266話 湖面の覇者《Bronze Unknowns》
赤土色をした燃える大地に煌々とした夕日が沈もうとしていた。
空を渡るような稜線をしばらく進んだ先でようやく目的の源泉部が姿を現す。
目下の窪地にはエメラルドグリーンの湖が広がっている。
「山越え谷越えやってきた先がこれとはたまらんな……! 観光地にでもすれば一儲け確実だぞ……!」
『確かにこの光景は荘厳で神秘的だねぇ……! 宝石のように翡翠色をした輝く湖なんて生まれてからも死んでからもはじめて見たぁ……!』
ミナトとヨルナは思わずといった感じで熱い吐息を口から漏らした。
眼下に広がる美しき背景は雄大としか形容しようがないほど、神々しい。
ここまで難航した道中でさえもはや意識の外。あまりの美しさに目を奪われ、疲労が軒並み吹き飛んでしまう。
「こんな標高の場所に湖レベルの湧き水が湧いてるってことはねーなぁ。っとするならここは創造神が作った大陸聖域のひとつかもしれねーんだなー」
アクセナは目端を絞りながら大斧を肩へ背負い直す。
美しき光景を讃えるミナトたちとは違って、どこか不快げ。
声に棘のある気迫を籠め、口角を歪ませている。
「いつまでも見とれてねぇでとっとと降りんだー。日も暮れつつあっしなによりここにきた目的は観光じゃねーってことを忘れんなー」
有無をいわせぬといった具合だった。
アクセナは、呆けるミナトとヨルナをじろりと睨みつけ、舌を打つ。
それから岩の転がる傾斜をスカートを蹴るみたいにのっしのっしと下っていってしまう。
「アクセナのやつなにに怒ってるんだ? まあ日暮れ前に済ませたいのはオレも賛成だが……」
ミナトが横に首を捻った。
すると彼の横に揺らぎが生じて幽体は実体へと変化する。
「もしここがちび師匠の予想通り大陸聖域だとするとハイヴにしている魔物がちょっと厄介なことになってるかもしれない」
ヨルナは現れるなりすでに細剣と短刀を握りしめていた。
表情は日常より幾らか凜々しく引き締められている。黒い瞳を巡らせながら周囲をくまなく探っている。
「防具の点検と抜剣をしておいたほうがいいかもだね。もし予想が最悪の方向に転がれば僕らはもう敵の領域に足を踏み入れていることになる」
声を鎮め、首巻きを引き上げ口元を覆う。
彼女のいう通りでここはすでに目的地なのだ。つまるところ商隊を襲った敵の本拠地ということになる。
ヨルナは警戒状態に入っていた。ここにきてやっとミナトも本来の目的と現状を脳に巡らせる。
「そのサンクチュアリなんちゃらは良くわからないが……ヤバいってことだな?」
その問いに「そうだね」、と。僅かな冷気を帯びた肯定が返ってきた。
「大陸の歴史上こういう神聖とされる場所にはごくたまにだけどヤバいのが湧くんだよ。そして大概が碌でもない」
「……注意だけはしておいて損はなさそうか」
ミナトは意識を切り替え引き締めことにする。
胸当て装具の革ベルトを締め直す。
腰のポーチからナックルラップをとりだし骨剣を引き抜いてから柄に巻きつけ固定する。
胸当てと剣はいままでの冒険で得たもの。ビッグヘッドオーガの骨盤とエヴォルヴァシリスクの背骨。どちらも討伐成功の功績だった。
特殊個体から得た素材をヨルナという最高の鍛冶師が仕立てた最上級の装備。どちらも骨具で軽く鉄より柔軟である。身につけている窮屈さはなく行動を阻害することもない。
ヨルナは、ミナトの準備が整うのをちら、と確認してから歩きだす。
「さあ。ちび師匠にドヤされないよう僕たちも警戒を解かずにしっかりついていこう」
清淡な声色だった。
対してミナトは指先から温もりが引いていくのがわかった。
ああ、と。短く応え、慎重な足どりで不安定な足場をくだっていく。
薄氷の如き緊張感が立ち籠めつつある。寒さとは異なる冷気が霧のようになって身にまとわりついてくる。
ミナトは剣を装備した腕を回し、回し。肩をほぐしながら瞳だけで周囲を警戒した。
そしてようやく礫地を越えて湖を囲う柔らかな砂の感触を足裏に覚える。
「どう? ちび師匠なにか異変は感じそう?」
「まだちっともわっかんねーなー。だがこのエリアに入った瞬間いやーな気配を感じたんだなー」
アクセナと合流したヨルナはきょろきょろと辺りを見やる。
しかしこちらの警戒と転じて辺りの様子は物静か。
重く咽せるような空気とは裏腹に前面に広がる湖面は見事なまでに美しい。
波紋すらない凪の水面は鏡のよう。周囲を取り巻く斑の岩壁が逆さになって映しだす。
広々と広がる湖の中央辺りにはにょっきり、と。打ち上がるような長い大岩が切り立っている。
――なにもないってことはアクセナの杞憂か? でもここが巣なら商隊を襲った魔物がいるはずだが?
脳裏に過らせ、はたと気づく。
ここが本当に目的地だとすればなにもないわけがない。
なぜなら討伐対象を求めてここまで登山をしてきたのだ。
あるとすればアクセナの勘違い。山勘が外れて明後日の場所へやってきてしまったという可能性もある。
そしてここの湖はあまりにも美しく、神聖で、侵しがたい。
耳が痛くなるほどの静寂によって満たされていた。
「……?」
ふと、偶然だったか。あるいは必然か。
ミナトが湖を上から覗いていると、水面でなにかが動いたのだ。
「虫? いや魚……か?」
こんなに広い水場なのだから生物の1つ2ついてもなんらオカシクはない。
だが、ミナトが見ているものはそれらのどれでもない。鏡面の如き湖のなかに映っているものだった。
「なにかが水のなかに……潜ってる?」
異変の影は眼下にある水面に潜っている。
しかし現実としては、否。下がっているのではない、上がっていた。
水面には逆しまな風景が映しだされている。そして湖を貫くように生えた中央の峰から飛び立つ物体が1つほど、映しだされているのだ。
「空だーァ!! 上からくんぞーォ!!」
次の瞬間アクセナは上空を睨みつけた。
ミナトは驚きつつ弾かれるようにして瑠璃色の天を仰ぐ。
上空の影には、とうにこちらを狙うだけの十分な猶予が与えられている。
敵影は両腕からしな垂れる裾のようなものを振るう。
「攻撃!? 投射物か!?」
ミナトは即座に剣を構え、待ち構えた。
分離した裾の部分から削げた物体が頂点より迫りつつある。
受ける準備は万全だった。しかしミナトは横から伸びてきた手に首根っこを引っ掴まれてしまう。
ヨルナは彼を引きずるようにして颯爽とサイドステップする。
「ヨルナ!? なにを――」
「迎え撃つのは敵の攻撃法が判明してから!! 基本は回避!! 待ち受けるのはその次!!」
声に相当な焦りを孕んでいた。
ヨルナの口調はミナトを捲し立てるかのように荒い。
回避という選択を選んだ、その1秒後に投射物が元いた位置へと降り注ぐ。
「せ、青銅の羽根だとっ!? そんなものが自然界にあるわけ――」
「この世界ではあり得ないがあり得るんだよ! だから油断すれば1撃で生命さえ脅かすのが魔物という変体なんだ!」
判断ミスを痛感するには十分だった。
元いた影には青銅の羽根が砂地が窪むほどの威力で真っ直ぐに突き立っている。死という単語をまざまざと見せつけられてしまう。
上空より投射されたのは、羽根の形をした青き鋼の礫が幾数本ほど。重量もかなりあるらしく突き立った周囲の砂が抉れてしまっていた。
――もし受けに回ってたら、死んでいた……!
濃密な死。全身の毛穴がいっぺんに開くのがわかった。
背には浮いた汗がびっしりと滴り、額には脂汗が滲む。
これほどの威力を弾けるものか。もしヨルナの助けが遅れていたなら被弾は免れなかっただろう。
「しっかりして! 敵は待ってくれない次くるよ!」
生に歓喜し、いますぐにでもへたりこみたい気分だった。
しかしヨルナが発する声が気付けとなってようやく上空に視線を戻す。
死の芳香が鼻の奥をかすめると、ここからが本番だという自覚が自然と湧いてくる。
これが本来あるべき形なのだ。いままでミナトの経験してきた修行とはまったく違う。本来のDeal of life……命の取引。死闘。
一党らは投射される鋼の羽根を躱していく。
「かぁぁうっとうしいなー! 頭かち割ってやっからとっとと降りてこいってんだーぁ!」
「アドヴァンテージをみすみす捨てるとは思えないけどね!」
上空より轟々とした音を発しながら青銅の礫が降り注ぐ。
それらが着弾するたび岸の砂が爆ぜ、飛び散った。
敵の攻撃は一辺倒。なれど遠距離からの爆撃によく似ている。そのためこちらから反撃する術はない。
「どうする!? このまま敵の弾切れを待つのか!?」
「うーんそれも手だけど……ここは自然様の手をお借りしようかな」
「自然様?」と。ミナトが問う前にヨルナは動いていた。
彼女は敵影に背を向け、腰のポーチから簡易な布の帯をひっぱりだす。
向かう先には踏み越えてきたはずの大量の岩が転がっている。そのなかからこぶし大の石を拾い、布に巻きつける。
「それ、投石紐か!?」
「つまり地上から敵さんへとっておきのプレゼントだねっ!」
ヨルナは岩を巻いた布をくるくると回してから投じた。
遠心力により高速となった岩は、上空の敵影目掛けて吸いこまれるように奇襲する。
敵のほうもまさか地上から岩が降ってくるとは思うまい。無防備でこちらへの攻撃をのみに執着しているようだった。
そしてヨルナの放った岩が敵影に直撃する。と、湖へカァァンというなにやら堅く高い音が反響した。
一瞬だけ遠巻きながらに敵影がふらつくのがわかった。しかしすぐさま体勢を整え、いまだ空に君臨しつづける。
「ふ、防がれたというよりそもそも効いてないっぽいかなぁ~?」
「空飛んでるくせにどんな硬さしてるんだよ……と、次がまたくるぞ!」
異質さに呆れている暇もない。
再度敵からの重き羽根による絨毯爆撃がはじまってしまう。
(区切りなし)




