加減を――……うっ!」
胸のなかにおさまる少女は、涙目だった。
ヨルナは、ミナトの胸板にぐりぐりと額をこすりつける。
「ばかぁ……!」
甘く耳が痺れるような蔑みだった。
慌てふためくミナトをよそに、ヨルナは逃がしはしないとばかりに背へ手を回す。
これをどうやって押しのけられよう。しかも唐突な出来事だったので思わず抱き留めてしまった。
身と身がぴったりと密着する。惜しむらくは胸当てがなければもっと彼女の感触を味わえただろう。
「すっごく心配、したんだから」
むすっ、と。ヨルナは顔を上げると両頬に空気を溜めた。
むくれしながらもいっこうに離れようとはしない。手を添えた身体があまりに華奢。肌は滑らかで柔らかく、なにより腰上のくびれあたりは驚くほど細い。
大胆な行動と普段見せないヨルナの少女な部分に当てられてしまう。ミナトは口ごもり二の句が継げなくなってしまう。
「ご、ごめん。もうこういう無茶は止める」
頭に血が上って冷静さを欠いたのだ。
いくら彼女のためとはいえあまりに愚かで無謀な向こう見ず。だからもう正直に罪を認めて謝るしかない。
するとヨルナは一変して吊り上がった目尻と膨れた頬を、にんまり。和らげる。
「うんっ、許してあげるっ」
「……へ?」
「でももう誰かのために危ない目に遭うのはなしっ」
めっ、と。ようやく背に回した手を解いて解放してくれた。
怒っているのやら、喜んでいるのやら。
――豹変するから思わず謝ってしまった。女って怖いな。
きっとヨルナのことだからそのどちらもか。
勝手に決闘をこじつけた側へ怒り、勝利したことを祝してくれている。
ミナトは、名残惜しい心地よさを覚えながらもヨルナから手を退けた。
「とにかく怪我とかはしてないよね?」
「骨には問題ないと思うから腹が青あざになったくらいかな。あと少し耳がキンキンするていど」
「あはは。あの音を目の前で聞いちゃったらそうなるよねぇ」
ようやく友の距離感が戻ってくる。
ヨルナは踊るような足どりで砂に横たわる骨剣を「はいっ」と手渡す。
受けとったミナトは「せんきゅう」贈り物を腰の剣鞘へおさめた。
未だ会場は動揺にどよめき揺らいでいる。
観戦していた救世主たちが差し向けられた現実を受け入れられていない証拠だった。
全力をだしたルハーヴは敗北し、奇策でミナトがそれを打ち倒す。誰がどう見ても完全勝利は覆らない。
――龍族はこれ以上か……途方もないな。
思い残すことは数え切れないほどあった。
だがいつまでも勝利の余韻に浸りつづけていては心身ともにふやけてしまう。
目指すステージはもっと遙か遠くに鎮座しているのだ。だからもうここいらで一件落着としてもいい頃合い。
「俺は……」
踵を返しかけた足が止まった。
視線を声のほうへ向けると、そこにはルハーヴが目覚めている。
長い手足を放りだすよう砂の上で大の字に寝転がっていた。
怪我はすでに完治しており戦う前とでまるで変わらない。しかしその姿に哀愁はあれど、槍もなく、闘気もない。
「まだ立つかい?」
起きがけに意地の悪い質問だった。
しかしルハーヴはミナトに一瞥としてくれず。ぼんやりとした眼差しで天を仰ぐ。
「そうか。俺は……負けたのか」
酷く痩せた吐息だった。
すでに立ち上がる気力さえ残っていない様子いないらしい。
これはつまり負けを負けと認めたことに他ならぬ。ミナトは仁王立ちで敗者を高い位置から見下す。
「アンタが負けたんじゃない! オレが勝ったんだ!」
「意味が変わってねぇんだよ、調子乗んな畜生が」
舐めた悪態にすら気が入っていない。
ルハーヴは遠い空に目を細める。
「なんで最後に気絶した俺へトドメを刺さなかった? 勝利確定させてぇのならそれくらいやったほうが手早かっただろ?」
「オレが目指している強さは殺すものじゃなくて守るための強さだからな」
甘ぇな。思いのほかしおらしい返事だった。
そもそもミナトにトドメを刺すという発想自体がない。救世主である彼は肉体をとうに捨てた魂のみ存在。トドメを刺したところで主であるレティレシアがいる限り不滅。
ならばやるだけ無駄というもの。真に不必要な殺生なんてただの無駄でしかないのだから。
「オレが勝ったとはいえ奇襲みたいなものだからな。明確な勝ち負けが決まったとは思ってないよ」
「るっせぇ、同情すんな。そもそも戦場で奇襲喰らった時点で積みなんだよ」
ミナトは、ルハーヴの横に腰を据えた。
正直なところもう立っているのでさえ面倒なくらいクタクタだった。
肉体疲労というより精神的な負担のほうが大きい。たかだか半刻ていどと思うなかれ。勇者の槍を回避することは精神を摩耗しつづける行為に等しい。
「あの光が弾けた瞬間、本当に一瞬だけ、思いだすことが出来た」
「……思いだす?」
ミナトが首を捻るも、ルハーヴは眉ひとつ動かすことはなかった。
それどころか空を見上げたまま。とつとつとつづける。
「俺がエーテル族に連れていかれるとき一部の連中は泣いてた。あざ笑うのとは真逆。食い縛って、血が滲むほど拳を握りしめ、声を殺し……泣いていたんだ」
風化した歴史を辿るような声だった。
それはきっと風前の灯火。勇者が朽ち墜つ直前の風景を見ているのだろう。
「あのとき俺を売ったのはアイツらじゃなく名ばかり領主連中たちの強制的な意向だ。上座に座ることしか考えてねぇお飾りみたいなヤツらにとって俺の存在は邪魔だったんだろうな」
バカと煙は高いところが好き。言いかけてミナトは口をつぐむ。
言葉から歴史の背景まで察することは難しい。
しかし名声や富、権利などを欲しがる連中からすれば勇者は邪魔でしかない。さらに領民に羨望されていたのだとしたら嫉妬で狂うしかない。
「俺は……あのとき1人ぼっちにされちまったんだと思った。手を縛られ切っ先を向けられながら死の恐怖に震えた。そんで本当に守りたかった仲間たちへありもしねぇ憎悪を向けちまった」
仲間に裏切られた。
仲間のために命懸けで戦った勇者ルハーヴにとってこれ以上の罪はない。
それはきっと心が捻じ曲がってしまうほど。死の直前を塗りつぶすほど。
仲間を信じつづけた勇者だからこそ、強烈なショックだったに違いない。
「けっきょくのところお前のいう通りだった。生前の俺は孤高の勇者である自分と都合の良い仲間の幻想に陶酔していたんだろうよ。だから……いまだにこんなところで燻ってんだよな」
情けねぇや。ルハーヴは恥じ入るみたいに手で目を覆う。
まるで懺悔だ。生前に犯した罪を独白する。
そこに元あった勇者の高慢さや威嚇的態度は微塵もない。すっかり折れ落ちた枯れ枝であるかのよう。
「せっかくまだ生き残ってるのならまた歩きだせばいい。残り寿命が半年もないオレと比べれば無限に時間があるようなものだろ。せっかくだし勇者伝説を広めた足跡でも辿ってみたらいいじゃないか」
「だからガキが俺のことを慰めんじゃねぇ。お前の状況と比較したら大抵の生物が天国じゃねーか」
負けたはずのルハーヴの横顔はやけにすっきりとしていた。
憑き物落ちて、気だるげに身を起こす。
そしてどちらともなく差しだした拳をぶつけ合う。
これで完全な決着だった。この高潔な結末にケチをつける無粋な輩なんているはずがない。
――……いや、確実にひとりいる。
嫌な予感は予測という確信だった。
彼女は自分の思い通りにならなければ気が済まない。
ことこの領域に至っては彼女が王であるのだから。
――空気とかまったく読まない傲慢で強欲で自己中心的の女王。
「なぁに1人で勝手に気持ちよくなってやがるんだァ? 余の選出した救世主にあるまじき恥さらし野郎がよォ? 主の顔に泥を塗っておきながらずいぶんと楽しそうにしてるじゃねぇかァ?」
(区切りなし)




