264話 種族格差《Unbreakable》
「最近お家に帰ってこないと思ったらドワーフ領にいたんですね」
声と気配だけのみで彼女だとわかる。
だから振り返る必要さえはなかった。
偶然ここへ辿り着くということもあるまい。おそらくはレティレシア辺りに尋ねたのだろう。
「私に内緒で秘密の特訓とは精がでるじゃないですか」
リリティアは音もなく金色の三つ編みを揺らす。
木陰を潜るようにして修練場の雑木林に姿を現した。そうしてヨルナの隣に立ってふむん、と繊細な喉を霞ませる。
「作品を手掛け慣れているドワーフを師に選んだんですね。しかし逆にいえば決してついていけぬ修羅の道を歩むことになります」
「彼すごいよ、ちび師匠の手ほどきでどんどん強くなってる。正直ちょっと引くくらいに、ね」
2人の見つめる森の中心には、苛烈という言葉が相応しい。
誘いの森を無断で飛びだして7日が経っていた。
この7という数字を短いとするか、長いとするか。実際にはどちらでもないというのが正しい。
定命を迎える種にとっては意味ある日々。しかし限りのない命をもつ種にとってみれば瞬くほどに短い。
龍である彼女にしても、霊である彼女にしても、さほど変わりある日々ではない。
だが、ふたりの見つめる先に在る者にとっては刻む1繋ぎでさえ差し迫る。
「人という脆弱な肉体であのアクセナに付き合えていること自体が驚きの賜物ですね」
「ここ数日の間で彼のとった睡眠時間はおおよそ6時間くらいだったかな」
ヨルナは呆れたように肩をすくめた。
もうすでに止めようという気概さえ見せようとしない。
事実止められぬのだ。走りだした猪が地を駆け貫くのと変わらない。
「動きが鈍ってんなー! 疲れたからって敵は待ってくれねーんだー! 逆に相手にとっては好機でしかねーな!」
アクセナから繰りだされるのは容赦のない乱打だった。
小回りの効く小さな体で全身を使い大斧を打ちこんでいく。
回転と体重と武器重量のすべてが武器に乗せられ、1打1打ぜんぶが渾身と化す。
「なんという集中力。私がここにいることでさえ意識の外、勝利すること以外世界に留めようとしていない」
リリティアはこくりと細い喉を鳴らした。
まるで信じられぬものでも見るかのよう。金色の眼差しが1点へ釘付けとなっている。
打ちだされる決死を躱す。弾く、いなす。
「……ふっ!」
意表を突いた完璧な反攻だった。
が、虚しくも火花が散るだけで斧の柄に弾かれてしまう。
「キシシ♪ 当たったと思ったかーあ?」
「…………」
「いまのはワザと隙を作って狙わせてやったんだー。つまりおめーはあちしの手のひらで踊ってるに過ぎ――おっと」
僅かに空いた間へ果敢にも飛びこむ。
そしてときには転げてでも反撃に打ちこんでいく。
「いいないいなー! 不意打ち卑怯騙し討ちは戦の華ってもんだー! ようやくわかってきたじゃねーのなー!」
斬り結べどもいまだ師の影は遠い。
だが着実かつ周到に段階を踏んで突き進む。
そんな彼の異変に強者であるリリティアが気づくのは当然のこと。
「……なんという研ぎ澄まされきった純粋な闘争心。とても不眠不休とは思えない完成度です……」
「きっと僕の存在さえ彼の世界には映っていないだろうね」
決闘相手が視察しているというのに刹那の間でさえ脇目も振らない。
腫れぼったいクマのできた1点を注視するのみで感情が読みにくいほど座っている。
睨むように細められた瞳には光が宿っておらず。ただ深淵に侵食されていた。
どうみても精神的な極限を意味している。普通ではない。いつ倒れても不思議ではない限界状態にあった。
「なんという集中力でしょう。しかもそれを四六時中途切れさせないとはまさに死に物狂いですということですか」
彼の変化にはリリティアでさえ舌を巻く。
それらの異常のすべてが勝利という執念に向かう。つまりリリティアへの周到な覚悟を意味する。
常に彼を傍らで見守りつづけていたヨルナでさえ驚愕の渦中だった。
「本気で自分を変えようと全力で藻掻いてるんだよ。過去の自分を弱く惨めと位置づけ踏み台にしてまで進もうとしている」
リリティアの視線が「……そうですか」険しさを帯びた。
関心とも違う。怪訝さ、あるいは異常を見せつけられる、冷ややかさ。
そうやっている間にもあちらの修練光景は苛烈さを増していく。
アクセナは弟子がどれだけ悪戦苦闘しようとも、迷いと躊躇すらない。
「おめーの死ぬ気なんざこのていどかー! 救いてーっていう仲間の価値なんてしょせんそのていどってこったなー!」
貶めるような意図はない、激励だった。
しかしたちどころにミナトの折れかけた膝へ気力が入る。
「――っ! まだやれるッ!」
血濡れた柄に再び握力を籠め握り直す。
立っていられるのが不思議と思えるくらいだった。衣服も身体もボロボロで見る影もない。
この世界で与えられた厚く丈夫な――向こう10年はもつであろう――農夫の専業服も汚れとほつればかりが目立っている。
不眠不休でさえ微塵と霞むことない精神力は、異常と評して然るべき所業。それらと平行し、描かれる剣戟の鋭さは過去と比類なき領域へ達しつつあった。
「まるで脳を誰か別の者と入れ替えたかのような変貌ですね。あるいはいまの鬼気迫る彼こそが本来の性質なのでしょうか」
「おそらく後天的な才能だと思う。なんらかの凄まじい境遇が彼自身のもつ性質や性格を塗りつぶしているんだろうね、きっと」
彼の変化は普通ではなかった。
限界を青天井に超えていくことへの異常ともとれる歪さ。
日常を送っている限りでは好青年だっただけによりアンバランスさが顕著となる。
「だー! おめーいま一瞬あちしの攻撃を予測するのミスったなー! あといちいちカマカケに全身ヒクつかせる癖やめろっていってんだー!」
「次で身体に教えこませるッ! だからもう1回ッ!」
「覚えのわりぃ弟子だーな! 次ミスったらケツひっ叩いてやっかんなー!」
より迅速かつ強靱に斬り結んでいく。
師であるアクセナに叱咤されながらも、彼は確実に道程を経ている。
修練を通して感覚と反射それら戦闘技術を研ぎ澄ませる。得られるすべての経験を吸収しながら血肉に刻みつける。
いまだ彼は弱者でしかない。しかしこの光景を見てこき下ろせる者は強者にあらず。
常に弱者を嘲笑うのは、別の弱者だ。それも手の尽くしようのない真の弱者。
そんな光景をよそにヨルナは、整った眉を渋めながら軽い吐息を吐いた。
「彼には美味しいご飯と穏やかな生活を望んで欲しかったんだけど……あれじゃあさすがに僕らの野望は叶いそうにないかな」
「まったくまったくですよ。あれだけ手間暇を端正に籠めて迎えてあげたのに無駄にされてしまいました」
「そのはずなのになんでちょっと嬉しそうなんだい?」
「それはまあ第1の師として弟子が私に全力なのは誇らしいですからね」
ふん、と。リリティアは平坦で起伏のない胸を張って背を反らす
本気を見せられ否定なんて出来るものか。
着実に牙を研ぐ。決闘相手の首筋に歯を立て噛み千切らんと猛進する。
だが、そうではない。根本的な解決に強さなんてものは些細なものでしかない。
なにしろ彼は人である。どれほど努力を重ねたところで最小値の時点で劣る。
「…………」
灼炎の輝きを得た幼き瞳が彼を見つめたまま固まっていた。
そんなモチラにリリティアは身を屈めて視線を合わせる。
「モチラさんも元気そうでなによりです。でも勝手にいなくなってしまうと私の監督不行きが焔龍にバレてしまいます。なのでほどほどにお願いしますよ」
笑顔だが声色にはちょっとだけ怒りの感情が現れていた。
とはいえ躾ていど。心配というよりなにもいわずにでてきたということへの注意に近い。
しかしモチラはリリティアのほうを見ようともせず。ミナトの鍛錬を見つめつつけている。
そして彼女はゆっくりとした眼差しでリリティアのことを見上げた。
「きっと勝てないよ? このままだとミナト死んじゃうよ?」
残酷なあどけなさだった。
しかしリリティアは、「そうですねぇ」とたおやかな笑みで同意する。
そっと白い手で燃えるような赤い髪を撫でた。
「幼き貴方の目から見ても一目瞭然でしょうねぇ。なにしろ貴方もまた私たちと同様に龍の血を引いているんですから当然の疑問です」
「あれじゃあぜんぜん…………強くない。もし強くなっても……ぜったい勝てない」
ルビーの如き赤い眼にじわりと潤みが滲む。
そんな幼き龍にリリティアは母の如き笑顔を絶やさない。
「そうですそうですミナトさんは強くないんですよ。あのていどの小さな成長なんて私たちにとって成長のうちにすら入らないですからねぇ」
「じゃあなんで? どうしてミナトを止めてあげないの? あのままじゃ苦しむだけじゃないの?」
リリティアはモチラを撫でる手を止めた。
しゃがみながら彼女の前髪を横に散らす。
白くふやふやの頬にしっとりと手を添えて正面から視線を合わせる。
「でもねモチラさん。生まれたての貴方は知らないと思いますけど、人という種族は時として道理を翻します」
モチラは目をぱちくり瞬かせ、「ひるがえ、す?」首をこてりと横に捻った。
リリティアは静かに頷いて、つづける。
「翻る道理。過去にやってきた彼の種族は終わりを定められた大陸世界を覆したことがあるんです」
「それってまさか200年前にあったという世界最大規模となった種族間戦争のことをいっているのかい?」
「そういえばヨルナでさえもまだ生まれていないころの話でしたね。あのころの大陸は混沌と不道徳による大変動の時期でした」
リリティアはスカートの裾を払いながら立ち上がった。
遠い影を追うように金色の眼差しを細める。
「大陸に差別心を植え付ける強烈な呪いが蔓延してしまったのがコトの発端です。その冥府よりもたらされてしまった大規模呪いのせいで龍を除く大陸種族が一斉に戦争を開始してしまったんですよ」
古い話ではない。
だが精確に伝わるほど新しい伝承でもなかった。
後の世に生きたヨルナは、脳の情報を洗うように輪郭に指を添える。
「確か……その大陸規模の戦争を終焉に導いたのが異界からやってきた新種族だったんだっけ」
ここルスラウス大陸には世界を救った種族がいた。
それこそが、人間。ヨルナのいう大陸7種に加わった新種族、人種族。
神の介入によってもたらされた未曾有の侵害。大陸種族を巻きこんだ歴史上最も劣悪で最悪な闘争だった。
そんななか大陸世界に堕ちたひとりの人が、いたのだ。
「ところでヨルナはその戦争でもっとも被害を被った種族をご存じですか?」
「……へ?」
リリティアの問いから逃げるようにヨルナの目が泳ぐ。
「あ、あぁ~……ちょっと僕座学はそんなにとくいじゃないんだよねぇ……」
『オマンらヒュームじゃ。もっとも弱きゆえあらゆる種族から圧政を受けた過去がある』
間髪入れず尾を平たく伸ばしたような鈍い音が反響した。
なにもない空間がぼやりと揺ぐ。そこへ大柄で屈強肉体が形作られる。
『生きながらに飼い殺しになったのが過去戦争中のヒュームじゃ。世間知らずが、鍛冶ばかりではなくもっと本を読めぃ』
リリティアは現れた霊体の老父に驚いた表情すら見せなかった。
「おや? ゼトまできていたんです? 物好きですねぇ?」
『えらく懐かしい面々が集いそうな気配がしてのう。ついつい野次馬根性が勝ってしまったわい』
「ふふっ。お久しぶりですね、ゼト。元大陸最高峰の鍛冶師である貴方が元気そうでなによりですよ」
くるり、と。挨拶がてらに華麗な足さばきで回転する。
白いスカートが百合のように広がって金色の三つ編みが襲った。
ゼトは、鈍色の指で白髪髭をしごきながら『オマンもなぁ、リリィや』と鈍重に喉を鳴らす。
ふたりの気抜けた様子に緊張感は皆無だった。気心知れているのが傍から見ても伝わってくる。
ゼトは挨拶もそこそこに白き霞み眼をあちらのほうへと放った。
『にしても……似ちょるのう。あの我武者羅でなりふり構わぬところがとくにそっくりじゃ』
あちら側で繰り広げられているのは、鍛錬だった。
一切休憩をとることなく遮二無二構わない。もはや見守る側でさえ息苦しさを覚えるほど過酷さ。
「おら立てなーァ! 死ぬ気でやらねぇと殺すんだー!」
「ハァハァ、ハァハァハァ……!」
まさに息せき切るといった状態だった。
足下も覚束なければすでに背は腰からへし折れ、真っ直ぐ立つことさえ無理だ。
それでも剣を手放すことだけは絶対にしない。顎先から滴る汗を拭う瞳の芯には闘争の炎が滾っている。
「その昔、滅び欠けた種族の集団を守り抜いた勇ましきものがいました。来る日も来る日も他種族からの襲撃に怯える同種を導き守りつづけたんです」
リリティアはすん、と澄ましながら修練の光景を眺めていた。
「そして戦争が終結すると同時に彼の勇ましき者は姿を消し、歴史の闇へと葬られてしまったんです」
「へ? どうして? そんなすごい偉業をなしたのなら語り継がれるべきじゃないのかい?」
ヨルナはバツが悪そうに身体を傾けた。
「歴史には語られずに空白となった頁の欠け、語られざる虚構というものが多く存在するんです」
『そしてそのどれもが歴史を虫食いの如く喰らわれてしもうた致命的欠陥。語られざるべくして抹消されし汚点っちぃやつじゃ』
重苦しい空気がずしりとのしかかるよかのよう。
ゼトは鉄腕を胸筋お前に構えて鉄球の如く膨れた肩をすくめた。
ヨルナはふたりを包む不穏な空気を察してか唇をちょんと尖らせる。
「その話いまのミナトくんとなにか関係があるの?」
ゼトとリリティアはほぼ同時に『ありすぎじゃ』「ですね」と口をへの字に歪ませた。
互いに一瞥をくれてからふたりは重く閉ざした喉を開く。
『なんせその勇ましきモンちゅーのは種族間の垣根によって裏切られたんじゃ。他種族に怯えた同種によって売られ、そして多くの憎悪とともに肉体を手放した過去をもつ』
「戦後に彼の名はは一部地域で部分的に知れ渡ったんです。しかも彼の守っていたはずの同種は彼の死後に全滅し、彼の名を語るのは彼と戦ったことのある敵側でした」
歴史の影に隠れた英雄がいた。
尽力してなお裏切られ、そしてなにも守り抜けなかった者がいた。
語られることさえなく、しかし彼と戦って生き残った者たちは口々に彼を伝説の勇者と称した。
「その幻影と化した勇ましき者はとある地方の名称を冠してこう呼ばれるようになったんです」
西方の勇者、ルハーヴ。
そう、リリティアははっきりと名を呼ぶ。
ヒュームでありながら大敵と戦い、仲間の手によって朽ちた。勇ましくも悲哀なる勇者は、いまも過去を憎悪を抱きながら棺の檻に囚われつづけている。
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