252話 人の子よ《Humanity》
尻を叩かれたミナトは顔から前のめりになって砂へと突っ伏す。
「いってぇなおいこらァ! オレの尻になんの恨みがあるんだよ!」
フィナセスはしてやったり「ちっちっち」指を振った。
「いまの攻撃成功でさらに半刻攻撃禁止が追加よ。油断していたら禁止時間がどんどん膨れ上がっていくから注意なさいな」
艶然な冷笑とともに旗が1本ほど掲げられる。
手製の不格好な1本こそが勝敗を決するための鍵なのだ。
そしてこうして広大なビーチにやってきたのは、別にバカンスというわけではない。これこそがフィナセス発案による模擬戦闘訓練だった。
いわば剣に固執しない素手での決闘方式となっている。
ヨルナは「ふぅん?」なんて。砂まみれのミナトを眺めながら喉奥を転がす。
「ちょっと彼に助力するにあたって今回のルールを整理したいんだけど、いいかい?」
するとフィナセスは「いいわよー」と気さくに応じた。
「今日から挑戦者であるアナタたちはいつでも時も場所も場合もかかわらず私に挑む権利を獲るわ」
その手には小旗、手製で不格好な旗がもたれている。
さらに三角の布には勝利と描かれている。
「そして私のいまもっているこのフィナ子ちゃん小旗を1度でも奪えれば勝利となるわ」
「じゃあさっきからいってる……はんこく? 30分攻撃禁止っていうのはどういうことかな?」
得意げなフィナセスに対し、ヨルナは覚束ない。
理解に至らない、不明瞭といった感じ。
白い腕を胸の前で交差させながら黒い頭を横にもたげた。
「当然私だってみすみす狙われるだけじゃフェアとはいえないでしょ。だから私からの反撃があって当たり前ってコト。だってこれは模擬でありながらも超実戦形式の戦闘訓練なんだから」
「つまりミナトくんもフィナ子ちゃんから攻められてしまうわけだね。旗を奪えず反撃を受けてしまう、そうやって襲撃に失敗するたび次の攻撃までのクールタイムが発生するということか」
「そのとーり! いまは2回隙を見せたから2回反撃させてもらったということよ!」
非常にわかりやすいルールなだけに完全実力主義だった。
このルール改訂によってオフショット空間のすべてが毎時攻撃可能空間と化しているのだ。
旗を求めて計画的にフィナセスへ戦闘を挑む。開始の合図もないため常時戦闘をしているという感覚に近い。
しかもフィナセスもただ待ち受けるわけではない。
反撃や油断などの隙を見つけてクールタイムを発生させようとしてくるのだ。
ミナトは強く叩かれた尻を押さえながらようやく立ち上がる。
「こっちからいくらでも奇襲闇討ちで攻撃し放題だけど、やるたびにリスクが発生するってことだな」
「ご理解早くて助かるわ。いままでのように無鉄砲に突っこんでくるだけなら私の餌食になってしまうってことよ」
フィナセスは仁王立ちになって幅広の腰に手を添えた。
ヨルナと違って恥ずかしげもない。まるでそれは自信を誇示しているかのよう。
彼女は毛頭負けるつもりがないのだろう。己よりも劣る弱小種族如きに遅れをとるとは思っていないのだ。
さらに旗に描かれた文字は人の共通語ではない。角張ったような抽象的エーテル族の文字で描かれている。
ミナトにも知らぬ文字が理解できるのは、翻訳の道理おかげ。神が大陸世界へ敷いた祝福による恩恵だった。
――勝利を掴みとれ、か……簡単にいってくれるなぁ。
書かれている文字はフィナセスなりの鼓舞なのか、バカにされているか。
ただこの訓練がはじまったことでいままでとはまったく違う現象が起こっている。
なぜなら鍛錬がはじまっているというのに剣を手にしていない。
さらにはヨルナの助力さえ許諾されている。
「とりあえずクールタイムが終わるまでのんびりするしかなさそうだね」
「ああ……フィナ子も率先して攻撃してくるつもりはないみたいだしな。いまのうちに休憩がてら作戦を練っておくとしよう」
数打てば当たるというギャンブルが禁止されてしまった。
いままでのように我武者羅ではこちらが逆に痛い目を見ることとなる。
自動的に頭脳に頼る場面も増えつつあった。クールタイムのうちにどれだけ有効な手段が打てるかの打診が必須だった。
「こっちにスイカ切ってありますから食べてくださいねー!」
と、リリティアの声が聞こえて会議を中断する。
すでにあちらではユエラとモチラが敷かれた布の上で食事中らしい。
砂浜に種を飛ばしながら仲良く赤い果肉を食んでいた。
「ほらほら僕らも食べにいこうよっ!」
「あー……オレは別に腹が減ってるわけじゃないし……」
「頭を使うのなら甘いものが1番さ! ぜんぶ食べられちゃう前に早くいかなきゃ!」
断ろうとするも、うきうきで腕を掴まれてしまう。
甘いものに惹かれるのは蟻と女性の特権か。
「しゃあないな水分補給のついでだし食べてやるとするかね」
「やった!」
なにより屈託のない笑みを見せられてはミナトとて従うしかない。
ヨルナに手を引かれながら、一時戦いを忘れ、スイカのほうを目指すのだった。
…… … ・ … ……
小走りになる2人とすれ違う。
リリティアは金の三つ編みを揺らしながらフィナセスのほうへ向かう。
「それでミナトさんに勝機はありそうですか?」
「戦闘経験を培うための鍛錬なんですけどいまのところはなんともですかねぇ。これじゃあワーウルフの子供のほうが手を焼くと思いますよ」
フィナセスからの返答は、およそ曖昧模糊の範疇から脱さず。それでも希望がないとはいわない非常に優しい回答なのは確か。
「おいこらこっちに向かって種を飛ばすんじゃない!?」
「にひひっ。嫌なら避ければいいじゃないか」
あちらではミナトとスードラの小競り合いが発生していた。
そんな光景をリリティアは愛おしげに眦をさげながら見つめている。
「アナタも優秀な教育者ですね。正直なところフィナ子さんのことを見くびっていたようです」
「いえいえっ。私は彼に聖女様を助けてくれた恩返しをしているだけですからっ」
フィナセスは照れ隠しするみたいに白い頬を掻く。
金と銀。それぞれ異なる色だがどちらも浮かべるのは融和と微笑。
2人は隣り合いながら人の子を見守る。
「いきなり剣を学ばせずセンスを養う訓練を行う。その上ああやって無理をさせぬよう緩急を与えている。これは私では思いつかない画期的な指導法です」
「私だってアナタを追いかけていたからこそわかるんです。どう頑張っても追いつけない果てしない背をいまだってずっと見つづけているんですから」
フィナセスだって、そう。
大陸最強の剣士、剣聖の2つ名に焦がれ憧れるひとりである。
だからこそリリティアもまた彼女を師に迎え入れた。
この身に追いつくため耐えまい努力を欠かさぬ優秀な剣士のひとりなのだから。
「私たち龍族は生まれもっての才覚が凄まじいですからしょうがないですね。それでも諦めずに追いかけてくれるのはほんのちょっぴり煩わしく、嬉しいというものです」
そこにあるのは目指す者と頂に立つ者。
どちらも剣を携えながら剣を説く者。
言葉を交わしている間だって「ねぇ剣聖様?」「なんです?」片時も愛弟子から目を逸らすことはしない。
「本当にあの子のことを負かすおつもりですか?」
フィナセスからの問いにしばし間が開く。
いまだ人の子は発展途上であり未熟者の域をでない。
だが結果はわかりきっている。先ほどフィナセスが曖昧にした箇所は彼女なりの優しさなのだ。
あのミナト・ティールという少年は確実に敗北する。どれほどの努力と研鑽を積み上げたとしてこの身には遠く及ばない。
「私……実はとっても迷っているんです」
潮風が白い頬を撫でる。
磯の香りが吹き抜けて粒立った砂に悪戯書きの波紋を描いた。
「きっと娘の選んだ間違いを正して引き継ぐというのが私のとるべき正解なんです」
フィナセスは「……娘?」言いかけて口を閉ざす。
対してリリティアは彼女へ一目としてくれず、つづける。
「でももし娘が家族として彼を送りこんできたのだとしたら……その限りではないと思うんです。きっと……あの子も彼の可能性に信じていたかもしれないのですから」
母として責務をまっとうすべきか。はたまた娘を信じぬくか。
リリティアのなかでさえいまだ明確な答えはでていない現状だった。
もしかしたら最後まででないのかもしれない。曖昧な気持ちのままで葬らねばならぬのやもしれぬ。
死とは終演を意味する畏怖の言葉なのだ。死ねばああやって友とはしゃぐことも、笑うことも、喜怒哀楽を表現することさえすべてが蓋をされてしまう。
そして手を下すのは誰でもない。リリティアである。
「人間たちはもう少しでこの世界がなくなってしまうことを知っているんですかね」
「おそらく薄く勘づくていどにおさまっているはずです。誰も人々に余計な真実を告げていないと思われますから」
間もなくこの神在世界は閉ざされる。
大陸種族ならば誰もが旧知であり、人ならば知りようのない事象だった。
終わりを迎えるのは人が天寿をまっとうしてからかもしれないし、そうでないかもしれない。
しかし半年という猶予よりは遙かに長く生を送れるくらいの時間は残されている。
いますぐ決闘から逃げれば人並みという幸せな時間くらいなら送らせてやれるのだ。
リリティアはちくりと痛む薄い胸にそっと手を添える。
「間もなくこの世界は時の軍勢による聖戦の発生にて主神交代を余儀なくされるでしょう。それでも最後の瞬間まで人間には生きていてほしいと願うのはいけないことなのでしょうか」
「神と神代理による決戦……聖戦、ですか」
聖騎士であるフィナセスにとってはこれ以上ない冒涜だったかもしれない。
しかし現実は予測を上回るほどに逼迫しているのも事実だった。
主神フィクスガンド・ジアーム・ルスラウス率いる天界の軍は、やがて時の軍勢の手により敗する。
敗することにより世界権限が時の軍勢のものと入れ替わる。そうなればこのルスラウス大陸という存在そのものが歴史から抹消される。
これこそが世界の真実である。
神が神ならざる存在であった頃より記されていた、いずれ来たる未来の形だった。
「剣聖様も聖戦発生のさいには天界へと向かうのですか?」
フィナセスからの問いに「ええ」リリティアは肯定の意を迷わず示す。
「イージスの残した蒼力を身に宿して参戦するつもりです」
「ということは聖戦にあの子の蒼き力を……」
たまらずフィナセスは言いかけて口籠もる。
言葉を詰まらせ長いまつげの影を僅かながら伸ばす。
それが正答。リリティアがだしかねている本来在るべき答えだった。
「決闘に勝利し神羅凪に秘められているイージスの蒼を私の身に下ろすということです」
「そう、ですか……」
人のもつ蒼力があれば……もしかしたら。
冥府の巫女があの力に固執する理由は、聖戦に勝利するため。勝利しこの美しく残酷な世界を存続させるためにある。
だが蒼力が手に入ったからといって勝てるというわけでもない。あくまで賭け、BETするぶんのチップを得る行為に過ぎない。
「……どうにもままなりませんね。儚き命1つを犠牲にしても未来を呼び起こせないものとは……」
リリティアは感情のやり場を失って天を仰いだ。
いずれ尽きる鮮やかな空色がいっぱいになって視界に広がる。
そして陽光によって薄ばんだ蒼色と紅色が東と西に分かれ、浮かんでいた。
蒼き月は現主神ルスラウスを象ったもの。もういっぽうの紅の月こそが時の軍勢を象るもの。
その互いが中天にて交わるとき世界は聖なる戦いへと導かれる。
「でもいいじゃないですか、別にいますぐ答えをだす必要はないんですから!」
暗雲を散らすが如き快活な声だった。
リリティアは呆気にとられ隣を見る。
するとフィナセスがにんまりと笑いながら前屈みになってこちらを見上げていた。
「まだまだ決闘まであともう数日あるんですよ! ならそのもう数日の間だけでもいまこうして交わる時を楽しみましょっ!」
くるり、と。回って誰を真似たか短い三つ編みがふらり、揺らぐ。
こちらが青いリボンに対してあちらは赤いリボンを編み上げの根に帯びる。
「ですが……」
次に口籠もるのはこちらの番だった。
彼女の言う言葉は結末を先延ばしにするというだけの行為でしかない。いわば無責任ともいえる。
だがフィナセスはこの期に及んで魅力的な微笑を隠そうとしない。
「だってそれがあの人間の子がだした結論なんですよ!」
「……え?」
「あのミナトという少年は聖女様を最後まで諦めさせなかったんです! そしてあの子は自分の番になってもなお諦めようとはしていませんからね!」
リリティアだって聖誕祭の結果くらいなら聞き及んでいた。
神が提示した条件を、人の子が捻じ曲げてしまったという。
それを冒涜ととるか奇跡ととるか。少なくとも聖都の民たちは天使の降臨を愚と唱える者はいない。
「ではあの人間は私に勝つてるというのですか? 私が剣聖の座を降りたことで大陸随一と呼ばれるようになったアナタでさえ足下にも及ばぬ相手に?」
彼女を見つめる金色が烈火となって染め上がった。
龍が本来宿す炎の色である。感情が昂ぶった際に浮きでる本来の在り用。
しかし龍の逆鱗に触れてなおフィナセスはたじろぐ様子はない。
「そもそも勝敗を決めるのは私や剣聖様じゃありませんもん。だから私たち如きの一存で彼の突き進むべき道を閉ざせはしませんよ」
「では、っ! あのまま無益な労の果てに朽ちろというのですか! そしてこの手でその生を終わらせてしまえとアナタはいっているんですよ!」
我慢ならなかった。
彼女の飄々とした対応に腹を立てているわけではない。
なにが。
自分が、だ。
いつまでも揺らぐ己の未熟さがここ数日なによりも許せなかった。
だからこうして感情を顕わにするし、声だって裏返す。ままならぬのは己が心であることをリリティア自身が誰よりも理解していた。
こんな辛い思いをするのであればあの瞬間に首を落としてしまえば良かった。口にはださずとも残酷な結末を幾度と脳裏に過らせたことか。
「……勝てませんよ、人如きで私には決して勝てません……」
リリティアは俯いて前髪の奥に緋色を隠す。
苦心する気持ちを閉じこめるみたいに拳を震えるほど握りこむ。
「でも彼自身はそう思っていないんですよね」
フィナセスは、「ほらっ」とあちらを指さした。
白く長い指の示す方角を見ると、1人。
なにやら決意めいた重たげな足どりでこちらにむかっていきている。
彼の背の側には目を剥くほど驚愕を浮かべる面々が固まっていた。
「リリティア! フィナ子! 2人にどうしても聞いて欲しい頼みがある!」
あちら側にいてなにかがあったのだ。
そのなにかがこうして彼を突き動かしていることは明白だった。
そんな勇壮ささえ感じてしまいそうな威風堂々とした佇まいに、リリティアはようやく見つける。
――ああ……そういうことですか……だから私はあのとき剣を振り下ろせなかったんですね……。
あれほど迷い悩んでいたのが嘘のよう。
ここに立つ、泥臭くも決して諦めない1人こそが、そう。
「オレをもう1度あの場所に導いてほしい!! 冥府の巫女の住まう棺の間に連れて行ってくれ!!」
不器用なのにひたむきで、真っ直ぐ。
彼の存在そのものがリリティアの求めるひとつの答えだった。
――ミナトさん……イージスにそっくりじゃないですか。
いつか世界を旅立った我が娘によく似ていた。
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