234話【VS.】傑作級サキュバス ビヒラカルテ・ノスト・ヴァルハラ 3
「ご……ごめんなさい?」
カナギエルは凄まじい剣幕で捲し立てられ棒立ちとなってしまう。
天使とはいえこうなっては叱られた子供も同然だった。
「あぐっ!?」
その時である。
2人のすぐ横に小さなものが勢いよくごろりと転がった。
一瞬なにかを疑いかけて見れば、それは白いローブに血染みをびっしりとこびりつけている。
そうして藻掻き喘ぎながら己の手放した大鋸へと手を伸ばそうとしていた。
「ミーナ!?」
カナギエルはたまらずミナトの腕から抜けでる。
そうやって重症を負ったミナザエルの元へと駆け寄った。
「そんなッ!? ミーナがここまで押されるなんてッ!?」
「……アイツかなり強い! 天界に襲来する他の7色獣と……まるで桁が違うわ……!」
あの僅かな間だけで如何ほどの攻撃を受けたのか想像できるわけがない。
すでに呼吸も絶え絶えで残息奄々を地でいく状態となっていた。
しかしそれでも彼女の気概はなおも折れていない。
「ま、だ……ワタシが、ここで倒れるわけにはっ!」
金色の頭をふらふら揺らしながら立ち上がろうとする。
小さな身体をカナギエルに支えられながら大鋸を杖代わりに地上に降り立つ。
しかしダメージでいえばかなりのもの。戦闘継続可能にはどうあっても見えない。
呼吸も荒く、ときおり血を吸って咽せてしまう。額が切れて血が片目を潰しているし、服の至る部分からも出血の跡がおびただしい。
これ以上戦闘行動を行えば意識の途切れとともに死んでしまうかもしれない。そう、周囲に彷彿とさせるくらいには限界だった。
「もしお願いするっていうのならもう1戦くらい交えてあげてもいいけどぉ?」
これほどの仕打ちをミナザエルに与えてなお、敵は余裕綽々。
ビヒラカルテは宙に腰を下ろしながら白い脚を組んで浮遊している。
「今度はそっちのまだ壊れてないほうを相手してあげるぅ。その間に壊れかけのほうを始末しちゃっても面白そっ」
嘲笑を深めながら艶めかしい舌を唇に這わせた。
即座にカナギエルが前に躍りでてその身で庇いに入る。
「させないっ!! 痛みを引き受けるのはボクの役目だっ!!」
もはや冷静さを欠いているに等しい。
とり乱しかたが著しく、錯乱にも思えるほど。
勇敢な姿はさながら傷ついた妹を守る兄の風体だった。
「これ以上ミーナを悪戯に苦しめるようであればボクが許さないっ!!」
「ダメよ冷静になってカーナっ! ワタシのことは見捨てていいからもう少しだけ時間を稼いでっ! そうすれば敵の作りだした空間が崩壊するはずだからっ!」
怒りで我を忘れるカナギエル。
それを縋るようにミナザエルが止める。
幼き見た目通りの未熟だった。とても戦闘継続が可能とは思えない。
しかし敵は喧々諤々とする双天使を甲高く一笑する。
「キャハハ! 2人してえっぐい顔すんじゃん! はじめて見たけどそれが美しき兄妹愛ってわけか!」
ビヒラカルテは狂気を浮かべながら「きっしょ~!」指をつい、と立てた。
するといつしか消滅していたはずの金杭が彼女の周囲に出現しはじめる。
「3級天使如きが束になっても傑作の私様に勝てるわけないっしょ!」
瞬速の秒針がひしめく壁の如く連なっていく。
おそらく錯乱したカナギエルは逃げない。ミナザエルも逃れられる状態ではない。
しかも金杭の数は増し、敵は明らかにトドメを刺しにきている。一目瞭然だった。
だが、双天使のおかげで十分な時間が稼げている。与えられた時間で心を整え、呼吸を止め、深くまで没入していた。
こちらの準備が終えられていることにビヒラカルテもはたと、ようやく気づく。
「で、そっちの人間とやらはなにしてんのかなぁ~?」
木製人形のようにくったりと横に倒し、目撃する。
影の落ちた道化の無表情に優美な7色瞳が絢爛と灯っている。
「…………」
ミナトは構えていた。
片膝をついて反れぬよう腰を据える。左手を前に突きだし照準を合わせる。
番えるのは、ヨルナに用意してもらった骨剣。肩を上げてフレクスバッテリーの先端にそっと添える。
黒き双眸はしかとビヒラカルテを水平に直視していた。
「帰るつもりならなにもとらずにさっさと帰ってくれ」
静寂をまとながらビヒラカルテに提供する。
一世一代の賭けだった。彼女は先ほど戦いを望まず帰るといっていた。
それが本当であればこの交渉は成り立つ。これは取引である。戦いをつづけるというのであればこちらだって黙ってはいないという意思を示す。
「じゃないとオレもお前を撃たなければならない」
「なにそれなにそれェ!? ってかまさか私様のことを脅してるつもりなのォ!? だとしたら脳みそクッソエグいことになってんだけどッ!?」
いってみればこれはどちらが先に抜くかの荒野の決闘。
あちらが放つという動作をする直前に、《亜轟効果》で動作そのものを潰す。
「……ふぅぅ」
瞬きを止め意識を極限まで引き上げる。
呼吸はなるべくゆっくりと。照準がブレぬよう腕を棒の如く固定する。
荒技であるが、やるしかなかった。こうすることでしか、なにも守れないから。
「ってか……マジでやんの?」
覚悟が伝わったか、ビヒラカルテは笑みを閉ざす。
天へ仕向けた指をくるり、くるり。回しながら宙で頬杖をつく。
「大マジだ」
「でもそれじゃあアンタかんっっっっぺき死ぬよ?」
「それでもだ」
唾を呑もうにも、ままならない。
とうに口のなかは緊張でカラカラに乾いてしまっていた。
だから空気のダマを飲み干して構え、黒色と7色が一直線に睨み合う。
『引け、ビヒラカルテ』
心臓が止まるかと思うほどに意表を突かれた。
色褪せた世界へどこからともなく尾の長いエコー掛かった声が響き渡ったのだ。
この場には決して存在しない。びりびりと空気を揺らがすが如き低音。
それがビヒラカルテの名を呼んだ。
「その声バハちんじゃん! なになに、ずっと私様のことを見ててくれたってこと!」
『生まれたての未熟な貴様では間もなく時空滑走が解ける。遊ぶのは大いに結構だがこちらまでをも煩わせるな』
「はいはーいビヒちゃんいまから帰りまーすっ! ってかさりげに未熟とかいってディスんなしー!」
どこからともない声との気の抜けるようなやりとりが繰り広げられた。
そして次の瞬間ビヒラカルテはちらりと、なおも構えているミナトを一瞥する。
「じゃーねっ! そういう生きかたもいいけどさ! そんなに弱いと長生きできないぞーっ!」
まるで友に別れでも告げるかのように手を振った。
フッ、と。ビヒラカルテの姿が跡形もなく消失する。
遅れて彼女の周囲に浮いていた金杭ばらばらと鉄音を立てて地べたに崩れ落ちた。
モノクロの世界に落ちた金杭は燐光となって消えてしまう。そこにまるでなにもなかったかのような喪失感のみを残して。
「……はぁぁぁぁぁ」
これほど生を実感したことはない。
張り詰めた緊迫感のなかに長く留めておいた肺の息をうんと吐きだす。
「もう一生2度と会いたくねぇ!! あんのクソサイコパス昆虫翅女がッ!!」
生きているのがまるで奇跡であるかと思えるほど。
それほどまでに高圧縮された濃厚な死を感じた瞬間だった。
ミナトはおもむろに未だ凍えつづける手へ視線を落とす。
――この世界の連中が本気をだしたら……いまのオレじゃ勝てないのか?
震えこそが己の弱さの象徴だった。
天使によって救われた。だがその直前1度だけ確実な死が生の真横を横切っている。
絶対に勝てない相手へと挑む愚かさと、本能的な恐怖。そして真の死の味を知ってしまう。
――もし決闘の時も同じ状況になるのなら……オレは間違いなく負ける。
この身は弱すぎる。
そう、傷ついた天使たちに心を痛めなが深く胸に刻む。
ほどなくして時を止めた世界は亀裂を生じさせる。撃ち抜かれたガラスのように幾数千もの断片となる。
ミナトは敗北を痛感しながら移送世界とやらから元いた時間軸へと戻されたのだった。
…… … … ……




