270話【VS.】神気を帯びる天寵 セイレーン・アーロイ 4
響くようでいて押し殺した声だった。
ミナトとヨルナは同時に「は?」「え?」と、耳を疑う。
しかし鷹揚に振り返ったアクセナは、繰り返す。
「殿はあちしが責任もってやってやっからおめーらはいますぐケツ巻くって山から下りろ」
彼女は笑っていなかった。
どころか表情からも声からも感情が抜け落ちている。
「んでもって街の斡旋所に討伐は失敗したことを伝えておけな。あと軍を動かせって進言も忘れんじゃねぇぞ」
アクセナは有無をいわさぬ口調で淡々とつづけた。
ミナトには彼女の言っている言葉の意味がさっぱりわからない。
濃くなっていく闇の奥に幼き師の佇む姿をまざまざと垣間見る。
「……失敗ってなんだよ?」
恐る恐る。たじろぎながら問うことしか出来なかった。
アクセナは、地べたに横たわる大斧を拾い上げて担ぎ直す。
「失敗の意味は失敗以外のどこにもねぇな。相手は特殊個体。はじめっからこの数でどうとかなるような相手じゃなかったってこった」
そうして彼女はゆっくりとした動作で湖畔の側へと振り返った。
水面は未だ凪のよう。鏡面と見紛うほどに澄み渡っている。
ただし映すのは空ではない、宵闇。曇に覆われた天は暗く、まとわりつくような漆黒が周囲に立ち籠めつつあった。
すでに日は落ちきって夜が世界を包みこもうとしている。
「……なんだ?」
そしてミナトは水平の向こう側へ異変を覚えた。
半人半鳥が飛び立った中央の峰に、鋭利かつ獰猛な紅の点を、無数ほど。
それがなにを意味しているのかを認識するのと同時だった。
「む、群れだっていうのか!? あの強さであの数だと!?」
顔中の筋肉が痙攣する。全身の毛穴が総毛立つ。
そう、敵の本隊が峰の先端辺りからこちらの様子を窺っている。
まるで眠りを妨げられた虎のように群れ、こちらを虎視眈々と覗いているのだ。
「くんぞッ!! とっとと逃げろォ!!」
アクセナが吼えた。
それとほぼ同時刻に紅の点が一斉に空へ舞った。
1匹であれほど苦戦したのだ。とてもではないが捌ききれる数ではない。
しかもそのすべてが上空という利のある領域からこちらを一方的に攻撃可能となっている。
「さっきのは警戒役だったんだ! いま飛び立ったのが本隊――さっきまでのはただの囮!」
ヨルナは即刻双剣を呼び、握り直す。
「なに構えてんだおめーはァァ!! ヨルナはそこのアホを意地でも地上に連れてく役目があんだーッ!!」
「でもちび師匠はどうするのさ!? いくら強くたってあんな数の特殊個体を一斉に相手するなんて自殺行為だよ!?」
「だからとっとと逃げて軍を呼んでこいつってんだーな!! 連中が街へ一斉に羽ばたきゃどれだけの命が輪廻に惑うと思ってんだー!!」
2人のやりとりは喧々囂々と燃えさかるかのような様相をしていた。
アクセナはどうやら逃げるつもりがないらしい。大斧を構えてすでに対峙の姿勢をとっていた。
しかしヨルナとて己の師である彼女が死地へ向かうまいと食い下がる。
「ダメだよちび師匠も一緒じゃないと! 僕は霊体だから殿は僕が務める! だからちび師匠も一緒にミナトくんと下山するんだ!」
振り解くように頭を振って1歩踏みでようとした。
だがアクセナは仁王立ちで湖を睨みつづけている。
「……ソイツぁは特異点の1つだぁなぁ。ここでおっ死なせりゃ未来が変わっちまうかもしんねー……」
「ッ、まさか! それって――」
「いいからとっとと走れエエエエエッッッ!!!!」
隆々と哮る。
「っ!」
それに合わせてヨルナは踏みだしかけた足を止め、翻した。
このまま戦えばアクセナは間違いなく無事では済まないだろう。この場での殿とは確定した犠牲を意味している。
なぜならどう見ても助かる状態ではない。敵の数はゆうに20を超す。そのすべてが特殊個体の群れ。
「僕がキミの足になる! だから振り向かず全力で逃げるんだよ!」
ヨルナは飛びかかるようにしてミナトの身体に憑依した。
この状況、アクセナに助かる道はないだろう。それどころかミナトでさえ逃げられるかわからなかった。
『なにぼうっとしているんだい!? 早く僕に身体の所有権を明け渡してよ!?』
だが、断固として動かない。
憑依したヨルナからの凄まじい焦燥が伝播してくる。
それでもミナトは足に根でも生やしたかの如く在りつづけた。
「嫌だ」
ただひとこと、否定の言葉を口にする。
身体は震えていない、心だって怯えていない。
それでも逃げないのは、もう曲がりたくなかったから。
『ちび師匠は犠牲を1人で済まそうとして苦肉の策を選んだんだ! なのにキミが逃げなければちび師匠の覚悟さえ無駄になってしまう!』
どれだけ必死の説得でも頑なに応じようとはしない。
なぜならここには信念があったから。
「オレはもう死神には戻らない……! ノアのみんなを助けると決めたときそう誓ったんだ……!」
押し潰される直前のような風前の灯火。
ミナトからでたのは、歯を噛みしめながらの掠れだった。
するとヨルナは、ぽつりと『……死神?』繰り返す。
「オレの世界に入ってきた連中を死なせるもんか……! もしオレの世界で誰かを見捨てるくらいなら……! いっそここで世界ごと閉ざしたほうがマシだ……!」
死ぬよりも怖いことがあった。
己を曲げること。もう1度同じ地獄に還ってしまうこと。
すなわち信念がこの死地からミナトを逃がそうとしない。
「キミの世界? いったいなにをいって――っ」
黒き瞳の奥底に微かな蒼が灯っている。
信念を費やすがごとき儚き、蒼。呪いによって塞がれた人の、蒼。
「オレは否定する!! こんな残酷な世界はすべて否定して回ってやる!! もしオレ自身が肯定されないような世界ならすべてをぶち壊してでも否定してやる!!」
地の果てに沈み、足掻き、ブザマにも生き残った。
そんな脆弱な人間がただ1つのみ見る願いがあった。
それこそがミナトの目指す新世界への熱き思いでもある。枠組みを破壊した先に見る勇敢な新世界。
だが、小さな願いほど脆いものはない。すでに敵の大群はこちらの上空周囲まで迫りつつある。
「Kikyaaaaaaaaaa!!!」
よくも同胞を殺してくれたな。
「Yrararararara!!!」
粛正だ。粛正を与えよ。
「Kihyaaaaaaaaaaaa!!!」
貪れ。命の対価をその身で支払え。
夜を背負い憎悪渦巻く醜き合唱が四方八方から轟く。
そして半人半鳥はミナトたちめがけて一斉に青銅の両翼を振るう。
放たれた致命の矢は闇を切り裂き、つんざく。死の音色を奏でながら確実な死を与えるべく大気を凪いだ。
いっぽうでこちらに避けるという選択肢は、すでにない。宵闇によって攻撃の視認は不可。だからといって運良く躱せたところで次に生きる保証は皆無。
「ミナトくん!! ちび師匠!! 逃げてえええええええええ!!」
ヨルナから辛辣な悲鳴が上がった。
この瞬間。この場にいる誰もが死を覚悟していた。暴力的に振る舞われる終焉を闇のなかに見つづけていた。
しかし唐突に湖にまとわりつく闇が煌々とめまぐるしい明光によって払われる。
「《火炎の息》!!!」
滑りこむよう尾を引いて割って入ったのは、幼き子龍だった。
小さな口から大火が生まれつづける。盛大な炎は夜闇を吹き消すほど強烈だった。
青銅は、彼女の吹く灼炎の渦に触れた途端に蒸発するようにして消失していく。
「モチラちゃんどうしてこんなところにいるの!?」
「今日はついてくるなっていっただろ!」
あまりの急なモチラの登場にヨルナとミナトは面を食らってしまう。
彼女はあまりに幼すぎる。ゆえに街での留守番を頼んでいたはずだった。
しかしモチラはいまこうしてこの場にいる。つまりいいつけを破ってまでついてきてしまったということ。
そして彼女の登場によって九死に一生を得る。
「Kyakyaaaaaaaaa!!!」
「Kiiiiiiiiiiii!!!」
しかし防御するだけでは進展がないのと同じ。
半人半鳥たちは雑音の如き慟哭を歌う。
そして再び2波目の矢雨が一斉に放たれる。
「しな、せない……! ミナトはぜったいにしなせない、の……!」
「……モチラ、お前……」
モチラは天空に灼熱を吐きつづけた。
夜を裂き死を運ぶ青銅の羽を己の炎で溶かしていく。
だが敵の攻撃は間断なく行われ、およそ絶え間ない。もし傘となる炎が弱まれば次の瞬間に一党らへ襲いかかるだろう。
「このままじゃマジぃぞ!! たとえ龍とはいってもまだ幼すぎて体力がもたねぇんだー!!」
アクセナの懸念は、真っ当だった。
いまのモチラは誰が見ても無理をしている。
「う……! ううう……!」
幼き面いっぱいに苦悶が広がっていた
炎を生みだすので必死といった感じ。両手をかざし両足で踏ん張ばる。
額にはこびりつくような汗をたんまり浮かべていた。とてもではないが見るに堪えない。
我武者羅な乱入だったが、そう長くはつづかなかった。時間にしては10秒ほどか。少々命が長くつづいただけ。
「あっ」
限界を迎えた彼女の炎がとうとう消滅する。
直後に幼き龍目掛け、青銅の矢が無数と降り注いだ。
「……いたっ……」
うち1本がモチラの白い頬を凪いだ。
薄くぷっくりとした肌は容易に避け、鮮血をつつ、と漏らす。
「あ、あああ……!」
それだけでぺたんと尻から落ちてしまう。
空を見上げる瞳は恐怖に濡れ、全身を凍えるみたいに震わせる。
次の矢が彼女を襲う直前にミナトは走っていた。
「――モチラぁ!!」
助けられる目算なんてあるものか。
ただ脳を介すよりまえに己の身が盾になろうとしただけにすぎない。
ミナトは覆い被さるようにモチラの小さな身体を抱きしめる。その身を盾として子龍を守る。
だがしょせんただの肉盾でしかない。青銅のすべてを受ければ肉は裂け、千切れ、跡形もなく消滅するだろう。
とうとうこの惨劇にも終止符が打たれようとしていた。二転三転あった後の悲惨な結末で幕を閉じようとする。
「《猛火烈炎の――」
絶望のさなか。ミナトの視界の端のほうで粉が舞った。
微かな粒は光をまとい踊るように仄めき、橙色。
さらに聞き覚えのない美しくも悠然とした声も同時に響く。
「吐息》」
一瞬何が起きたのか理解に苦しむ。
ただいえることがあるとすれば、世界が白一色となった。
夜すら消える。闇が影ごと吹き飛ぶ。森羅万象ありとあらゆるものが有象無象と化す。
1点より生みだされた白き揺らぎはさながら光線のよう。しかし形と現象としては間違いなく炎だった。
その大いなる白炎に空と半人半鳥が飲まれると、形を失い滅される。
「Ki――」
「E――」
「A――」
どの個体も悲鳴を上げる暇すらない。
おそらくは痛みを感じる間もなく、掻き消える。
圧倒的な現象だった。それすなわち抗いようのない暴力でもあった。
そして白き炎の収束の後。間もなく静寂たる夜が訪れたのだった。
「まったく……誰の許可を得て種族の身体を選別したというのか。ほとほと呆れるとはまさにこのことよな」
現象を呼び起こした女性は凜と佇む。
身長は180cmはあるだろうか。ハイビスカス色のドレスは華美の象徴であるかと思うほどに鮮やかで、高潔。
背には大きな翼を携える。丸いシルエットの臀部からは鱗の刺立つ尾がひょろりと伸びる。
彼女には闇が届かない。周囲には存在を証明するかのような橙をした粉が宿されていた。
「妾の子で在りながらそのていどとは遺憾の極み。敵を前にし牙を剥かずへたりこむなんぞ龍の恥と知れ」
ひたり、ひたり。秒針を刻むような速度で白き素足が砂を踏む。
歩むたび燃えるような赤い髪と起伏の顕著な女性的突起が揺らぐ。
そして目の覚めるかのような流麗な美貌は侮蔑を孕んでいた。
濃い紅の瞳はただ1匹の幼き龍にのみ向けられている。
「あまり妾に手間をかけさせるな。もし我が子でなくば見捨てていた」
「お、かあさん……?」
モチラはさあ、と青ざめた。
とてもではないが子を見る目ではない。捨て石を拾うかのような粗雑なもの。
「おかあさん、って……まさかあれがモチラの母親ってことか!?」
「あ、あれは焔の龍……!」
唐突な乱入者に目を白黒させながら驚きすくむしかない。
ミナトとヨルナは死を目前に突きつけられた恐怖さえ忘れる。
そんななか現れた女性は驕慢な仕草で尾と裾を翻す。
「巣へ。帰るぞ、子よ」
死線を越えて生き延びた。
だが、問題は山積みらしい。
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