271話 余熱のあとに
死地を踏み越え帰路につき命からがら帰還した頃には夜更けだった。
すでに体力は底をつき這々の体でテーブルに崩れ落ちる。
「ひどい一日だったなぁ……」
座ってみるともう立ち直る気力すら湧かない。
木の宅に鼻を押しつけると芳醇な自然の香りが鼻腔いっぱいに広がった。
前進余すことなくボロボロ。だが汗を流すことさえ面倒。もういっそ泥のように眠りたい気分。
「朝の残りを温めてあげるからまだもう少し起きてて」
「……たのんぱす」
机に突っ伏すミナトを横目にヨルナはふふ、と猫のように目を細める。
「ゆっくりするなら装備を外したほうがいいよ。紐を緩めるだけでも血が巡って楽になるから」
そういっていそいそとエプロンを装着しキッチンのほうへ向かう。
炉に溜まっていた煤を掻きだし袋に詰めてから薪を焼べていく。
ミナトは気怠く身を起こす。助言通りに胸当ての紐をするすると緩める。
「そういえばヨルナって火の起こしかたが異様に上手いよな。オレがこの間やったときなんて30分はかかったぞ」
「鍛冶師にとって炎と炭と煤は友達みたいなものだからね。ようは慣れだよ」
火口を手で揉み繊維の間をほぐす。
それから「《ローフレイム》」と魔法を唱え種火を作った。
「ふーっ、ふーっ」
おちょぼ口から送られてくる風に炎が踊る。
あっという間に燃え上がった火を炉に放れば、それで完了。
「ん? なにささっきから僕のことじっと見ちゃって?」
「つくづくローカルだなぁ、と思っただけだよ」
「あーなんかそこはかとなく馬鹿にされてる気分するー」
ミナトの物言いに気分を害したか。
ヨルナは可愛らしくふてくされる。唇をちょんと尖らせた。
「とても逞しいです、って意味だから勘違いしないでほしい」
「一応僕幽霊だけど女の子なんだよね。そんな相手に逞しいっていうのもなんだかなぁ……」
部屋が暖まるにつれて瞼が重くなっていく。
火の揺らぎ、薪の爆ぜる音、嗜むていどの鼻歌。こうしていると先ほどまで死と同居していたとはとても思えない。
そんなまったりとした情景に微かにくすぶる記憶があった。
「ま、それもオレが無能だからなんだけどさ」
「なんかいった?」
「いえなにも」
とろけ瞼で頬杖をつき嘲笑気味に鼻を吹く。
ミナトの心中では絶賛自虐中である。
自責の念というわけではない。だってあの場では最適解を引いたという自負があるのだから。
だが、それでも救えなかった。もしあのまま助けが入らねばいまごろは……――なんて考えても仕方がないか。
「ちょっとお風呂のほうにも火を入れてくるね。たぶん斡旋所への報告を終えたちび師匠が真っ先に入りたがると思うから」
仕込みを終えたヨルナがこちらへ振り返る。
ミナトは気怠げに手を軽く払う。
「大雑把に見えてけっこうきれい好きだから帰宅即風呂だろうしな。風呂上がり裸のまま歩き回るのだけはやめてほしいけれども、だ」
「あはは。もういっそのことそういうものだと断定して見慣れちゃったほうが早いかもだね」
そういって彼女は軽快な笑みを引き連れ、浴室へと向かう。
ショートパンツから伸びるおみ足をぱたぱたと、小走りに駆けていく。
見送ったミナトは再び宅の上に突っ伏す。
「龍の力……ねぇ」
まざまざと見せつけられた。
それはもう否定しようのないほど克明に。
――3人掛かりで仕留められたのは、1匹のみ。多数になった途端逃げることしか出来なかった。
なのにそんな苛烈な状態をあの偉大な龍は一瞬で看破して見せた。
どれほどの力をもってしてもとうてい届かぬ。それだけの巨大な強大な強制力だった。
燃える髪、有象無象を滅する白炎、恐ろしさと美しさを兼ねる毅然とした佇まい。
――わかっていたことだけど……とっくにわかっていたことだけど……。
「あれと同種族と闘うとか……きびしいよなぁぁ!」
あの光景は些か残酷すぎた。
ミナトは卓に鼻を押しつけながら呻くことしか出来ない。
するとそんな萎れかけの横からひょっこり愛らしい顔が覗く。
「だいじょうぶ? おなかいたいの?」
モチラが低い位置からミナトを覗きこんでいた。
眉根を寄せながら身を案じるよう白い農夫着の裾を摘まむ。
ルビーの如く爛々とした瞳が潤いをいっぱいにして揺れている。
ミナトはたまらずモチラの赤い髪をそっと指で梳く。
「オレていどの実力じゃあモチラにも勝てないんだってさ」
「え、うん。絶対に負けないと思う」
即答だった。
「……。いうようになったじゃないか生後1ヶ月の小娘如きが」
むっ、と。少し力を入れて雑にわしゃわしゃした。
と、モチラは気持ちよさそうに目を閉じて享受する、
むっちりと肉の詰まった赤色の尾っぽをワイパーのようにぶんぶん振る。
種族差は顕著だった。世の理に抗えぬほどに明確で、深刻だった。
ここで虚ろな静けさが漂う屋内に金擦れの軋みが割りこんでくる。
「ここが巣か」
ゆっくりと外につづく唯一の木扉が開かれていく。
そうして現れたのは、女性とは思えぬほどの長身かつしみったれた古民家に似つかわしくない秀麗さ。
存在ひとつで空気がきりりと引き締まるのがわかった。それほどまでに彼女はカリスマに満ちている。
「どうやらあっていたようだな」
女性は紅玉の如き視線を振った。
直後に見つめられたモチラの全身がビクンと跳ねる。
「ひゃっ!?」
まるで驚いた猫のように家中を駆け巡った。
部屋のなかを落ち着きなくうろちょろ。縦横無尽と駆け回る。
しばらく暴れ回ったかと思えばテーブルの足の影にそそくさと隠れてしまう。
「…………」
「…………」
そして両者無言だった。
テーブルを隔てて母と子が対峙する。
とはいえモチラのほうは視線が定まってすらいない。カタカタと震えながら母の目から逃げるだけ。
「う、うううう……っ!」
端から見ても明らかだった。
モチラは怯えすぎるくらい己の母親に怯えていた。
「あれどういう状況?」
ふわり、と。チューリップのように開いた裾がたなびく。
空間を揺らがせながら実体化したのは、エリーゼだった。
突然の顕現だったが、いまさらだ。ミナトももうとくに驚いた感じもなく、淡々と応じる。
「感動の親子の対面には見えないよな。しかもあれで初対面だからよりタチが悪い」
「世界最強種族である龍の長、ね。偉大すぎる母親をもつというのも考えもの」
エリーゼはままならぬ母子にじっとり目を細めた。
ぬいぐるみを起伏したモノクロの布地部分へ抱いて沈める。
「とりあえずもの凄いってことくらいはわかるんだが……あの人ってどういう龍なんだい?」
「彼女の名は、焔龍。焔龍ディナヴィア・ルノヴァ・ハルクレート。そして種族特性である炎と生物特性である炎を掛け合わせながら生まれた伝説の龍、創造神の最高傑作」
エリーゼは、まるで語り慣れていてさも当然といった口調だった。
それほどディナヴィアという彼女の存在を世間が認めているということか。
――情報量が多いから最初の部分しか聞きとれなかった。
「大陸に彼女の名前を知らない者はいない。いたとしたら貴方たちのような潜りくらいなもの」
――……世間知らずだと思われたくないしとりあえず名前だけでも覚えておこう。
とはいえミナトとて初見ではなかった。
彼女とは、彼女でない姿のとき、遠巻きながらに出会っている。
対面というわけではない。聖都の空を駆る彼女を地上から見上げていたというだけ。
しかもそのときの彼女はいまのように麗しき女性の姿ではない。偉大なり龍の御姿であった。
「子よ。なぜ妾とともに巣へ帰ることを拒む」
「ひぅぅっ!?」
声をかけられた瞬間ビクゥッ、と。音がしそうなほどだった。
怒られたわけでも怒鳴られたわけでもない。しかしモチラはガタガタと全身を震わせながら怯えきっている。
エリーゼはぬいぐるみを口元へ引き寄せて声を曇らせた。
「凄まじい龍気と横暴なまでのマナ量。あれじゃ未熟な龍は彼女に怯えるか服従するしかない。とてもではないけど真っ当な親子関係が結べるはずがない」
「え。真顔でなんの話してるの、あと長文こわっ」
(区切りなし)




