232話【VS.】傑作級サキュバス ビヒラカルテ・ノスト・ヴァルハラ
鈴を振るような笑い声が色の抜けた世界へ響き渡った。
突如現れた女はあまりにも軽薄だった。
それゆえに底が一切読めない。実力も、力の差でさえ世界と同じく灰色である。
ミナトは恐れを覚えながらも浮遊する女を睨みつけた。
「つまりお前がハイシュフェルディン教をなかから操っていたということだな」
ザナリアはハイシュフェルディン教を自分の父親じゃないとまで言い切ったのだ。
だが娘の敬愛する父親像は崩れ去った。手段を選ばぬ振る舞いに軽蔑までしていた。
元凶がこの女であるならばそのすべてに説明がつく。娘と父を切り離した正真正銘の害悪。
「お前がハイシュフェルディン教を暴走させて聖誕祭を台無しにしたんだな!?」
「ぶっぶぅ~! はっずれぇ!」
ビヒラカルテは軽やかにくるりと宙返りを決めた。
まるで無重力。謎の力で浮遊しており水中のなかみたいに背を丸くしながら両足を遊ばせる。
「私様はぁ、あのおっさんの隠れた欲望に呼ばれたから手を貸してあげてただけだしっ」
「欲望?」と、問い返すまでもなかった。
先ほどハイシュフェルディン教の口から雪崩の如くでてきたばかりではないか。
病気による妻の死。それと母を知らぬ娘への悲哀。死を唄う男の悲鳴。
「信仰と祈りで上書きされていたけどアレがあのおっさんの本当の声よ。それをバカだから押さえつけながらブザマに生きていた。そしてその醜く濁った欲望の音色に私様は呼ばれたってわけ」
「そしてお前は悪魔のように囁いたっていうのか? ハイシュフェルディン教の心の隙を埋めるように?」
「違う違う聖誕祭で聖女を奪うのはおっさんが思いついたのよ。私様はただ欲望のタガを内側から100倍くらいに底上げしてあげただけし」
ビヒラカルテの素振りは無邪気そのものだった。
一切悪びれた素振りもない。どころか手助けしてやったとばかりに豪語する。
胸くそが悪い。それに尽きた。
ハイシュフェルディン教ははじめから己の欲望を実行するつもりはなかったのだ。それをビヒラカルテは内側から操った。
誰よりも信心深い男は祈りに没頭することで現実から目を背けた。そして胸深くへと欲望を押しこめてしまった。
そこにこの女が飄々と現れ時間をかけてゆっくりと彼を壊したということ。
ビヒラカルテはひと仕事終えたとばかりに伸びをする。
「んんーっ! 生まれてはじめてのお祭りに参加できたわけだし超満足だわぁ!」
赤子のように丸くなりながら腹を抱えて笑う。
見ず知らずの人生を狂わせたという罪に意識さえなく、ただ身勝手に。我が儘に。
「バカが暴れ回るのも、それを手伝う連中も、敵対する気の毒な種族どもも! 全員私様の掌の上で激踊ってくれるんだもんさっ!」
玩具が壊れるまで遊ぶ子供のよう。
目に涙を浮かべて手を叩きながらケタケタと愉悦を奏でる。
ならば怒りを隠す必要はもうなかった。
「だからテメェはなにが目的でこんなゲスいことしてやがる……? どれだけ多くの種族が聖誕祭に夢を賭けているのかわかってやってるんだろうな……?」
ミナトは煮えくり返るほど噴出する感情をを噛み締める。ただ目の前のゲスを威嚇するように低く喉を唸らせる。
もはや弁明や釈明を求めるだけ無駄だった。だからせめて元凶と真実を追究するのみ。
この女はやってはならないことした。ハイシュフェルディン教が狂乱しながら叫んだのは父としての愛だった。
妻と娘に与えられるべきだった愛そのもの。それをこの女は利用し、捻じ曲げ、嘲笑う。
「アーッハッハッハッハッハ!! なにマジギレしそうになってんのってかアンタ別にかんけーないじゃん!! 親ってわけでもないどころか敵対相手だったじゃん!!」
「物事には真っ当な道理ってもんがあるだろ! それを無視して踏みにじるようなマネをするなら獣となにも――」
その時ミナトの頬辺りを風が通り過ぎた。
遅れて裂けた頬から鮮血が糸のようにたらりと肌を濡らす。
「――ッ!?」
攻撃されたのだと気づいてから慌てて腰の剣を引き抜く。
構える。も、防御の姿勢をとらざるを得ない。
――なんだいまの、っなにも見えなかっただと!? まさか弾丸か!?
背筋がゾッと氷つくような悪寒が全身に迸った。
間違いなくそれは攻撃である。しかしその攻撃そのものを視覚認識出来ない。
おそらくは同じことをもう1度やられてもまた同様。変わらぬ結果を生むという確信まであった。
「ところでさぁ? なんでアンタだけ私様の世界に入ってこられてるのよ?」
ビヒラカルテはぐったりと首を90度ほど横に寝かせる。
そしてつい、としなやかな指を振った。
するとその動きに合わせてなにもない空間から金色の棘のようなものが出現する。
「時空滑走は時空そのものを僅かにずらして移送してんだけど? それを天界の種族ですらねーのに永久現世から外れてくんのって意味わかんなくない?」
くるりとしなやかに身を捻るよう翻った。
細く滑らかな四肢を滑らせて泳ぐように灰色世界をたゆたう。
「つーかアンタって世界の枠外からやってきた人間だっけ? キャハッ、マジウケるマナの欠片も感じないしっ!」
彼女は自由だった。
重力にさえ縛られず。おそらく世界にさえも。
そうやって人魚であるかのように両足を羽ばたかせながら身体全体で8の字を描く。
「……ッ!」
勝てないということだけが確かだった。
ミナトは瞬きさえ止める。鼻横を痙攣させながらる。敵と定めた相手を前にしてなお動けずにいる。
動いているのは肺と頬に伝う血流のみ。しかも思考さえ氷つく。
先の1撃で相手が絶対的に強者であることを教えられてしまった。
そうしている間にもビヒラカルテはたゆたうようにミナトのほうへと向かってきている。
「ふんふん?」
矯めつ眇めつ。
デタラメな挙動でミナトの全身を四方八方から興味深げに観察していく。
「なんらかの強力な魔法でマナを瞬時に体内に吸収してるってわけねっ! だから時空滑走の影響もまるっと無自覚に無効化しつづけてんのっ!」
喧々とした耳障りな笑い声を聞いてなお動けない。
思い知らされる。勝負どころか命を守るために抗うことさえ出来ぬ相手がいる。
数多くの死を渡り歩いた。数多くの死を隣で見てきた。しかしそのどれもがミナトに死を実感させるものではなかった。
「マぁジ存在そのものがキモしろなんだけどっ!」
ただその鼻先が触れるほどの眼前にある残虐な冷笑を前にひれ伏す。
思考が、脳が、心が、この敵には抗えぬと吠えている。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……!」
すでに全身の毛穴が開ききって汗をしどと吐きだしていた。
充血した目は開いているようで見えていない。剣を構えていても振ろうとなんて思えない。
ミナトはいま活殺のキワに立たされていた。この女の機嫌しだいでいつでも生が終わる。
なにもない世界で。ただ1人だけ。灰に染まった色のない虚空にて敢えなく潰えるのだ。
「……んへ?」
その時だった。
灰色の世界を光が横薙ぎに切り裂く。
ミナトが意識するよりさらに直前にビヒラカルテはそれを迅速察知し躱す。
ごう、という風とともに吹いたのはさながら閃光だった。
そして明滅が閉じると、2つほどの小さな影がミナトと敵の間に佇んでいる。
「やっぱりこの聖都辺りに潜りこんでいたわね、カーナ」
「うん、1匹だけ妨害者が現れるっていうルスラウスさまの予言が見事に当たったね、ミーナ」
そういってから2人は無地の仮面を外して投げ捨てた。
「あれってたぶん時の軍勢のなかでも傑作級よ。気を引き締めつつ注意してかかるべきだわ」
「でも2人ならなんとかなるかも。きっとそこまで予言してのボクらを大陸に遣わしたんだよ」
立っていたのはミナザエルとカナギエルの双天使たちだった。
奇襲を図った証拠に2人の手には特徴的な武器がもたれている。
少年のようなこざっぱりとしたカナギエルの手には、ダガー――ではない。おそらく枝切り鋏を思わしきものを両手に1本づつ。
もういっぽうの愛らしい少女、ミナザエルの手には、尋常ではない。背丈以上もある巨大な鋸を振りかざす。
「ミナザエル……カナギエル……!」
青ざめきったミナトの前に現れたのは、天使だった。
そんな2人はくるりとこちらへ振り返る。そして慈愛と寵愛に満たされた満面の笑みを広げる。
「もうワタシたちがいるからここからはもう安心して。アナタがヤツを留めてくれたおかげで時空移送に追いつけたわ」
「キミたち人間はボクらにとってお客さんなんだ。それにはじめて対等な位置からボクらを叱ってくれた大切な友だちなんだよ」
そういってミナザエルとカナギエルは手を繋ぎながら両翼をいっぱいに広げた。
しかし奇襲にはどうやら失敗だった。
カナギエルは距離を置いた場所でにまにまとした笑みを浮かべている。
「即行退散するつもりだったのに超オモロなことになってんじゃん! なにそれなにそれもっかいやってみせてよ!」




